阪堺電車“チン電”で行く利休が生んだ茶の湯と和スイーツの旅

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大阪には天王寺から堺をつなぐ“ちん電”の名で親しまれる阪堺電車という開通100周年を超す歴史ある大阪で唯一の路面電車が走っています。茶の湯を大成させた千利休が生まれ育ち貿易港として栄えた堺は、かつて16世紀、南蛮貿易の拠点として「東洋のベニス」と称されるほどに栄えた国際都市でした。自由でハイカラな豪商たちが、今日まで伝わる文化や芸術を支えていた様子がうかがえ、しかもこの沿線にはその時代から続く異国の文化が取り入れられた、何とも魅力的な和スイーツのお店がたくさんあり、また堺にゆかりのある人々も多く、そんな堺の町を、街中をのんびり走る路面電車に揺られてあ巡る小さな旅にでたのです

始発駅の天王寺駅前駅から阪堺電車に乗ると、どこまで乗っても一回210円ですが、「てくてくきっぷ」なら全線1日乗り放題で600円です。路面を走る電車は最新型車両から、黄色と赤、赤と黒といった2色のラッピング車両等、いろんな種類の車体があり見ているだけでも楽しいものです。時には道路を車や道行く人々とともに、時には大和川の鉄橋をのんびりと、ほのぼのとした雰囲気で走っていきます。

大和川を渡ると堺市に、阪堺電車は、紀州街道にほぼ平行して走っています。「綾野町」電停から「御稜前」電停の区間は、旧紀州街道にあたる「大道筋」の愛称が与えられている幅員約50m、片側3車線の幹線道路で、その中央をローカル色豊かに路面電車が走り抜けていきます。この区間は、千利休のお膝元とあって茶の湯に欠かせない見どころや和菓子の老舗が点在。チンチン電車を乗り降りして巡ります。

利休ゆかりの町巡りは、まず「御陵前」電停で降り、まずは千家一族の墓がある「南宗寺」から始めます。今も昔ながらの禅宗寺院の面影が色濃く残り、周囲を土塀で囲まれた静かな境内に佇めば、結界を超え仏の世界へ踏み入ったような感覚に。臨済宗大徳寺派の寺院で弘治3年(1557)、堺の戦国大名・三好長慶が父・元長の菩提寺として建立し、大阪夏の陣で焼失後、元和5年(1619)沢庵和尚によって再建されたお寺です。

国指定重要文化財である正保4年(1647)第十三世住職清巌宗渭により造営された甘露門(山門)は三間一戸楼門、入母屋造、本瓦の建物で、禅宗と和様の折衷様式になっています。

さらに承応元年(1652)、天井に狩野信政筆の八方睨の龍が見られる禅宗建築の仏殿が建立されました。

また南宗寺に残る歴史ミステリー「伝説の徳川家康の墓」は興味深々です。大阪夏の陣、真田幸村の奇襲を受けて輿に乗って逃げだした家康を大坂方の猛将・後藤又兵衛が怪しいと睨んで槍で突いたところ、家康はそのまま南宗寺で絶命したという説が伝えられています。それを裏付けるように、境内には徳川家康の墓だとされる無銘の墓があり、隣には山岡鉄舟の筆で「家康の墓と認める」という内容の石板が。また戦火により焼失した東照宮へ通じる唐門は、簡明な構造の向唐門で、その屋根瓦には徳川家の「葵」の紋どころが見えます。

利休が参禅した方丈の縁からは、茶人として知られた古田織部の作、国の名勝枯山水の石庭が眺められます。

また偉大な茶人が修行し、茶と禅を結びつけた拠点でもあり、茶の湯の発展は南宗寺ぬきには語れません。中でも千利休の師である武野紹鷗は開山・大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらい、わび茶を深め、千利休も第二世笑嶺宗訢和尚に参禅して禅に開眼、禅の心を茶の湯に昇華させたといわれています。境内には、利休の師である武野紹鷗や写真の千家一門の供養塔があります。写真が千家一門の墓で正面中央が利休宗易の墓になります。

奥には利休好みの茶室「実相庵」を有し、境内には師紹鷗遺愛の「六地蔵石燈篭」利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」と「椿の井戸」があります。

少し南にいくと室町初期の応永元年(1394)に徳秀士蔭が開祖した臨済宗東福寺派の「大安寺」があります。その本堂は書院造りの部屋もある総檜造りで、豪商納屋助左衛門(通称・呂宋助左衛門/NHK大河ドラマ黄金の日々を思い出す)の屋敷を移したとされています。

南宗寺からは徒歩5分、「寺地町」電停近くにある「かん袋」は、鎌倉時代末期の元徳元年(1329)に和泉屋徳兵衛が和泉屋という商号で餅屋として創業したお店です。かん袋という名は、徳左衛門時代に豊臣秀吉が、伏見桃山城の天守閣の瓦葺きで、徳左衛門が瓦を天守まで放り上げる様に「かん袋が散る様に似たり」と、その腕の強さをたたえ、「以後かん袋と名付けよ」と命じ、それより「かん袋」が和泉屋の商号となったといいます。

現在のくるみ餅の原型ができたのが、5代目・和泉屋忠兵衛の室町時代で、当時の餡は塩を用いていて、その3代後にルソンから砂糖が輸入されたことにより、甘い餡になったとのこと。材料、製法とも門外不出とのことですが、きれいな緑色は砂糖を使うことによって出るらしいのです。くるみ餅といっても胡桃が入っているのではなく、白い餅をうぐいす色の餡で「くるんで」いるところから、この名前が付けられました。

もっちりとした食べやすいサイズのまんまるの餅に、コクのあるまったりと甘いうぐいす餡が贅沢にからむとなんともいえず、そして最後にほのかな苦みがふっと走り味を引き締めます。基本はやわらかな餅の食感を楽しむために、やはりイートインがお勧めです。

夏季はなんといっても『氷くるみ』です。うぐいす色の餡の上に氷が被さっているだけの違いですが、夏の暑い日には冷たさと甘さが嬉しく、そして最後の仄かな渋さを氷が洗いながしてくれる逸品です。冬季でも食べれますが、冬はちょっと寒いのが難点かも。『氷くるみ』も『氷なし』どちらも一人前360円です。

宿院」電停からすぐの場所に千利休屋敷跡と与謝野晶子生家跡があり、堺が生んだ二人の偉大な文化人ゆかりの深い土地に因んで平成27年3月20日にオープンしたのが堺の新名所「さかい利晶の社」です。「宿院」への途中には、千利休の師である武野紹鷗屋敷跡があります。茶道は室町時代に利休が「茶の湯の開山」と呼ぶ、村田珠光によって基礎が作られ、また室町後期にもう一人の名人が出現する。その人が武野紹鷗で、堺で最も裕福な家で生まれ、珠光の茶の湯をさらに進化させたのです。

その斜め向かいには「天下三宗匠」の一人今井宗久屋敷跡があります。今井宗久は倉庫業で財をなし、武野紹鷗に茶を習い女婿となりました。そして紹鷗のもとに同じ堺の魚屋田中与兵衛の長男与四郎、後の千利休が入門したのです。

二つの屋敷跡は石碑しかありませんが、「千利休屋敷跡」は敷地が残されていて、約70坪(230㎡)の地に今も、椿の炭を底に沈め、茶の湯に常用していたといわれる椿井戸と利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材で建てられた井戸屋形があります。大徳寺は利休切腹の原因と言われる利休が寄付した大徳寺山門「金毛閣」の上に利休の木造を作って置いたお寺です。飛石・燈籠は近年に整備されたものです。

彼らはこの界隈をしきりに往来し、茶の湯の創意と工夫を日夜楽しんでいたであろうことが偲ばれます。

千利休屋敷跡の隣にあるのが、堺が排出した二人の緯人、千利休と与謝野晶子の人生や功績を紹介しつつ、堺の歴史や文化に迫り、2018年1月公開映画『嘘八百』のロケ地にもなった観光施設「さかい利晶の社」です。真新しいガラス張の外観がひと際目を引く話題にミュージアムのすごいところは3つ。①1Fにある「千利休茶の湯館」で利休の人生や茶の湯文化を中世・堺の国際的な繁栄とあわせて勉強し、「茶の湯体験施設」で気軽に茶の湯体験を味わえること。千利休の系譜である三千家・表千家の西江軒、裏千家の風露軒、武者小路千家の得知軒と三千家の茶室が一堂に会していてお点前が体験できます。三千家の茶室が並ぶのは、一般に見学できる施設としては日本初です。②は千利休作で唯一現存するといわれる茶室で京都府大山崎町の禅刹・妙喜庵(東福寺末寺)の境内にある国宝「待庵」の創建当時の姿を復元した二畳の茶室「さかい待庵」が見学できること。③2Fの与謝野晶子記念館には羊羹で有名であった駿河屋の店先が実物大で再現されて、1Fは暖簾が印象的な和風の雰囲気で2Fは壁面にシンボルの大きな時計がかけられた洋風な作りで、全体として和洋折衷の洒落た建物であったことがわかる。そしてなによりも代表作「みだれ髪」をはじめとした本の装幀は、藤島武二や中沢弘光といった著名な画家たちによって描かれており、美術品をみているようです。

そのほかにも復活した旧堺市内の町紋入り「まつり提灯」が展示されていたり、利休の映像では堺出身の片岡愛之助が演じていたりしています。

さかい利晶の社で見た与謝野晶子の生家「駿河屋」が建っていた場所跡が、大道筋を北に少し歩いたところにあるので向かうことにした。その前に一本西の路地にはいったところにあるのが、千利休も愛した伝統の芥子餅とニッキのお店「本家小嶋」です。天文元年(1532)菓子屋吉右衛門として創業、路地裏にひっそりと佇み、風にひるがえるのれんに老舗の風情を感じます。

お店の中はレトロなショーケースの中に見本が並び、お店の人の丁寧な応対同様、店内に家人の人柄が感じられる。

利休も好んで食べたという煎った芥子の実が贅沢にまぶされ、プチプチ口の中で弾ける芥子の実の食感と香ばしさがやみつきになる「芥子餅」と、柔らかい求肥に練り込まれた肉桂(ニッキ)の清涼感のある香りがスッと香る「ニッキ」が、お店の代名詞にもなっています。室町時代にインドから芥子と肉桂が薬として輸入されていたのを、茶の湯に因んだ和菓子にできないかと考えだされたとのことで、代々受けつがれる吉右衛門の名と味が約480年続いている名店です。お茶請けに最適でお店の中で1個からいただけます。

大道筋に戻ると「与謝野晶子生家跡」に出会う。日本文学史に名を残す、愛に生き、真に生きた情熱の歌人・与謝野晶子は堺の和菓子商・駿河屋の三女として生まれ、鉄幹に出会い22歳で上京するまで堺で過ごしました。ここから旧制堺女学校(現大阪府立泉陽高校で、あの沢口靖子の母校)通っていたのかと思いをはせてみます。現在は歌碑と案内板が建てられていて、歌碑には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」という故郷を偲ぶ歌が刻まれている。歌碑周辺の石組みは碑に刻まれている歌にちなみ、海の波をイメージして高低に配し、所々の青色タイルは光る水面を表現しているとのこと。

また懐郷の念は強かったようで、郷里を題材にした詩歌を数多く詠んでいます。「古さとの小さき街の碑に彫られ 百とせも後あらむとすらむ」そう本人が望んだとおり、堺市には晶子の歌碑や詩碑が20基もあります。

路線を挟んで東側には与謝野晶子が少女時代に親しみ、通学路でもあった「堺山之口商店街」があります。かつては大阪の心斎橋と並んで賑わった商店街で、与謝野晶子が幼い頃から通っていたため「晶子のふるさと山之口」と親しまれています。晶子の生家の外壁に時計があったことに因み、歌集「みだれ髪」の表紙をモチーフに描かれた入口のアーチにも時計が設置されています。

商店街のちょうど真ん中あたりにあるのが海の神様・塩土老翁神を祀ることから「住吉の奥の院」と呼ばれる「開口神社」です。神功皇后の勅願により起源2000年頃に創建されたと伝わります。天平18年(746)に行基が念仏寺を、その後空海が宝塔を境内に建立しましたが、今は寺の姿はなく「大寺さん」と呼ばれ親しまれています。商店街に面した鳥居をくぐって、厳かな空気が漂う境内へ。

境内には堺の繁栄の名残を思わせる多くの社が鎮座し、与謝野晶子が幼少期によくここで遊んだといいます。同郷の女性たちへの願いを詠んだ歌碑があり、晶子が詠んだ歌で恋の行方を占うおみくじが人気です。

花田口」電停の近くに「ザビエル公園」があります。天文19年(1550)に堺に来たイエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエルを、手厚くもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡につくられた公園で、昭和24年(1949)ザビエル来航400年を記念して「ザビエル公園」と命名された。

この「花田口」近くには、元禄年間に創業する以前、安土桃山時代から肉桂を輸入していたという老舗和菓子処「八尾源来弘堂」があります。「肉桂餅」は3種のもち米を使ったやわらかな求肥と甘い餡が、すっきりとした後味の肉桂とよくあいます。「肉桂カステラ」は肉桂の風味が甘さを引き立てる一品です。

さらに線路沿いに歩くと屋根の壁に大きな包丁が目に付く「堺伝統産業会館」の前を通り「妙国寺前」に到着します。

妙国寺前」電停のある材木町の交差点には和菓子の「曽呂利」があります。とんちといえば一休さんが有名ですが、堺にも一休さんに負けずおとらずの名人「曽呂利新左エ門」という豊臣秀吉に御伽衆として仕えたという人です。茶道を武野紹鷗に学び、香道や和歌にも通じていたといい、落語家の始祖とも言われる人で、元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたと言われています。秀吉が猿に似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」「竜は蛇に似ていることを気にしないそうです」といって笑わせたとか、御膳でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに「おならして国二ヵ国を得たりけり頭はりまに尻びっちう」という歌を詠んだとかの逸話がある。創業した先代が曽呂利新左エ門の屋敷跡に住んでいたことからのご縁とのこと。

古代の神器「八タ鏡」をモチーフにした名物大鏡は、たっぷりの白餡をふわふわの焼き皮で包んだ逸品です。また雑誌『大人組2014年11・12号』では「そロール」というロールケーキが取り上げられていました。上品な甘さの仏産蜂蜜、氷砂糖としっとりスポンジが魅力のロールケーキです。

さて停車場名にもなっている「妙国寺」に向かいます。永禄6年(1562)当時堺を支配した三好長慶の弟である三好実休が日珖上人に大蘇鉄を含む土地を寄進し、上人の父であり堺の豪商として知られる油屋伊達常言の協力により建てられた日蓮宗のお寺で、山号は広普山。元和元年(1615)の大阪夏の陣で「徳川家康妙国寺にあり」と聞きつけた豊臣方の大野道犬によりにより全山灰陣と化す。その後、堺大空襲を経て再建されている。

境内にある樹齢1100年余と云われる大蘇鉄には「夜泣きのシテツ伝説」がる。時は戦国時代で遠い南の国から運ばれてきたソテツは珍しく、織田信長は権力をもって安土城へ移植させたところ、そのソテツは毎夜毎夜「堺へ帰ろう」とすすり泣いたとのこと。激怒した信長が部下に命じ、ソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく悶絶したところ、さすがの信長も気味悪がり、ソテツを妙国寺に帰し届けたのである。傷めつけられたソテツは今にも枯れそうになり、日珖上人が蘇生のために法華経を一千巻読経したところ、ソテツが「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げ、日珖上人が門前の鍛冶屋に鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に回復。ここから「蘇鉄」という名が付いたと言われている。信長の手に落ちなかったソテツは町の誇りとなり、シンボルになったといいます。

本能寺の変の時にも徳川家康はこの妙国寺に宿泊しており、「妙なりや 國にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ」と詠んだ歌碑があり、伊賀越えで岡崎に苦労して帰ったという逸話もある。千利休寄贈の瓢型手水鉢もある。

また幕末に起きた堺事件の舞台でもあります。狼藉を働いたフランス兵を殺傷した責任をとり、11人の土佐藩士が切腹したのがこの境内です。境内には切腹した11人の土佐藩士と藩士に討たれた11人のフランス兵の供養塔が並びます。

神明町」電停の大道筋沿いにあるのが嘉永3年(1850)創業170年のつぼ市製茶本舗が営む茶寮があります。元禄時代に建てられた築300年以上の町屋をリノベーションして2013年にオープンした和風カフェです。左官職人・久住有生氏の手による堺漆喰の再現など、細部までこだわった町屋空間は一見の価値ありです。茶鑑定士六段の社長自らが品質を見定め、職人技の火入れで香りと味を引き出したお茶のほか、抹茶を使ったスイーツもいただけます。お茶の香りに包まれる空間でくつろぎながら看板ブランド“堺の昔”の美味しい抹茶に舌鼓して、茶聖・千利休が育った町の散策を締めくくるにはぴったりの空間です。

まだまだ阪堺電車沿線には新しい発見がありますよ。

 

 

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