会津ゆかりの神社仏閣と共に会津の一本桜「会津五桜」をめぐる

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人はベスト3とかベス5を決めるのが好きです。新編会津風土記に記載され、江戸時代後期の嘉永5年(1852)に発行された会津地方での各分野のベスト5を決める『若松緑高名五幅対』の中にもあるのが「会津五桜」です。五桜は1市3町に点在し、神社仏閣参りも兼ねてめぐります。

喜多方の「日中線しだれ桜並木」を見たあと会津坂下町の西のはずれ醫王山薬王寺境内にある「杉の糸桜」に向かいます。山門の八脚門をくぐり石段を上ると、右手に本堂と正面に薬師堂があります。

境内は桜の花びらの絨毯で赤の前垂れをした六地蔵様とのコントラストが美しい。

正面左手の「杉の糸桜」は、枝垂桜のエドヒガンザクラの一種で、幹の太さ3.2m、樹高は約6m、枝張りは10~11mほどあります。天正年間(1573~15929に宮城郡から移植した二株のうちの一株といい、やや白い薄紅色の花を咲かせます。4月下旬が見ごろとのことでしたが、すでに葉桜になっていて残念でした。

次に目指すのは会津美里町の法用寺境内にある「虎の尾桜」です。高僧・徳一により開かれた数々の古刹や会津藩祖・保科正之により始まったとされる会津三十三観音めぐりは、今に伝わる会津の信仰の礎となり、日本遺産「会津の三十三観音めぐり~巡礼を通して観た往時に会津の文化~」としてその魅力を受け継いでいます。

雷電山法用寺は寺伝によると、天台宗・法用寺は養老4年(720)に播磨の得道上人によって創建され、後に徳一上人によって再興したとされるが、当時の規模は三十三坊も有していた大寺院だったといいます。今は観音堂と三重塔が並ぶ静かな寺になっています。かつて金剛力士像が置かれていた仁王門をくぐります。日本最古とされる平安期作の木造金剛力士像は珍しく、欅の一本造りで、阿像・吽像ともに保存状態もいい。観音堂内に安置されています。

この会津三十三観音 第二十九番札所「雀林観音(法用寺)」の観音堂の傍らに咲くオオシマザクラ系のサトザクラが、「虎の尾の桜」です。花の中からおしべの先端が花弁化して細長く突き出し、トラの尾に似て見えることから名付けられました。花は八重咲きで、葉のほうがやや早く出るのが珍しい。歴代の藩主や姫が鑑賞したと記録に残っています。

観音堂内には2躯の十一面観音像が安置され、三重塔は会津に現存する唯一の塔であり、安永9年(1780)に完成しました。屋根の逓減率が少ないことや、相輪までの高さが20mを越すなど、大変美しい三重塔です。

途中に看板を見つけた「新鶴ワイナリー」立ち寄ります。会津美里町は大手ワインメーカーメルシャンの新鶴シャルドネが有名ですが、これまで新鶴地区で多く栽培されてきたスチューベンを中心に赤ワインも、との声で2019年5月オープンの新しいワイナリーです。試飲ができず購入にいたりませんでした。

さらに同町内にある伊佐須美神社の御神木と伝わる「薄墨桜」を訪れます。会津盆地の南縁の宮川沿いに鎮座する岩代国一之宮 会津総鎮守が「伊佐須美神社」です。記紀の伝承によれば、「会津」というう地名は、第10代崇神天皇の勅命を受け地方平定に派遣された四道将軍のうちの二人、北陸道を進んだ大毘古命と東海道を進んだその子建沼河別命とこの地で行き会ったことに由来して「相(会)津」の名が付いたと言われます。親子が新潟、福島県境の御神楽岳に国家鎮護神として伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされます。

社殿は平成20年(2008)に焼失し、拝殿跡に建てられた仮社殿をして祀られています。楼門は平成元年(1898)の造営です。

『新編会津風土記』に「遷宮の頃よりありし神木なり云々」とあり、欽明天皇13年(552)に当社が現在地へ遷座された時より当社第一の御神木として伝わる会津五桜の一つです。オオシマザクラ系サトザクラの「薄墨桜」で、ほかに類似の品種がなく学名はアイヅウスズミといいます。その特徴として、一枝に八重と一重が混在し、早咲き遅咲きがあります。また時間の経過とともに花の色が変化し、咲き始めは薄墨を含んだ白から赤身を帯び、次第に中心部が濃い紅色に染まります。特筆すべきは周辺に満ちるその芳香で、古くより“香りの淡墨桜”とも言われ、最後の会津藩主第9代松平容保も「世の人の心や深く 染めぬらん うすずみ桜 あかね色香に」と歌に詠んでいます。根元は踏み固められないよう囲われ、花に触れることも禁じられています。

会津若松市に入り、飯守山入口交差点から歩くこと15分のところにあるのが大河ドラマ『八重の桜』のオープニングで全国区になった「石部桜」です。中世に会津一帯を治めた葦名氏の重臣・石部治部大輔の屋敷の庭にあったと伝わる、樹齢約660年のエドヒガンザクラです。スケールが大きく力強い桜で、樹高は約11mm、10本ほどの幹から成り、堂々と広げた枝張りが20mにも及ぶ姿は圧巻です。

周囲の景色ともよく調和していて、ずっと眺めていても飽きることがありません。残念ながら散り終わりに近かったです。

猪苗代町の「観音寺川の桜並木」を見たあと、最後にめぐるのが同町の「土津神社」近く、磐椅神社境内にある「大鹿桜」です。名君として名高い会津藩初代藩主の保科正之は「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたいと」と遺言を残して二代藩主保科正経が磐椅神社の近くに創建したのが正之公を祀る土津神社です。その東側駐車場下付近の車道脇を土田堰沿いに砂利道を進むと磐椅神社が見えてきます。

この神社の草創は磐椅山(現在の磐梯山)山頂に御祭神である国土開発の神とされる大山祇神と埴山姫命が祀られた和銅年間(1300年ほど前)にさかのぼります。会津藩祖・保科正之が信仰した延喜式内勅使社正一位、会津総産土神の社です。

元久2年(1205)猪苗代城主三浦経連が現在の地に社を遷座した際、鳥居の杉として植樹された推定樹齢800年以上の鳥居杉のなかほど二股に分れたところに山桜の寄生木が昭和40年頃に発見され、その後も毎年咲き誇ることから杉木に桜が縁を結んだといことで「えんむすび桜」と命名されています。

入口付近に植えられた「大鹿桜」は天暦元年(947)に村上天皇の勅使が奉納したと伝わるサトザクラの一種で、散り際に花が鹿の毛色に変化することから名付けられました。標高580mの磐椅神社境内にあるため開花が遅く見ごろは5月上旬から中旬頃のこと、長く咲くことから「翁桜」とも呼ばれます。

ちょっと見ごろを過ぎてしまった桜もありますが、また機会があれば今度は満開の時期にきたいものです。

 

 

 

 

 

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