高野山1dayチケットで空海が開いた天空の聖地・高野山を旅する

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高野山は弘法大師空海により816年に真言密教の修行道場として、標高1000m程の峰々に囲まれた山上に開かれた、100以上の寺院が密集する一大宗教都市。今も高野山真言宗の総本山として信仰を集める高野山は、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で神秘の訪問先として三ツ星の評価を受けており、1200年もの長きに渡り、身分や宗派を越え、日本のみならず広く世界の人々を魅了する、地球上でかけがえのない聖地です。関西私鉄各沿線の乗車駅から高野山までの電車と山内のバスが一日乗り放題のお得な「高野山1dayチケット」で、1200年の信仰の歴史に思いを馳せて、神聖な空気をまといながらも、訪れる人を自然に受け止めてくれる聖地・高野山を満喫する旅に出かけます。

高野山を開いた弘法大師空海は、804年、唐の都・長安に渡り真言密教の名僧 恵果に師事し、わずか2年でそのすべての教えを受け継ぎ、密教の宇宙観を表す両界曼荼羅やたくさんの法具、経典などを持って帰国。弘仁7年(816)に国家の鎮護を願って、標高およそ900mの高野山の地に修禅の道場を開きました。空海が真言密教の教えを授かった唐から三銛杵と言われる法具を投げ到達したのがこの地だったといいます。平成16年(2004)7月7日に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された高野山は、平成27年(2015)に開創1200年を迎えるたのです。

密教とは文字では解き明かすことのできない秘密の教え。中心となる仏は、宇宙そのものの象徴であり密教独自の仏である大日如来、この世の全ての物は大日如来が時と場所を超えて形を変えたものだとされている。つまり草も木も動物ももちろん人間も大日如来そのものなのです。「山川草木悉界成仏」なのです。『草木也成 何況有情』草木ですら成仏するのである。どうして人間が成仏しないことがあろうか-空海「吽字義」よりまた真言密教の特徴は「即身成仏」という言葉がります。私たちが今生きているこの身このままで、仏になることができる、という教えです。

空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かいて去ること両日程にして、平原の幽地あり、名付けて高野と曰ふ 「性霊集」にあるように修行の場を都ではなく自分の原点でもある山に求めたのです。

高野山に行こうと思い立った時に一番お得感がある切符が「高野山1dayチケット2900円」です。春と秋の行楽シーズンに関西の鉄道各社から一斉に発売され、途中下車も楽しめる鉄道一日乗り放題と、高野山での寺院めぐりに使用するバスも乗り放題になる便利な切符です。関西各私鉄沿線の乗車駅から「高野山1dayチケット」を利用して難波(なんば)を経由し、南海電車で極楽寺駅まで快速急行で1時間40分の電車旅。別途特急券760円を購入して「特急こうや」に乗れば約1時間20分で、高野山へ向かうケーブルカーへの乗り換え駅・極楽橋駅に到着します。

高野山の麓・橋本駅から極楽寺橋までの19.8km、急勾配の斜面、24ものトンネルをくぐりながら標高差443mの山岳区間を駆け上がっていく区間は、南海高野線「こうや花鉄道」と呼ばれ、「天空」という特別列車が走っています。こちらも別途座席指定料金500円が必要ですが、窓向きの座席や展望デッキがあり、山の空気や自然をたっぷり楽しむことができるちょっとリッチな鉄道旅情が満喫できますよ。

極楽寺橋駅から高野山をつなぐ参詣鉄道であるケーブルカーは昭和5年(1930)に開通。窓外に広がる高野山の自然を愛でながら標高差328mの急勾配をぐんぐんと上り続け、5分で一気に標高867mの高野山駅に登っていきます。急勾配を上るにつれ、少しずつ温度が下がり空気感がかわっていくのを感じます。現在そのケーブルカーが54年ぶりに4代目の新型車両として世代交代を果たしています。スイスのメーカーに依頼した新型車両は窓が大きくなり、車体は流線型で、近未来的なデザインです。カラーは高野山壇上伽藍にある根本大塔を想起させる朱色を採用し、木目調の車内は柔らかな雰囲気で、床面のは滑りにくい材質を施しています。

高野山駅からは南海りんかんバスに乗りますが、大門行きと奥の院行きとがあるので、まずは大門行きに乗車しましょう。いよいよ霊場・高野山に向かいます。

まずは高野山入口・大門からスタートです。高野山の総門で、開創当時は現在地よりやや下がった九折谷に一基の鳥居があり、現在の建物は宝永2年(1705)に再建されました。高さが25.1m、幅23m、奥行8mの国内最大級の木造二重門で鮮やかな朱塗りは壮観です。門の両脇には金剛力士像が配置されていて、正面向かって右が仏師・康意(阿形像)左が運長(吽形像)作によるどちらも江戸時代のものです。

俗世と聖域を分かつ結界の役割を果たしているこの門の向こうに、弘法大師空海が造った修行の道場・高野山が広がります。標高およそ900m、八つの峰々に囲まれた山間に突如として現れる東西5km、南北2kmほどの平地に、117もの寺院が密集する天空の一大宗教都市が高野山です。ここから歩くかバスに乗って、世界遺産の金堂・根本大塔のある壇上伽藍や金剛峯寺、そして奥之院をめぐりましょう。1dayチケットがあればバスに何度でも乗車できますよ。

壇上とは大塔が鎮まる壇、道場という意味で、伽藍とは梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行をする閑静清浄な所という意味で、伽藍の地を高野山では壇上と呼びます。弘法大師が高野山の造営にあたり、修行場として「壇上伽藍」から始め、密教思想に基づき金堂、大塔、西塔、僧坊等の建立に心血を注いだ奥之院とともに高野山の二大聖地です。いわば修行の聖地であり、今も重要な儀式の多くが営まれています。

伽藍の中心のあざやかな朱色がひときわ目を引く「根本大塔」は、空海が大塔を真言密教の根本道場として建立されたことから根本大塔と呼ばれます。816年高野山開創の頃より着手し、大師と真然の二代を費やして887年頃完成した。高さ約48.5m、約23.5mの四面の偉容を誇り、内陣には中央に宇宙そのものを表す胎蔵界大日如来、四方に金剛界四仏、向かって右側に阿閦如来、不空成就如来、左側に宝生如来と阿弥陀如来、そして周囲十六本の柱には堂本印象画伯筆の十六大菩薩を配して曼荼羅を立体に顕しています。この配置は金剛界曼荼羅の配置なのです。※写真撮影禁止。

大塔の正面にあるのが真っ白な柱に驚かされる鐘楼「大塔の鐘」で、大師が発願され、二世真然大徳の代に完成、日本で四番目に大きい鐘ということで高野四郎と言われている。

大塔の左には壇上伽藍の中心、高野山開創当時は講堂と呼ばれており、平安時代半から一山の総本堂である「金堂」がある。本尊である高村光雲作秘仏・薬師如来の脇侍には向かって右に金剛薩埵、「不動明王」、普賢延命菩薩の三尊、向かって左に虚空蔵菩薩、「降三世明王」、金剛王菩薩の三尊が祀られています。そもそも密教は釈迦入滅まら千年以上たった4-5世紀にインドで誕生した新しい宗教運動でヒンズー教の影響を直接的に受けているため古代インド神話に登場する神々が元になっているものが多いのです。

内陣の両横、本尊を囲むように曼荼羅が掲げられます。仏が複雑な模様のように描かれる曼荼羅は密教を紐解くキーワードでもあります。曼荼羅には大きく二つ両界曼荼羅であり、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅があります。それぞれ大日教の教えと金剛頂教の教えを表しています。胎蔵界曼荼羅は中央の大日如来の知恵が現実世界に広がり実践される様子を409の仏の姿で表したもの。金剛界曼荼羅は中央から外側へ仏から救済の道筋が示され、逆に外側から中央へは俗世界から悟りへの道筋が示されています。曼荼羅とは難解な密教経典の参考書のような存在です。平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせた「血曼荼羅」である胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両部曼荼羅を修法する3壇をもつ密教の大堂なのです。

大師私願の堂として造営が進められ、完成後は嵯峨天皇御願の堂とされたものとのこと。金堂の裏手には延歴23年5月に入唐した大師がその2年後帰朝する際、明州の浜から伽藍建立の地を占うために空に向けて投げた密教法具の三鈷杵が光を放ちながら掛かっていたと伝えられる松葉が三本という珍しい松である「三鈷の松」がある。

壇上伽藍の西の端には鳥居があり、社があります。空海が真言密教の道場を開くためその場所を探し求めていた時のこと、黒と白、 二匹の犬を連れた狩人に出会います。狩人は紀州の山の中にあなたが求めている場所があるといい、犬を残して姿を消しました。犬に案内され山を上る途中この地を司る神、丹生明神が現れ、空海はこの地を借り受けたといいます。空海は壇上伽藍を開創するにあたり、一番最初に地主神丹生明神と狩人に姿を変えていた高野明神を祀りました。もともと丹生明神が鎮座する神社は山麓ののどかな山里にあります。紀伊の国一宮「丹生都比売神社」です。創建は1700年以上の昔、空海が高野山を開く500年以上も前のことです。ここに空海に高野山を授けた丹生明神/丹生都比売大神が祀られています。高野山の僧は、百日間の修行を終えると丹生都比売神社にお礼を兼ねて守護を願うお札を納めます。

その他にも弘法大師がお住まいになっていたといわれ、御入定後、真如親王の御筆による大師の御影を実恵僧都が安置した「御影堂」や建久9年(1198)一心谷に行勝上人が建立した鎌倉時代の書院造り様式の仏堂である「不動堂」、887年光孝天皇の勅命により当山二世真然僧正が大師の遺した「御図記」に従って大塔に続いて建立した「西塔」、1127年醍醐寺勝覚権僧正が白川上皇の御願により創建されたが天保14年(1843)に焼失、弘法大瑜師御入定1150年御遠忌記念で再建された「東塔」等が配置されている。実はこれも立体的な曼荼羅を表していると言われ、つまり伽藍全体が大日如来と一体となるための巨大な曼荼羅世界なのです。

壇上伽藍には昔中門がありました。金堂の前、真言密教の根本道場への正面玄関が開創1200年記念事業として幅25m高さ15mの巨大な木造入母屋造りの伽藍中門が再建されます。天保14年(1843)に7期目が焼失し、172年ぶりに鎌倉時代の建長5年(1253)に建てられた5期目の五間二階の楼門を再現しています。中門は壇上伽藍を守る結界の門で、初代中門は鳥居のようなものだったと考えられ、弘仁10年(819)に本堂の講堂前に建てられました。現在の壇上南側に移るのは永治元年(1141)の4期目からになります。

ここから紅葉を愛でながら空海が毎日通ったという壇上伽藍と総本山金剛峯寺を結ぶ「蛇腹道」を通って「金剛峯寺」に向かいます。大伽藍は僧侶達の修行の場であり、金剛峯寺から大伽藍に 行く道が幅およそ3m長さ100mの道が蛇腹道です。大師はこの地を「東西に龍が伏せるがごとく」と形容されていて、壇上伽藍を頭に、現在の蓮花院(千手院橋バス停袂)までが龍は伏している形に例え、ちょうどこの小道が龍のお腹の部分にあたることからその名が付いたと言われています。両脇の木は馬酔木が植えられているが秋になると色づく木々もあり紅葉が楽します。

大門からおよそ東へ1kmにある「金剛峯寺」は弘法大師が金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経の真意に基づいて名付けられた高野山の総称であったが、現在は高野山弘法大師御廟を信仰の中心として結成された高野山真言宗三千六百ヶ寺、信徒一千万の総本山の名称として知られており、高野山すべての土地は金剛峯寺の所有であり、高野山真言宗の一切の宗務を司る宗務所が置かれています。建物は文禄2年(1592)豊臣秀吉が母親の菩提のため応其上人に命じて建立した寺で、明治2年(1869)まで青巌寺と呼ばれていましたが、興山寺と合併した際に寺院の名称を改称し金剛峯寺としました。入り口である門は3ヶ所。壁の白線はお寺の格を表していて5本は最高位らしい。

主殿は火災による焼失のため幕末の1863年の再建で、東西約60m、南北約70mの壮大な建築。高野山は山上のためたびたび落雷による火災で消失してきました。檜皮葺きの大きな屋根が壮麗な曲線を描き、の上には雨水を貯めるためのが天水桶置かれています。堂内の廊下には、梁は水にまつわる海老のように湾曲した海老虹梁と呼ばれるもの、その手前に橋の欄干、廊下を水路に見立てることで火災を防ぐ願いが込められています。

金剛峯寺に本堂は無く、大広間が仏間にあたります。中に入ると狩野探幽が描いたみごとな襖絵や日本最大級の石庭の蟠龍庭、その奥には阿字観道場があります。阿字観とは真言密教の瞑想法で阿という字は密教の中心的な仏大日如来の象徴、つまり大日如来と一体になる修行です。豊臣秀次が自害した柳の間など興味深い見どころがいっぱいある。本尊は秘仏の弘法大師で脇侍に梵天と帝釈天が控えています。ご朱印は遍照金剛、あまねく光で世界を照らす空海のことです。

金剛峯寺のひとつ先のバス停が千手院橋です。ここでメインストリートから少し右に道をそれて、国宝の多宝塔がある「金剛三昧院」に立ち寄ってみましょう。この道は高野山と熊野本宮大社を結ぶ道「熊野古道・小辺路」の入口でもあり、大滝口女人堂跡に通じています。

北条政子が夫である源頼朝の菩提寺として、建歴2年(1211)に禅定院として創建。開山供養には栄西も招かれています。承久元年(1219)には源実朝菩提のために禅定院を改築して「金剛三昧院」と改称し、以後将軍家の菩提寺となります。貞応2年(1223)北条政子が禅定如実として入道し、源頼朝・実朝の菩提を弔うために建立したのが多宝塔で、1900年4月には国宝に指定されています。鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院であったため、高野山の中心的寺院の役割を担ったとされている。また境内には樹齢800年超の天狗伝説の大杉や、樹齢500年超の六本杉のほか、五月初旬境内いっぱいに咲く樹齢400年のシャクナゲの花も有名です。注目は本尊の愛染明王様と、結縁できる腕輪守。良縁御利益パワー全開ですよ。

もとに戻って「奥之院」方向に歩くと「苅萱堂」が目に飛び込んできます。苅萱道心(等阿法師)が出家して実の子石童丸(信性法師)と父子の名乗りをあげないまま四十年の長き期間、仏道修行に明け暮れたというの悲しい物語ゆかりのお堂で、当時女人禁制の高野山の掟により母を山麓の学文路の宿に残し、父を探し求めて登山した石童丸の帰りを待ちきれず亡くなった母の悲劇と共に壁面には石童丸伝説にちなんだ絵画が掛けられ、しばし物語の世界に誘われます。

さていよいよ高野山で最も清浄な場所「奥之院」の入口、一の橋に到着です。承和2年(835)年空海は62歳で入定、つまり永遠の瞑想に入りました。その50日後御廟が建立、これが奥之院です。壇上伽藍が修行の聖地とすれば奥之院は祈りの聖地です。この橋より「奥之院御廟」に至る1.9kmの間は葷酒絶対不入の浄域です。

参道の両側には、樹齢何百年も経た老杉が高くそびえ、その間を埋めるように木々の間には武将から庶民まで20万基を越える墓碑や記念碑が立ち並び大師信仰の厚さをうかがわせる。厳かな空気が流れ、歩みを進めるごとにその空気が濃くなるように、ここが神聖な場所であることをひしひしと感じとれます。

人々は弘法大師の下で眠りたいと全国から納骨されることから日本の総菩提所ともいわれ、奥之院参道に墓を造り、お供え代わりに杉の苗を植えたといいます。数多くある歴史上の人物の墓碑がおもしろい。上杉謙信の霊屋から見下ろせる場所に武田信玄の墓碑が、織田信長の近くに明智光秀の墓碑がと奥之院の地域は弥勒浄土そのものであり、平等に等しく仏の世界でいっしょに暮らすことができ、弘法大師といっしょに祈ることができる場所として確立されたのです。

御廟橋から先はいよいよ大師の霊域にはいる。聖地中の聖地なので写真撮影禁止、脱帽し、服装を整えてからお大師様のもとに向かいます。36枚の橋板で造られていて、全体を一枚と数えて金剛界三十七尊を表している。それぞれの裏面には種子(梵字)が刻みこまれているらしい。

この橋は苅萱道心と石童丸と初めて出会った場所でもあり、その右手には玉川に背を向けて地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などが安置されていてこれらを総称して水向地蔵と呼ばれ、多くの人が亡き人々の冥福を祈って水をかけています。

御廟橋を渡り、石段を登ると、弘法大師御廟の拝殿にあたる「燈籠堂」に至る。真然大徳が初めて建立し、治安3年(1023)藤原道長によってほぼ現在に近い大きさで建立されました。燈籠堂の中では舎利塔を中心に2万以上の献燈が常に灯っている。堂の正面には千年の間消えずに燃え続けている長和5年(1016)祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じた「祈親燈」(同上人のすすめで、貧しいお照が大切な髪を切って献じた「貧女の一燈」と呼ぶ説も)と寛治2年(1088)に白河上皇が参詣の際に自ら灯された「白河燈」(記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる)の二灯に昭和天皇が平和を祈念して献じた「昭和燈」の三灯は常明灯と呼ばれ、永遠に生き続ける弘法大師の生命のシンボルであるとのこと。その後方、奥之院の最奥に弘法大師御入定のあと、弟子達は魔尼山、楊柳山、転軸山の三山の中心にあって、その周辺蒼鬱たる宝樹で囲み、外廊の足元には清冽な玉川の水が流れるこの地に廟を建てたのです。これが「奥之院大師御廟」で、各宗派の祖師のなかでもただ一人入定信仰を持つ大師は、今も生きておられあらゆる人を救いつづけているという「大師信仰」中心聖地です。

しかしながら奥之院往復はきつく、ここだけで約4km歩いている計算になる。とにかくバスに乗って分岐点である千手院橋に戻ることにし、ちょうどお昼時でもありこの近くの「中央食堂さんぼう」に行ってみる。高野山で代々食堂を営んで約90年。金剛峯寺や各塔頭寺院に精進料理を納める老舗食堂。おすすめは宿坊での夕食をコンパクトにまとめ花形に小鉢をならべた見栄えも美しい「精進花籠弁当」です。肉、魚やタマネギなど五葷を一切使わず「五味五色五方」にのっとりつくられる料理は、素材が生きて噛みしめるほどに味わい深い。昆布や乾燥しいたけ、大豆などを水に浸し、一晩かけてじっくりと旨味を引き出す“精進だし”がおいしさの秘訣です。旬野菜の天ぷら、ごま豆腐、湯葉、季節の山菜など、地元の食材にこだわったおかずに麦と大豆の炊き込みごはん、お汁がつきます。

次に向かうのは千手院橋から高野山駅行きバスに乗り、最寄のバス停が波切不動前の世界遺産「徳川家霊台」がおすすめです。徳川家康、秀忠の御霊をまつるために三代将軍家光により寛永20年(1643)に創建されました。落成・完成まで10年以上費やされたといわれ、かつての高野聖方の本山大徳院の裏山に建てられています。

向かって右が家康霊屋、左を秀忠霊屋と呼称する三間四面の一重宝形造の建物は、東照宮形式として他所の見る事の出来ない特異な白木造りの外観。金銀箔を押した極彩色の厨子は細部まで彫刻や金具などの装飾に飾られています。家康の方には東照大権現という神様として崇められている為なのか、鳥居が置かれていますよ。(拝観料200円)

最後に「女人堂」まで京大阪道(高野街道)不動坂を歩き、帰りのバスを待つことにします。明治5年(1872)まで高野山は女人禁制であり、ここより高野山内に入ることが許されませんでした。それで女性は細く険しい女人道と呼ばれる高野山の周囲を囲むように尾根道を巡り、遠くから大師御廟を礼拝することだけが許されていたのです。山内に入れない女性の為、高野七口と呼ばれた高野山への入口それぞれにお篭り堂が置かれていて、女性たちは女人堂から女人堂へと八葉の蓮華に例えらられる峰々を辿ったのでした。現在はこの不動坂口の女人堂だけが残っています。女人堂バス停から高野山駅まではバス専用道路ですので「高野山1dayチケット」を活用しましす。

春と秋の行楽シーズンに関西私鉄各社から一斉に発売される「高野山1dayチケット」は、メリットや特典がいっぱいです。各沿線の乗車駅によっては割引率が非常に高くなることや、一日乗り放題なので途中下車も楽しむことができます。高野山までだけでなく、高野山での寺院めぐりに利用するバスも乗り放題なのです。おまけに高野山での拝観施設(金堂・根本大塔・金剛峯寺・霊宝館)の拝観料が2割、食事・お土産代金が1割の割引券もついています。一日しか使えないのですが、日帰りの旅にはとってもお得で節約になります。通常購入期間は、春が4月1日から6月末、秋が10月1日から11月末に限られていますので注意が必要です。

注:高野山への参詣道は幾つかありますが空海自身が歩いたとされる道が町石道です。高野山の麓、和歌山県九度山、ここに高野山への表参道の出発地点があります。それは816年空海が高野山を開く際、表玄関として開いた慈尊院という寺院です。高野山は昔女人禁制の山で空海の母、玉依御前が息子の開いた山をひと目見ようと讃岐国からやってきましたが母といえども山に入ることは叶わず、麓このの寺に滞在しました。それを知った空海は月に九度は必ず二十数キロの山道を下って母に会いにいきました。そこから九度山という地名が付いたといいます。

母、玉依御前が信仰していたことから御廟には弥勒菩薩が祀られます。この寺の境内から階段を上がったところに高さ3mを超す石塔があります。百八十町の文字が刻まれる町石で、ここから高野山へと続く町石道が始まります。 一町およそ109mごとに町石が建てられています。壇上伽藍まで180基、距離にして20km以上の道を、白河上皇や藤原道長も歩いた道です。この町石は単なる道標だけではなくそれぞれ仏の象徴である梵字がひとつひとつに刻まれています。つまりこの参詣道は仏が並ぶ曼荼羅の世界です。

道中には空海が袈裟を掛けたといわれる袈裟掛石、空海の母が山に入ろうとすると火の雨が襲ったため母を匿うために持ちあげたと言われる押上石等があり、この伝説に彩られた道はいくら交通事情が整備されようとも永遠に人々が上り続ける信仰の道なのです。

 

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