県道44号から庄内あさひICで山形自動車に入り湯殿山ICで降りて月山花笠ラインを走る。ほとんど高速道路で走れるのですが、一部、月山の辺りだけ規格が一般道になっています。この区間は豪雪地帯で、冬期には通行不能になることがあるらしい。南の大朝日岳から月山にかけて、1500mクラスの山が連なり、鶴岡から内陸の寒河江、山形辺りまでのあいだは「六十里越街道」と呼ばれる難所で幾つもの峠がある。戦国時代最上氏などが軍用道路として行き来していたといいます。湯殿山有料道路(400円)を登った先が「湯殿山神社」です。湯殿山の中腹にある湯殿山神社は、本殿や社殿がないのが特徴で大きな鳥居が目印となります。
湯殿山本宮入口までは大鳥居から徒歩で30分ほど登るか、バス(片道200円往復300円)を利用するかなのですが、行きは登りがきつくバス利用をお勧めします。
古来湯殿山は出羽三山の奥宮とされ、特に神秘的な山であり、開山1400年以上の修験道の霊地です。湯殿山神社本宮は、月山より南西に下ること約5Km、清冽なる梵字川の流れのほとり、幽玄の峡谷中にあり大山祇命、大己貴命、少彦名命も三神が鎮座されています。静寂の中に川のせせらぎと滝の音だけが響きます。
湯殿山神社本宮の参拝に際しては、現在でも履物を脱ぎ、裸足になって御祓場でお祓い(500円)を受け、手渡された紙製の人形で体をぬぐって穢れを祓ってからでなければお参りすることはできない、俗界とは切り離された神域に身が引き締まります。湯殿山神社に神殿はなく、御身体は湯殿山山腹の仙人沢にある、今も湯滝の吹き流れる茶褐色の大岩で、女陰に似た形の岩の上を、絶えず温泉が流れ潤しています。湯殿山を再生(蘇り)の出口とするのは、この湯滝の形状から発生したとも言われています。ご神体を前にしていると、まさに地球という生命体の生から死へ、そしてさらに新たな生へと胎動して止まない激しい生命現象を実感します。お祓いを受け、素足になって岩を登って御参りしますが、「語ることなかれ、聞くなかれ」と戒められた場所であり、撮影はもちろん禁止です。芭蕉が湯殿山を詠んだ句が「語られぬ 湯殿にぬらす 快かな」なのです。
湯殿山神社本宮の御祓場に隣接する「足湯」は火山である湯殿山に湧いた温泉を利用しています。裸足の参拝者はこの足湯で暖をとります。
三関三渡の思想が密厳浄土へと即身成仏できる聖域とされ、特に湯殿山ではかつて仙人沢の行場で、一期千日の行人修行が行われていて、三千日、五千日の厳しい行を積む者もいたといいます。一日3度湯殿山のご神体に参拝すると同時に五穀断ち、十穀断ちといった「木食行」を続けます。想像を絶する苦行を続け、自らの穢れを祓い、他人の苦しみを代わって受けようとしたのです。湯殿山系の即身仏の特徴は、荒行により体内の脂肪分をとり、入定後腐敗せず即身仏となることで永く世の人々を救おうとしたのです。湯殿山には、大日坊瀧水寺の真如海上人や注連寺の鉄門海上人といった衣におおわれたミイラ仏を拝することができます。
旧朝日村にある湯殿山は、過去、現在、未来という時間空間を超越して、密厳浄土へと即身成仏できる聖域とされてきており、登拝口には大日寺、本道寺、大日坊、注連寺の真言宗4ヵ寺がある。羽黒山と湯殿山は昔、羽黒山別当であり、参道を改修した天宥が湯殿山を配下に置こうとし、お寺同士でいろいろ争いがあって両者間には160年にわたる抗争の歴史があり、結局天宥が敗れて流刑となったが、その凝りはいまだに続いているらしく、浅見光彦シリーズ『黄泉から来た女(内田康夫著)』に投影されている。羽黒山が江戸時代初期に真言宗から天台宗へ移行した時は大変であったろう。湯殿山の即身仏は三体、注連寺の鉄門海上人、本明寺の本明海上人、そして大日坊の真如海上人と、三つの寺に安置されている。どうもそれぞれの寺にはそれぞれのプライドがあって、わが即身仏こそ尊いと主張したいものらしい。「あっちのほうは即身仏ではねぇ。ただのミイラだ」と言ったりしています。
天長10年(833)に、弘法大師空海が東北巡錫の折、辿り着いた七五三掛の地にあった桜の樹下で修行され、湯殿山と俗世の注連(しめ)として建立されたのが「湯殿山注連寺」です。飾り気のない素朴な本堂が杉木立に囲まれて森閑としミシュラン・グリーンガイド・ジャパン二ツ星に認定さています。また作家の森敦が「月山」という小説の舞台にして第七十回芥川賞を受けたところでもあります。案内役の女性の説明を聞きながら本堂をめぐると文政12年(1829)71歳で即身仏になられた「恵眼院鉄門海上人」の即身仏は本堂の一隅に安置されています。江戸で眼病に悩む人々を救おうと自らの左目を隅田川の龍神に捧げ湯殿山大権現に祈願したことから恵眼院と称されました。湯殿山と注連寺が開かれたのが丑年であったこと、また月山の山容が牛が伏せた姿に似て臥牛山と称されることから、丑年に詣でると十二年分の後利益があるらしい。丁度今年が六年に一回の御本尊「大日如来像」の御開帳の年で、善光寺と同様回向柱が立てられていた。
弘法大師が修行された七五三掛桜は、咲き始めは白色で次第に桃色に変化するという神秘的な魅力があり、映画「遠野物語」でも幻想的な効果を見事に果たしています。2011年10月東北夢の桜街道・桜巡礼88ヶ所巡りの47番札所に選ばれています。
出羽三山のなかでも古来尊崇が篤かったのが湯殿山であり、江戸時代「西の伊勢参り、東の奥参り」といわれたほどで、その湯殿山総本寺が「大日坊」です。大同2年(807)弘法大師空海の開基と伝わる「瀧水寺金剛院大日坊」は、湯殿山四別当のひとつで、奥之院を管理しまし。石段の上に日本最古の八脚門建築である鎌倉時代創建の茅葺の立派な仁王門があり、その奥の本堂もずいぶんと立派です。出羽三山の主峰、月山には八方十口と呼ばれる登山口があり、大日坊瀧水寺がある大網地区は修験者の集落として知られます。寺は古くから地域の信仰を集め、徳川将軍家とも特別な関係を保った古刹です。
かつて湯殿山は女人禁制であったが、空海が女人の礼拝所として胎蔵界大日如来を建立したのが始まりで大日坊では女人の参詣も許され「女の湯殿山」と呼ばれていました。回廊に五色の布を垂らして、華やいだ雰囲気を醸し出している。徳川将軍家とのつながりも深く、三代将軍・家光やその乳母、春日局なども祈願。寛永14年(1637)に徳川家光が疱瘡を患った際に、直臣の旗本が代参祈願したとこ平癒し、世継誕生のお礼として金剛界大日如来を奉納したというエピソードがあります。
正面に「代受苦菩薩真如海上人」の即身仏が安置されている間で弁舌上手な口上はなかなか面白い。しかし黒褐色の顔には白色菌とみられる白い斑点が一面に散り、カッと開かれた口には歯が一本もない。眼病に苦しむ人々を哀れんで自らの左目を湯殿山大権現に捧げて失われた左目は底知れぬ闇をたたえていて、不気味さを一層あおっています。上人が土中入定したのが、天明の大飢饉の年、天明3年(1783)96歳の時で、その3年後、弟子や信者の手にによって掘り起こされ、それが今の姿といいます。
即身仏になる上人は、穴に下ろされ、そこで成仏するまで結跏趺坐の姿勢でいるとのこと。穴に降りる前にあらかじめ五穀を断ち、木食をしやがて水以外の食物も断ち、最後に漆を飲む。体内の不浄なものをすべて無くし、漆には防腐剤の効果があるとのこと。地上と穴を結ぶのは竹筒で、そこから空気が送られ、また、穴の内部の様子を窺うことができる。上人は日に何度か鈴を振り鳴らす。音が聞こえなくなると成仏した証になる。それから三年間、穴を密閉、放置してミイラになるのを待って堀り出し、即身仏として安置されるとのこと。しかし真如海上人の場合は空腹を心配した老婆が饅頭を空気穴へ詰めてしまい、絶命したといいます。金蘭の袈裟衣を着ていて六年に一度、新しいものに着せ代えるのですが、その袈裟衣を端切れにしてお守りとして売られています。
昭和11年の地すべりにて旧境内より移転したのですが、元の境内地には樹齢1800年老杉があり、景行天皇の第四皇子、御諸別皇子の御陵所に植えたもので「皇壇の杉」といわれています。のちに大同元年(806)弘法大師が唐より帰朝の際、一寺建立と請願なされ、聖地に向け五鈷杵と三鈷杵を投じられたことは有名な伝説として語られています。三鈷杵が高野山の松に掛かり高野山が開かれ「三鈷の松」は現在もあります。五鈷杵がこの皇壇の杉に掛かり、以来「五鈷掛の杉」とも言われるようになりました。弘法大師は大同二年(808)4月8日最初に湯殿山を開かれ最後に高野山を開かれたのです。
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