世界遺産・宇治平等院と『源氏物語』の舞台・宇治十帖を歩く

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今年2014年4月から現代の極楽、世界遺産「宇治平等院鳳凰堂」が拝観再開。そして時は五月(皐月)新茶の季節。お茶と言えば宇治茶、最近、綾鷹のCMで有名な「上林春松本店」や伊右衛門の「福寿園」 といった老舗があるお茶の産地として名高い京都府宇治市です。平安時代に貴族の別荘地として愛され、『源氏物語』の舞台になりました。“源氏ロマン”の香り漂う宇治川のほとりには、世界遺産・平等院を中心に宇治茶の老舗や食事処、旅館などが軒を連ねています。そんな川沿いを春の陽射しに包まれて散策します。

応神天皇に寵愛されながら、兄に皇位を譲るために自害したとういう“莵道稚郎子”莵道宮があったことから、宇治と言われるようになり、源氏物語の掉尾を飾る『宇治十帖』の舞台としても名高い。心地よくリズムを奏でる宇治川の瀬音、馥郁と漂う新茶の薫り、そして西方浄土を思わせる幻想的な寺院・平等院と1000年前、紫式部が眺めた原風景が今も変わらず迎えてくれます。。

京阪京橋駅から京阪宇治駅を目指します。宇治の町は、京の都から牛車で半日ほど。滔々と流れる宇治川、山々が織り成す景観とおおらかな空気・・・平安時代、京の貴族たちにとって宇治は都勤めの疲れを癒してくれる別荘地(別業)として愛され、今でもまちには平安時f代にゆかりのある建物や道が残されています。そして「源氏物語」最後の十帖の舞台となりました。

先ずは「宇治平等院」を目指します。駅のコンコースに出ると目に飛び込んでくる宇治川にかかる「宇治橋」を渡る。宇治橋は大化2年(646)に奈良元興寺の僧「道登」によって架けられた「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられています。架橋以来、度重なる洪水で流出したり戦渦に巻き込まれたりしながらも幾度となく架替えられてきましたが、これはこの宇治橋が交通の要衝であったからです。現在の橋は、従来の伝統的な木橋のイメージを残しながらもさまざまな土木技術が駆使され、平成8年(1996)3月に完成したものです。朝ぼらけ 宇治の川霧 絶々に あらはれわたる 瀬々の網代木」  藤原定頼 

源氏物語宇治十帖は「橋」に始まり「橋」に終わる文学であり、物語にとって宇治橋は欠かせないものであり、また、昔も今も「宇治の象徴」というべき存在でもあります。

橋の袂には「紫式部像」と共に、宇治十帖第十帖「夢浮橋」之古蹟碑があります。世界に誇る長編小説「源氏物語」を紫式部が書いたのは、平安時代の半ばの1000年頃であったと言われ、全編54帖のうち、最後の十帖の主要な舞台が宇治の地に設定されていることから「宇治十帖」と呼ばれています。紫式部にとっては源氏物語の終章を書くうえで、川霧にけむる宇治川がなくてはならない舞台装置であったろう。夢浮橋の古跡が宇治橋の袂である現在の場所にあるのは、「橋」に始まり「橋」に終わる宇治十帖最後の巻の古跡であるがゆえのことと思わます。

あがた通りを少し進むと宇治十帖第一帖「橋姫」の古跡、橋姫神社がある。宇治橋が架けられたとき、瀬織津比咩という川の女神を橋の上に祭ったと記されている。宇治橋が架けられたとされる大化2年(646年)から今日に至るまで、橋姫神社は宇治橋の守り神として、橋と地域の人々を見守ってきており、宇治十帖の第一帖が「橋姫」と題されているのは、紫式部が、物語の舞台が橋とともに歴史を歩んできた宇治へと移り変わるのを見事に演出しているのです。

平等院の地は、長徳4年(998)ごろ、光源氏のモデルといわれる源融(嵯峨天皇の子)の別業「宇治殿」をめぐりめぐってかの有名な藤原道長が手に入れたものです。道長は宇治によく通い、夏には川遊び、秋には紅葉見物をして過ごし、滞在して詩歌や管弦の宴を催したといいます。AM8:30の拝観時間とともに拝観料600円を払い表門をくぐります。

世界遺産・平等院は平安時代後期、永承7年(1052)関白・藤原頼通が父道長の別荘を寺院に改めたのが始まりです。鳳凰堂はその翌年にその昔、平安貴族が夢見た”極楽浄土”をイメージした阿弥陀堂として建てられ、仏師・定朝作の寄木造りによる本尊・阿弥陀如来坐像が安置されました。前庭の阿字池の水面に、鳳凰が翼を広げたような中央の楼閣を中心に左右に延びた翼廊を持つ優美な姿を映す鳳凰堂は、池や庭園と一体となり仏教経典に描かれる西方極楽浄土さながらの美しく荘厳な姿を見せています。10円硬貨のデザインとして有名ですが、一万円札のデザインにもなっています。今回の改修では元の「丹土」という朱色を再現し、瓦を河内瓦に葺き替え、鳳凰が金色に輝き、平安時代に最も近い姿に。内部も是非拝観してみてください。

歴代の主の一人があの「光源氏」のモデルとなった左大臣源 融であり、源氏物語の終盤部分では、光源氏が息子の夕霧に譲った宇治のお屋敷が度々登場しています。境内の「茶房 藤花」では、平等院帰属の日本茶インストラクターがブレンドした宇治茶が提供されています。それぞれの葉に適した抽出方法で、宇治茶本来の旨みが堪能できます。

宇治川沿いの「あじろぎの道」は、宇治川の流れを見ながらそぞろ歩きのできる「源氏物語散策の道」で、平等院表参道から続いて宇治十帖ゆかりの古跡を目指す。「あじろぎ(網代木)」というのは、鎌倉時代まで行われていた宇治川の伝統的な漁法の「網代(竹や木で編んだ魚を獲るための仕掛け)」を繋ぎとめた杭のことなのです。府道大津南郷宇治線が宇治川に沿い始める辺りに宇治十帖第五帖「宿木」之古跡碑があります。土に根をおろさない宿木はどことなく儚くて、宇治十帖に登場する姫君たちを彷彿させられる。

少し戻って喜撰橋を渡って「塔の島」に渡ります。松林の中の広場に鳩が降り立つ塔の島は、その名前の通り、中央部にシンボリックな「十三重の塔」が建っている。塔の島は「浮島」とよばれることもあるとのこと。「十三重の塔」は高さ15.2mのわが国最大にして最古の石塔で、弘安9年(1286)に奈良西大寺の僧、叡尊が宇治橋の架け替えに伴い、宇治川の殺生禁断と宇治橋供養のために四角い石を13個重ねて建立されました。

塔の島からもうひとつの紅い橋「朝霧橋」を渡って対岸に渡ります。

朝霧橋の東詰(宇治神社側)には宇治十帖モニュメントもあり、宇治十帖の世界にいざなわれます。源氏物語宇治十帖の中で、浮舟(モニュメントの向かって右側の女性)は薫に連れられて宇治に移るが、匂宮(モニュメントの向かって左側の男性)は浮舟の居場所を探り出し宇治を訪れる。そして、二人はともに小舟で橘の小島へ渡ったのでした。モニュメントはそのときの場面をモチーフにしています。 すぐそばに宇治川が流れ、背景には朱色の朝霧橋があるこの場所は、絶好の撮影ポイントになっています。千年の時を超えて滔々と流れる宇治川に舟遊びに興じる平安貴族たちの幻影がふと重なります。

 

少しコースから外れて「興聖寺」と「恵心院」に立ち寄ることに。朝日山の麓にあり、琴坂と呼ばれる緩やかな坂道を進むと中国風の山門に行き着く。「興聖寺」は仏徳山と号する曹洞宗のお寺で道元禅師を開祖としていて、嘉禎2年(1236)に伏見深草に建てられたが途中で廃絶し、慶安元年(1648)、当時の淀城主の永井尚政によって宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興されたものです。

本堂は伏見城の遺構と伝えられ、その奥に建つ天竺堂には、宇治十帖古跡の「手習の杜」に祭られていた「手習観音」(伝小野篁作)が安置されています。 観音様の右足親指は少し上を向き、人々に歩み寄る意思を表しています。参道は、脇を流れる谷川のせせらぎが琴の音に似ていることから琴坂とよばれていて、もみじの名所として知られる琴坂の風景は、宇治十二景の一つに数えられ、昔から多くの人に親しまれてきたとのこと。

恵心院は822年の創建当時は「龍泉寺」とよばれていましたが、寛弘2年(1005)に比叡山横川の恵心僧都源信によって再興され、「朝日山恵心院」と改名されました。この恵心僧都は宇治十帖の中で浮舟を助けた「横川の僧都」のモデルと言われています。藤原氏、豊臣秀吉、徳川家と時の権力者に庇護されてきた恵心院ではありますが、中世以降戦火に巻き込まれたこともあり、境内も縮小され、今では本堂と楼門を残すのみとなっています。 約1000年前、ここを訪れた人々の心を癒したのは恵心僧都説法であったのです。

宇治十帖モニュメントから続くさわらびの道」は「源氏物語散策の道」として市民はもとより、観光客など宇治を訪れる多くの人々に親しまれている道です。源氏物語ミュージアム、宇治十帖ゆかりの古跡、神社などがあり、しっとりとした雰囲気の中で源氏物語の世界に誘われます。

明治維新までは「宇治神社」とその東奥に位置する「宇治上神社」は一対の関係でした。宇治神社と宇治上神社が鎮座するこの一帯は応神天皇の皇子で、宇治十帖の八の宮のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられていて、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の起こりと言われています。また、応神天皇の離宮とも関わりがあったと思われ、「離宮社」、「離宮八幡」などとよばれていたとのことです。

莵道稚郎子について「離宮に来られる際に、一羽のうさぎが現れて振り返りながら道案内をした」という伝説があり、兎道が宇治の地名の由来とも。同社ではウサギが神の使いとされ、本殿を3周するうちに三つのウサギの置物を見つけられると、願いごとが叶うという「うさぎさん巡り」が密かなブームになっているとのことです。

宇治神社北東角のさわらびの道沿いに宇治十帖第4帖「早蕨」之古蹟碑がある。早蕨の巻も、その大半は八宮邸が舞台となっていて、現在の古跡の所在地は、すぐそばの宇治神社、宇治上神社に八宮のモデルではないかといわれている莵道稚郎子が祭られていることと、平等院の対岸であることから付近一帯が八宮邸跡と想定されていて、早蕨の古跡にふさわしいものとなっている。

宇治十帖を詠んだ与謝野晶子の歌碑が建つ石畳の道を歩けば、世界遺産・宇治上神社があります。

康平3年(1060)頃の創建と伝わる宇治上神社の境内に入るとすぐ見えるのが、国宝の拝殿です。拝殿の蔀戸が、鎌倉時代初期の建物ではあるが、平安時代の寝殿造をしのばせる様式が取り入れられている貴重な造りで、縋(すがる)破風と呼ばれる独特の優美な曲線が特徴的な屋根の美しい形が目を引く。本来なら拝殿の後ろに回ると国宝である現存する日本最古の神社建築である本殿の覆屋が目に入るのだが、残念なことに今改修中でみることができなかった。実はこの中にお社が三社収められていて、御祭神は向かって右が莵道稚郎子(弟)」真中が「応神天皇(父)」、向かって左が「仁徳天皇(兄)」とされています。それぞれ神殿としては小規模ですが、その造りは大変優雅で、神社建築としては日本最古のものと言われ、建築年代は平安時代後期と推定されている。莵道稚郎子は兄に皇位を譲るため自殺したと伝わっているのです。

拝殿の向かって右側には桐原水(きりはらすい)とよばれる涌き水があります。室町時代に栄えた宇治茶の象徴として「宇治七名園」が作られ、それに伴いお茶に欠かせない水にも「宇治七名水」が定められ、桐原水はそのうちの一つに数えられました。現在他の名水は失われてしまいましたが、この桐原水だけが、今もなお枯れることなくこんこんと涌き出しています。

宇治十帖を詠んだ与謝野晶子の歌碑が建つ石畳も道の先に宇治十帖第3帖「総角」之古跡碑もある。

源氏物語ミュージアムの前に来たときで10:30なのでもう少し歩くことにして三室戸寺に向かう。途中、京都翔航行横に宇治十帖第八帖「蜻蛉」があり、蜻蛉の古跡 「蜻蛉石」は、大きな自然石に阿弥陀三尊が線刻された平安時代の古跡です。風化が進み見づらいが、左面の勢至菩薩の右下に、裳裾を後ろに引いて阿弥陀仏を拝む女性の見えます。この前の道は、古くから宇治橋と三室戸寺の近道として利用され、今は住宅地となっている辺り一帯の耕野は「蜻蛉野」とよばれていました。「宇治名所図会」(宇治市歴史資料館編)を見るといくつかの名所図に、原っぱの中の一本道とその道沿いにぽつんと立っている蜻蛉石をみつけることができます。

三室戸寺は明星山と号する本山修験宗の別格本山である。もとは天台宗寺門派(三井寺)に属し、770~781年の奈良時代、光仁天皇の勅願により創建され、裏山から出現したとの伝説をもつ千手観音を本尊に祭ると伝えられる。中世以降、西国三十三所巡礼が庶民の間に広がったのに伴い第十番札所として定着し、今もなお巡礼姿の参拝客をよく見かけます。

『源氏物語』に登場する阿闍梨の山寺のモデルとなったとも言われるお寺で、本堂に向かって右側の鐘楼脇には宇治十帖第7帖「浮舟」之古跡碑がある。これは二百五十年前の寛保年間「浮舟古跡社」を石碑に改めたもので、その折古跡社のご本尊「浮舟観音」は当山に移され、今に浮舟念持仏として、伝えられているとのこと。ここには謡曲「浮舟」の話も残っています。

さてお昼も近づき県道7号を宇治駅に向かう。途中には宇治十帖第9帖の「手習」の「手習の杜」と彫られた石碑がある。浮舟は宇治川に身を投げたあと、宇治院の森の大木の下で比叡山横川の僧都に助けられたのだが、この辺りがその場所として想定され、「手習の杜」とよばれてたとのこと。その昔、手習の杜には観音堂があり、安置されていた木造聖観音立像は「手習観音」とよばれ、地域の信仰を集めていたようです。平安時代後期の作品であるこの観音像は、江戸時代初期に興聖寺に施入されている。

駅まであと少しのところには宇治十帖第2条「椎本」の椎本(しいがもと)の古跡、彼方(おちかた)神社がある。「彼方」の名前の由来は、川の流れ落ちる「落方」だという説があり、宇治十帖の中では「おち」という言葉が度々使われている。特に椎本の巻では「おち」を取り入れた歌が二首詠まれているので、彼方神社が椎本の古跡になった由縁はこの辺りにあるのではないかとも考えられている。彼方神社の祭神は風と水の神の「諏訪明神」で、それ以前は海神の「宗像神」が祭られていたと伝えられていて、水の信仰と関わりの深い神社でもある。

京阪宇治駅の近くにあるのが宇治十帖第6帖「東屋」の古跡の東屋観音がある。なぜこの観音像が東屋の古跡になったのかはわかっていないらしい。

さていよいよお昼です。お昼は宇治の蕎麦の名店「しゅばく」と決めており朝霧通りを歩く。11時半開店にまだ少し時間があると10m先の「橋寺放生院」へ。宇治橋を管理していたことから橋寺と言われ、雨宝山と号する真言律宗のお寺で常光寺ともいう。604年、聖徳太子の命により山背の北西部を開墾したことで知られる秦河勝が太子の念寺仏であった地蔵菩薩像を祀る地蔵院を宇治川畔に建てたのがはじまりというお寺で、境内にある宇治橋断碑が僧道登による宇治橋架橋(646年)についての経緯を伝えています。本堂にはともに国の重要文化財である本尊の地蔵菩薩立像と不動明王像が祭られている。地蔵菩薩立像の文様が美しく、救いを求める人のため、右足が前に一歩踏み出した前傾姿勢をとっています。

「しゅばく」開店です。宇治の観光地のど真ん中にあるそば屋「しゅばく」の店名は漢字では「酒蕎麦」と書くそうです。こじんまりとした感じの入口には季節ごとにかけ変えるという暖簾、くぐって店内に入ると、左右にテーブル席2卓と小上がり2卓。奥のカウンター席の前に打ち場が見える。一人なのでカウンターに座る。あっというまに席はいっぱいになりました。

メニューにある日本酒よりも壁に貼っている「喜久酔」の純米酒を頼むことにして酒の肴は、自家製の味噌漬け2種に目をつける。田舎味噌に一ヶ月漬けた豆腐と一週間漬けたクリームチーズの2種で小生はクリームチーズの味噌漬け410円を注文した。お酒も半合560円で注文できるのが嬉しい。クリームチーズはふわりと柔らかくクリーミィーで塩っ気が利いているので日本酒にベストマッチ。

蕎麦は丸抜きの十割手打ち蕎麦である。注文する時に悩んだのが「冷やしそば」。蕎麦の上に多量のネギと刻み油揚げが載っている写真が目に入ったのだがやはりオーソドックスに「ざる」930円を注文する。タフなコシが歯を押し返し、噛むうちに甘味が溢れ、野趣を纏った強い香りが鼻から抜けていく。十割なのでいわば噛むそばなのですが、細めに切っているので咽越しの爽やかさもあり、バランスがよい。鶯色鮮やかな野趣強い蕎麦もつゆとの相性よし。冷たいつゆは、竿釣りした枕崎産のカツオで作る京都『うね乃』の節を立たせ、利尻昆布で柔らかさを出すだしで3年熟成のみりんを使った返しを割る。砂糖を全く使わないキレの良さが光っている。

さてお腹も落ち着き、せっかく宇治に来ているからと宇治らしいものということで抹茶スウィーツを食べることに。宇治橋商店街通りを「中村藤吉本店」を目指して歩く。

宇治抹茶スウィーツと言えば「抹茶ゼリー」。そして有名なのが中村藤吉本店です。明治時代築の伝統的な茶問屋の建物を利用した店舗の「中村藤吉本店」の暖簾をくぐります。

安政元年創業で「永代日記」と題された古文書によると、初代中村藤吉は宇治御物茶師・星野宗以のもとで修行し、宇治の地に「中村藤吉商店」を開業。勝海舟から賜った「茶煙永日香」を家訓に掲げ、天皇陛下に御茶献上、茶道御家元より茶銘を頂戴し、茶業一筋に営んできているとのこと

「抹茶ゼリー」を頼もうと思っていたところ、渡されたメニューに出ていた「季節限定 生茶ゼリー(新茶)」に目がいってしまったので思わず頼んでしまいます。生茶のほろ苦さとあずきやアイスクリームの甘さがマッチして爽やかな後味で美味でした。

 

 

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