芭蕉の面影が今も残る生誕の地で芭蕉に出会う伊賀上野歩き

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江戸時代の俳人、松尾芭蕉のふるさと・三重県伊賀北西部の伊賀地域は、周囲を山で囲まれた盆地です。鄙びた山国で生まれ育った芭蕉は、29歳で江戸へ旅立ちました。芭蕉が生きた時代から300年以上たつ今も、ふるさとには「芭蕉さん」があふれています。不朽の名作『おくのほそ道』へと結実した芭蕉のルーツを求めて、旅にでました。

多彩な歴史と文化が充満する城下町・伊賀上野。数ある旅のテーマのうち、今回は芭蕉うぃ中心にプランを立てました。伊賀鉄道上野市駅前、高台にすくっと立つ芭蕉像。杖をつき、風に吹かれるその姿は、漂白の俳人そのもの。顔の表情にも厳しさがにじんでいます。

まずは芭蕉翁生家へと向かいます。伊賀上野城の東、約800mの町中、当時は町屋と下級武家屋敷、農家が混在する赤坂町に、安政元年(1854)の地震で改築したままに今も庇の低い格子造りの生家が残っています。芭蕉の父松尾与左衛門が柘植から移住、兄の半左衛門がそれを受け継ぎ、明治時代まで松尾家が住んでいました。松尾芭蕉は、正保元年(1644)、松尾与左衛門の次男として生まれ、29歳まで伊賀上野で過ごしました。

土塀で囲まれた、古い木造家屋の生家前に芭蕉の句碑が立ちます。『古里や臍の緒に泣く年の暮れ』芭蕉44歳、久しぶりに帰省し、兄たちとの尽きない思い出話のなか、忘れていた臍の緒を見つけ、亡き父母を思い出し涙したという一句です。芭蕉は江戸へ出てからも、帰郷の度にお兄さんが継いだこの家に逗留しています。

生家は間口が狭くて奥行きの深い、うなぎの寝床。潜り戸を入ると、左片袖通しの土間が裏庭までつらぬき、井戸や流し、竈があり、草鞋も吊るされていて、まるで旅先から帰った芭蕉を訪ねてきたような気分になる。坪庭に面した店の間から三間続きの20畳の座敷や漆喰が伊賀地方独特の「鼓繋ぎ」の土蔵があります。

裏庭には芭蕉の勉強部屋でもあった釣月軒があります。納屋のような土間と6畳ほどの建物ですが、文机が置かれ俳人好みのわびた佇まいです。

ほのかな窓明かりと行灯の光の下で筆を走らせていた若き宗房(芭蕉)の姿が偲ばれます。芭蕉は幼少から藤堂藩伊賀付の5000石の侍大将・藤堂新七郎家の嗣子主計良忠(俳号蝉吟)に仕え、俳諧を学び、当主の没後は、京都北村季吟(貞門俳諧)へ遊学したといわれています。そして生前自著として刊行した唯一の出版物『貝おほひ』を寛文12年(1672)正25日ここで編集し、志を抱いて江戸へ立ちました。その後も6人兄弟の次男である芭蕉は、帰省すると母屋ではなく、ここで起居したといいます。

また庭には、元禄7年(1694)7月盆会のために伊賀に帰った芭蕉は生家の裏へ伊賀の門人たちが建ててくれた新庵に入り、8月15夜にわたましの名月で観月の句座うを催したという無名庵跡があり『冬籠りまたよりそはん此はしら』の句碑が立ちます。「無名庵」は伊賀の芭蕉五庵のひとつです。

生家の近く、「愛染さん」の名で親しまれている愛染院は、文治建久年間(1190年頃)に醍醐寺の憲深僧正がこの地で後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し、平癒されたことにより勅によって遍光山愛染院願成寺号を賜り、日向の法印鏡覺阿闍梨を開基とし開山しました。天正9年伊賀乱の火兵で焼失も寛文年間(1660年頃)法印實恵が再興し現在にいたっています。山門の右側には自然石で「芭蕉翁故郷塚」と刻んだ芭蕉おきなを模した石碑があります。俳聖松尾芭蕉家の菩提寺です。

故郷塚入口の柴門の傍らに「家はみな 杖に白髪の 墓参り(続猿蓑)」の句碑が立ちます。元禄7年の夏、郷里の兄の招きによって7月10日帰郷。菩提寺の愛染院において営われた盆会に参列された時の吟です。

境内には茅葺き屋根の小堂の中に芭蕉の遺髪を収めた故郷塚があります。芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日大阪市南御堂花屋で没(51歳)。遺骸は遺言により大津市膳所の義仲寺に葬られましたが、訃報を受け、翁の臨終に馳せ参じた伊賀の門人、服部土芳・貝増卓袋は遺髪を奉じて帰り、愛染院の藪かげに埋め、標の碑を建て故郷塚と称えました。碑は高さ約90cmの自然石で門人服部嵐雪の筆により芭蕉桃青法師と彫られています。

旧伊賀街道を通り、芭蕉が江戸出立の前、自ら署名出版した処女句集『貝おほひ』を奉納した上野天神宮に立ち寄ります。『貝おほひ』は「三十番俳諧合」というごとく芭蕉が郷里の上野の俳諧士の発句に自句を交えて、これを左右につがえて差十番の句合とし、更に自ら判詞を記して勝負を定めたものです。書名は遊戯の「貝おほひ」の「合わせて勝負を見る」ところによったものです。

傍らには45歳の元禄元年、郷里、薬師寺の句会で芭蕉が詠んだ「初桜 折しも今日は 能日なり」の句碑が立っています。

さらに寺町通りを抜けて上野の市街地のはずれに、芭蕉の弟子の一人、服部土芳が作った蓑虫庵があります。芭蕉が愛した伊賀上野の5つの草庵(無名庵・西麓庵・東麓庵・瓢竹庵)のうち、現存する唯一のものです。貞享5年(1688)3月4日庵を開き、些中庵と名付けましたが、3月11日、折しも『笈の小文』の途次、伊賀に立ち寄った芭蕉を招きました。この時芭蕉は一枚の達磨図の画讃に「みの虫の 音を聞きにこよ 草の庵」とあったことから芭蕉の許しを得て、蓑虫庵と改名したといいます。木立の囲まれた風情ある江戸時代の典型的な茅葺きの庵で、原型に近く保存されている。

ここでは、芭蕉を囲んで句会も行わ、また土芳はここで芭蕉翁の遺語を集めて『三冊子』を執筆しています。庭には江戸深川の庵から移した「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、古池塚が立ちます。碑に蕉風開眼をあらわす円窓をうがち、跳躍する蛙を浮き彫りにしています。

芭蕉堂は昭和5年(1930)12月に大津市の義仲寺芭蕉堂に「ならって、庵の所有者・菊本碧山が建立しました。堂内には、芭蕉翁像を安置し、脇侍に土芳の位牌を祀ります。正面に掲げられる「芭蕉堂」の扁額は、正面の「蓑虫庵」の扁額とともに関野香雲による書です。

蓑虫庵に行く途中の上野恵比寿町銀座通りロータリーには、旅姿の芭蕉を模した「みの虫の 音を聞きにこよ 草の庵」の句碑が立っています。

最後に見どころが集まっている伊賀上野城のある上野公園内を一通り巡ります。入口には元禄4年1月10頃藤堂長定亭に伺候した時に詠んだ「やまざとは まんざい遅し 梅の花」の句碑があります。

芭蕉の坐像が安置される俳聖殿は、生誕300年を記念して、戦時中の昭和17年(1942)に地元の政治家、川崎克氏が私財を投じたもので、設計は築地本願寺と同じ伊藤忠太。ユニークな建物は、丸い屋根は笠、八角形の庇は旅衣を、庇を支える回廊の8本の柱が杖と足、俳聖殿と書かれた額は顔を表すといい芭蕉の旅姿をイメージした聖堂です。

俳聖殿に納められている伊賀焼の芭蕉像は、おだやかな顔をしています。

同じ公園内には昭和34年(1959)、俳聖松尾芭蕉を顕彰するために開館した芭蕉翁記念館もあります。芭蕉直筆の資料や句碑の拓本のほか、連歌、俳諧に関する資料を収蔵しています。写真は館内に立つ芭蕉翁像です。

「だんじり会館」横には菅笠を被った芭蕉をモチーフにして『おくのほそ道』尾花沢の中詠んだ、句碑「まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉の花」が立っています。

芭蕉のふるさとでは、たくさんの俳句を目にします。芭蕉の句碑だけでも上野市には70基あまりを数えるといいます。さらに商店街の街路灯や店先の短冊、芭蕉祭の入選句にいたるまで、俳句や「芭蕉さん」があふれています。

「30mの高石垣は必見!町屋の辻に城下町風情を感じる伊賀上野城」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/10061

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