青春18きっぷを使っての一人旅、今回日本100名城に選出されている新潟県新発田市にある新発田城を目指すことに。櫓の屋上に鯱が二つでなく三つ乗っている、世にも珍しいお城です。いつも通り長野始発5時10分発の飯山線越後川口に行きに乗り込み出発します。越後川口から上越線長岡行きに乗り換え、9時17分長岡駅に着きます。次の信越本線新潟行きまで約1時間あるので駅弁「新潟産コシヒカリと海鮮のうまいもん寿司」を購入、10時29発で新潟に向かい乗り換え時間10分の間にまた駅弁「SLばんえつ物語弁当」を購入し、11時42分発白新線村上行きに乗り、やっと12時20分新発田駅に到着です。
駅弁のパッケージに買ってしまいそうになるキーワードが掲げている。「新潟産コシヒカリ」と「海鮮」「寿司」ときてはたまらない。そして海鮮の中身はお品書きと写真で一目瞭然。赤色の風味豊かな「ずわいがにのむき身」プリっととした酢漬けの「えび」、「いくら醤油漬け」をのせた「鮭ほぐし」、そして購入を決定づける黄金色の「蒸しうに」とある。これら人気者の陰で地味ながら」「にしん甘酢漬け」がこっそり後押ししています。隠れて見えませんが酢飯の上には「味付けたらこ」がたっぷり敷いてあります。美味しくないわけがありません。
駅から新発田城に向かう途中、すぐに新発田総鎮守「諏訪神社」があります。諏訪神社は地元の長野県より多い全国一位の約1000社が新潟県にあります。往古北夷の来襲に備え、屯田兵制の如くにして信州民を多く移住させたところ、諏訪大社から遠ざかるのを嘆き大祝部家に懇請し、大化4年(648)に沼垂と岩船の二柵の中間浜山に安置したのが創設とのことで、ここにも信州とのつながりを知ったのです。その後初代藩主溝口秀勝が慶長5年(1600)新発田城内に遷座しましたが、宝暦6年(1756)七代藩主溝口直温によって社殿が造営され、近郷の総鎮守としました。
平成13年11月5日に焼失した社殿は再建され、境内には新発田市出身のホテルオークラ等を創業した実業家、大倉喜八郎が奉納した石鳥居も立ちます。とりわけ目を引くのが平成28年8月諏訪大社下社から下賜された春宮一之柱の御柱で、ゴツゴツしたモミの巨木は勇壮な神事を彷彿させます。
諏訪神社の向かいに「市島酒造」があります。約400年前、新発田藩に入封した初代新発田藩主溝口秀勝に随伴して移り住んだ市島家。その後1970年代(寛政年間)に分家し、現在の場所で創業されたという「王紋」で知られる歴史ある酒蔵です。明治時代に米蔵の酒造から移築された貯蔵庫などが開放され、古い酒造りの道具や収蔵品などを見学することができます。もちろん試飲も可能です。
新発田駅から500mほど寺町通りには歴史あるお寺が軒を連ねます。このエリアには宗派の違う9つのお寺が建ち並び、初代藩主溝口秀勝が開基した禅寺宝光寺には、歴代藩主と奥方の墓塔や位牌をお祀りする御霊屋や県内随一の「山門」をはじめ、荘厳で趣のある仏閣を拝観することができます。写真の曹洞宗菩提山福勝寺の開基は戦国時代、上杉謙信旗下の武将として勇名をはせた、佐々木(新発田)因幡守重家です。佐々木加地氏の系統をひく新発田氏が名の由来です。謙信亡き後、「御館の乱」では上杉景勝に味方するも恩賞がなく、天正10年(1582)織田信長に呼応して上杉景勝と袂を分かつも、天正15年(1587)新発田城落城と共に討ち死にし、本堂横に墓所があります。
菖蒲(あやめ)城という別名を持つ新発田城は、日本100名城に選ばれている新発田市のシンボル。その新発田城のシンボルは、本丸に立ち天守閣の役割を果たした三階櫓です。注目は、最上階の屋根の上、T字型の屋根の上に三つの鯱が載っています。ちょっと珍しい造形で、瓦の目地に漆喰が塗られたなまこ壁も特徴です。全国でも珍しく自衛隊が本丸の半分と二の丸の3分の2ほどに駐屯する城のため模擬の城壁で区切られており、三階櫓は内堀越しに眺めることになります。
この三階櫓と表門脇の辰巳櫓は平成16年(2004)に、古文書や明治5年(1872年)頃の写真をもとに復元された建物です。
辰巳櫓の中は2階に上がる階段が急で史実に基づいて復元した結果14段の急勾配になったとのこと。
赤穂義士で有名な堀部安兵衛の父中山弥次衛門はこの辰巳櫓の管理責任者でしたが、櫓の失火の責任を負って浪人となります。息子の安兵衛は18歳の時、家名再興のため江戸に出て、日本三大仇討のひとつ高田の馬場の決闘の助太刀によって名を挙げたのです。
本丸の表門と旧二の丸隅櫓は江戸時代(1668年築)から残る建物です。表門は、本丸の玄関となる桁行約16.3mに及ぶ櫓門で、2階は板張りの資料室になっています。格子窓からのぞくと門前を見下ろせ、床下に設けられた石落としから攻撃ができるようになっています。
二重二階の旧二の丸隅櫓は、寛文8年(1668)の大火後に再建され、昭和34年(1959)からの解体修理の際に本丸鉄砲櫓跡に移築されています。こちらも内部の見学ができます。
なまこ壁とともに新発田城の美の特徴が全長約350mに及ぶ切込接の石垣です。成形された石が整然と積まれた立派な総石垣の城で独特の雰囲気があります。寛文9年(1669)5月の大地震で石垣の大半が崩れ翌年から積み直しが行われました。石垣はそれまでの乱積みから全面「切込接布積み」角の部分は「算木積み」に変りました。切込接は石を整形し隙間なく積む当時の最高技術で、積み直しには江戸から石職人を詠んだと伝えられています。石は市内の五十公野で産出された「古寺石」と呼ばれる硬い粗粒玄武岩が使用されています。
しかしながら城外側だけが石垣で固められていますが、城内にはさほど石垣がなく、本丸も土塁で囲まれています。新発田城は、新発田川が形成した砂礫土層の三角州の上にあり、北に加治川が流れ、深い沼沢に挟まれた低湿地にあり、近づきにくい立地です。新発田城が別名「菖蒲城」と呼ばれるのは、周囲に湿地が多くアヤメがたくさん咲いていたという説があるからです。「浮舟城」という別名も、加治川の堤防を破壊すれば城を水浸しにして防御できるように設計されていたとされることに由来します。
「新発田」の名は上杉景勝に反旗を翻し苦しめた新発田重家で知られる新発田氏が由来です。新発田氏の後、上杉景勝が会津に転封になると豊臣秀吉にかわいがられた武将、溝口秀勝が慶長3年(1598)に6万石でこの地に入って現在の新発田城を築き、明治の廃藩置県までの273年間、12代にわたって新発田藩主の座にありました。日本海に近く、城下町が繁栄する基盤もあったことから、この地を城地に選び、新発田氏の城を取り囲む形で新たな新発田城を築城しました。
新発田川が流れる川沿いに旧新発田藩下屋敷大名庭園「清水園」があります。藩主の別邸である下屋敷は、三代宣直(寛文6年)の時に清水谷と呼ばれた当地に建立、庭園は4代重勝(元禄年間)の時に築庭された京風の大名庭園をもち、広さ4600坪の下屋敷は「清水谷御殿」と呼ばれました。
新発田川を挟んで反対側には、武家の奉公人らが住んでいた足軽長屋が立っています。畳部屋2室と炉を切った板間1室など広さ約30平方メートルの家が8戸連ねて長屋になっています。このあたりは江戸時代にタイムスリップした雰囲気を感じます。
さて新発田城をみたことで今回の目的は達成なので一路長野に戻るとします。新発田15:55発羽越線新津行きに乗車します。
帰りの車中で朝購入しておいた駅弁「SLばんえつ物語弁当」を味わいながら過ごします。
焚き込みご飯の上にのっているのがかしわ、焼きサケやニシンの煮つけ、ホタテ、いくら、ダイコンの味噌漬け、錦糸玉子にかまぼこ、仕切りの向こう側に野菜の煮染め等バラエティ豊かなおかずが揃いボリューム満点です。
長野到着21時29分到着の一日駅弁鉄道旅でした。