箱根の玄関口・小田原は関東地方の南西端に位置し、足柄平野を中心に南は相模湾に面し、湾を囲うように南側に伊豆半島、東側には湘南海岸、さらに奥の三浦半島へと続いています。反対側を向くと丹沢山地から流れ出た酒匂川が足柄平野を南北に流れ、平野の形成に大きく寄与しているのがわかります。そんな小田原の地に“領民のための平和な国造り”という理想の国を築こうとしたのが北条5代であり、中心となったのが小田原城です。関東の覇者として権勢を誇った北条氏の居城・小田原城は、城下町とその周辺まで丸ごとすっぽりと土塁と空堀で囲った総延長9kmに及ぶ総構(巨大外廓)に守られた戦国時代屈指の大要塞でした。攻城のために豊臣秀吉が築いた一夜城や総構の遺構をめぐり、そのスケールを体感する北条早雲から始まる戦国一の城郭都市へ、いざ出陣です。
圏央道から西湘バイパスを抜けて小田原を目指ますが、“腹が減っては戦ができぬ”とばかりに圏央道茅ヶ崎JCTを新湘南バイパスへ、茅ヶ崎海岸ICを出ると海沿いを走る国道134号に突き当ります。その向こうは相模湾、茅ヶ崎市方面に向かった「サザンビーチちがさき」にある海辺のカフェ&ダイニング「サザンビーチカフェ」を訪れます。
1898年開設の茅ヶ崎海水浴場をサザンオールスターズの名にあやかり改名した「サザンビーチちがさき」に面したカフェのオープンデッキからはロコサーファーが波に興じ、遠くに烏帽子岩が見えます。
解放感に溢れた空間でモーニングをいただきながら時間がゆるやかに流れていきます。朝8:00からモーニングメニューから「自家製キューブパンとスープのプレート1280円を選択しました。ムール貝が2個入ったクラムチャウダーは大きめのスープボールにたっぷり入り、新鮮なサラダが彩を添えています。とSouthenBeachCafeと焼き印がおされたキューブパンはもっちりとした食感でスープにつけて食べればなお美味しいです。
モーニングSETされているフリードリンクで、飲むアサイーヨーグルトやレモネードといっしょにいただけば、素敵な一日が過ごせる予感を感じさせてくれます。
海沿いを走る国道134号から西湘バイパスを走り、一路小田原を目指し早川ICを出ます。関東の覇者として権勢を誇った北条氏の居城・小田原城は、城下町を丸ごとすっぽり囲った全長9kmに及ぶ総構の守られた戦国時代屈指の大要塞でした。関東一円を治めた戦国一の城郭都市小田原の繁栄は北条早雲から始まるということで、まずは小田原駅西口広場のロータリーに立つ北条早雲公像に御挨拶です。自らの力で大名になり“最初の戦国大名”ともいわれる北条早雲公像は、高さ5.7m、重さ7tの大きさで鎧兜を身に着けた凛々しい騎馬姿で「火牛の計」をモチーフにした角に松明を付けた牛を率いています。これは北条早雲が小田原城を奪取した時の姿をとらえたもので、『北条記』『北条五代記』など、江戸時代の軍記物語からの典拠となっています。
小田原駅東口の南方、小田原城址公園へと向かう「お城通り」沿いには新たな複合商業施設「ミナカ小田原」が2020年12月4日にオープンしています。「みなか」とは真ん中を意味すり古語で、人々が出会い行き交う場、にぎわいの中心となるように名付けられたといいます。施設は小田原駅東口に直結し、4階建ての商業棟「小田原新城下町」と地上14階地階1階のタワー棟からなり、タワー棟を背にして令和の時代に新たな城下町出現です。タワー棟最上階の望足湯庭園には箱根湯本からの運び湯が使われ、温泉に浸してゆったりと市街地の向こうに見える海やこれから向かう南側の小田原城の天守を眺めることができます。
その前小田原の食を味わおうと、3階の金次郎広場へ。江戸時代の東海道の宿場町として栄えた往時の賑わいが再現されたかのような空間です。
小田原出身の偉人・二宮金次郎の名にちなんで命名されました。映画「二宮金次郎(2019)」を記念して劇中の二宮金次郎夫婦の像をここに設置したとのことです。劇中では二宮金次郎を合田雅吏、妻なみに田中美里が演じています。
おいしそうな香りに誘われて創作煉處「籠清」で、アツアツの揚げかまぼこ珍味揚(刻み蒲鉾・イカ・ネギ)300円を購入。独自製法で作ったかまぼこを揚げてから食べやすい串に刺した、ワンハンドで食べられる揚げかまぼこは、注文してから揚げてくれるので少し待ちますが揚げたて熱々のプリプリ食感でボリュームもあり最高です。小田原名物として真っ先に名前が挙がるかまぼこは交通が不便だった昔、箱根に新鮮な魚を供給するため保存性がいい加工法が考案されたといい、海の幸や良質な湧水など、立地的に恵まれていたのも大きな理由です。TV番組「有吉クイズ(テレビ朝日)出川のドライブマイカー」でも紹介されていた籠清は文化11年(1814)創業で、鮮魚の江戸輸送を営むかたわら蒲鉾の製造をはじめ、明治40年(1907)石黒清次郎翁が屋号を籠清とし蒲鉾製造専業となっていった老舗です。
いよいよ小田原城に登城です。室町時代後期に駿河国から台頭した大森頼春が、応永23年(1416)今の小田原高校付近の八幡山に山城を築いたのが始まりといわれています。その後伊豆一国を平定した北条早雲が1000頭の牛の角に松明を灯し、策略をめぐらせて元亀元年(1501)城を奪取、以降5代約100年に及んで小田原を支配した北条氏はここを拠点に関八州へ勢力を広げました。諸説あるも、早雲は備中や京都出身といわれ、上方から多くの商人や職人を招き、産業を興し、町づくりを行いました。以後、2代氏綱、3代氏康も勢力を伸ばし、関東一円を治めるようになると小田原は関東の政治・経済・産業の中心として繁栄します。そして天下統一を目指す豊臣秀吉の進軍に備え、天正15年(1587)城と城下一帯を土塁と堀で囲む上幅16.5m以上、深さ10m以上の総延長約9kmに及ぶ総構を築き、町全体が巨大な城郭都市になりました。
正規登城ルートというのが標示されているので案内通りに進みます。まずは馬出門土橋を渡り正面入口「馬出門」から登城です。馬出門は三の丸から二の丸へと通じる大手筋(正規登城ルート)の中で重要な馬屋曲輪の北端に位置する重要な門です。寛文12年(1672)に枡形型式に改修され、江戸時代末期まで存続し、平成21年(2009)に再建されました。。石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱にそれぞれ屋根が付く高さ約3.5m、幅約4.7mと高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。この先にある馬出曲輪へ通じることから名付けられ、馬に乗ったまま通ることができるゆったりとした造りになっています。
馬屋曲輪は寛永10年(1633)に馬をつなぐ「馬屋」が設置され、寛永20年(1643)には南東隅に2階建ての二重櫓が建てられていました。平成20、21年(2009、2010)に発掘調査が行われ櫓台石垣は南北約12.4m、東西約10.9mの長方形で石垣の高さは澤2.5mでした。また櫓台にはの西側と北側にそれぞれ石段が付けられていました。
馬屋曲輪に隣接するのが「御茶壷曲輪」で三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられました。元禄期(1688~1704)には徳川将軍家に宇治茶を献上する{御茶壷道中」の際に、往路で空茶壷を納める「御茶壷蔵」が設けられていたことから呼ばれるようになったとされます。お茶を詰めた復路は、お茶が湿気ないよう河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされます。本来木橋であった御茶壷曲輪へ渡る小峰橋(御茶壷橋)は現在では石橋に架け替えられています。
馬屋曲輪から続く二の丸へは住吉堀に影を落とす住吉橋と内仕切り門をくぐります。奥に二の丸へ続く銅門が見えます。住吉堀は銅門と馬屋曲輪・御茶壷曲輪の間を仕切る堀で寛永9年(1632)以降、稲葉氏による近世化工事で完成しました。平成2年(1990)住吉橋の復元から銅門櫓台石垣を含めた石垣までの完成には平成7年(1995)までの6年間を要しています。
直角に曲がる枡形の構造がここでも採用され防御力を高めています。銅門は二の丸の正門に位置づけられる門で、この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。渡櫓門の扉の飾り金具に銅を使用していたことが名前の由来です。平成9年(1997)復元されました。
二の丸広場には昭和初期に建てられた小学校の講堂を再利用した「NINJA館(歴史見聞館)」があり、小田原北条氏に仕えた風魔忍者をモデルにした体験型の展示施設になっています。
江戸時代の小田原城本丸の周囲は堀に囲まれていて、本丸の東側を画する幅20m以上の水堀を本丸東堀と呼んでいます。この場所に本丸と二の丸をつなぐ「常盤木橋」が架けられていました。
常盤木橋を渡った先、多聞櫓と渡櫓を配した枡形の構造持つ小田原城本丸の正門でもっとも大きく堅固な造りの「常盤木門」が現れます。門の名前の常盤木とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は一本「巨松」のみが残る)に由来しています。常に緑色の葉をたたえる松のように小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとのい願いが込められていると言われます。
江戸時代初期からあるも、元禄16年(1703)の地震で倒壊、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓、北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました。昭和46年(1971)小田原市政30周年事業の一環として再建されました。
常盤木門をくぐれば天守閣がたつ本丸広場です。ここから見上げる地上38.7m、三層四階の天守櫓に付櫓、渡櫓を供えた複合式天守閣の姿は一段と美しいです。現在の天守閣は昭和35年(1960)に市政20周年記念事業として復興されたもので平成28年(2016)大規模リニューアルが行われ天守閣が真っ白な姿で蘇りました。
天守の内部では江戸時代から現代までの小田原城の歴史や小田原ゆかりの美術工芸を紹介していますが、標高約60mの最上階の展望デッキからは東から南にかけて相模湾が広がり、伊豆半島に伊豆大島、さらに西側にまわると箱根連山が外輪山の上に並び立っています。やはりここが交通・軍略上の要衡であることがうかがえます。史上名高い豊臣秀吉の一夜城の跡、箱根外輪山の手前にあるなだらかな山並みも望めます。
こども遊園地横手から旧本丸西堀の坂を下り「報徳二宮神社」に参拝して城から車で20分ほどの石垣山一夜城歴史公園へ移動します。報徳二宮神社は明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6か国(伊豆、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建されました。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峰曲輪と呼ばれていました。小峰は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名です。
小田原城南西約3kmのところに豊臣軍が本陣となる城を築いた標高262mの笠懸山(石垣山)があります。天正18年(1590)、豊臣軍の小田原攻めが始まり、秀石は箱根湯本の早雲寺本陣に入り、指揮を執り始めます。豊臣軍の兵は徳川家康、細川忠興、池田輝政、石田三成、加藤清正など全国の名だたる大名が率いる総勢約21万人、相模湾からは毛利や長宗我部の水軍が海から小田原を囲みます。一方迎え撃つ北条軍は約5万6000人でした。小田原城から見えないように木立の中で山頂に築かれ、約80日間で完成すると周囲の木立を伐採し一夜のうちに築城したかのように見せかけ相手の動揺を誘いました。突如現れた城を見た北条方は、「関白は天狗か神か」と驚いたとされ、5代氏直は城兵の助命を条件に投降します。
現在、一夜城は東日本初の総石垣造りで近江の穴太衆が造った野面積みの石垣が今に残り続日本100名城に選定され、石垣山一夜城歴史公園として整備されています。関東初の総石垣の城として知られていますが、大正12年(1923)の関東大震災で大部分に石垣が崩れてしまい、今も崩れた石が山中にたくさん転がっています。城の構造は本丸や二の丸、三の丸が梯郭式に配列されたシンプルなもので、本丸南側には5層の天守があったとされる天守台跡があります。。南曲輪や巨大な井戸曲輪にも石垣が用いられていたなど遺構が残ります。
山頂から市街を眺めると小田原の地形が手に取るようにわかります。
石垣山一夜城歴史公園を背にした約4000坪の敷地に、パティスリーや畑が広がるのが鎧塚俊彦氏が手掛ける地産地消型レストラン「一夜城Yoroizuka Farm」があります。鎧塚氏のこだわりが詰まったスイーツの数々がここに集結し、ショーケースには常時30種類ほどにファーム限定スイーツ約10種類が並びます。
約430年前、この地に立った秀吉は、どのような思いで北条氏が築いた小田原の町を見、また今ここに建つ一夜城Yoroizuka Farmにどんな感想をもつのだろうか。