桜前線を追って南信州飯田市の一本桜をめぐる巡礼旅

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東を見れば南アルプス、西を見れば中央アルプスと雄大な山並みを両側に望み、その山麓に田園や果樹園が広がる南信州の伊那谷は、四季折々の風景が楽しめるエリアです。その中心都市の飯田市もまたどの季節に訪れても美しい風景に出会えます。なかでも残雪の山々を背景に桜が咲き誇る春は格別です。特に南信州飯田市には、樹齢300年を超える由緒ある老桜や樹形の素晴らしい一本桜が多く残されており、信州の中でも桜の名所として人気があります。限られた地域で、これだけ多くの名桜が観られる所は全国的にも大変珍しく、市内に一本桜が多いのは江戸時代の飯田藩主が桜好きだったため、周辺に植えるように命じたためと伝わります。信州の春を彩る、零れるような満開の花が咲く桜を、時間をかけて巡ってみます。

飯田の一本桜の代表格といえば、飯田市郊外座光寺の「麻績の里舞台桜」です。5つの花びらの中に雄しべが花弁に変化した「旗弁」があり、花びらの数が5~10枚と定まらないのが特徴で、平成17年に新種と断定された「半八重枝垂れ紅彼岸桜」との呼び名を持ち、飯田下伊那でも人気の高い名桜の一つです。

名の由来となった旧座光寺麻績学校校舎は明治7年に建てられた県下最古の学校建築で、2階が校舎、1階が歌舞伎舞台として使用されていました。石段を上ると山際の広場の一角に古き良き時代の面影を残す手入れが行き届いた木造校舎と、その校庭に樹高8mのところから枝が地面につくほどに薄紅の花びらが風にそよぎ、まるで振袖をまとった娘にように枝を広げている樹齢約400年の枝垂れた桜が迎えてくれます。横に長く伸びた枝は垂れないように添え木があてられています。南アルプスの眺望も美しく、桜と建物の黒い屋根瓦とのコントラストが、その美しさをさらに際立たせているようです。

麻績の里舞台桜のすぐ西にある座光寺公民館の横にもう一本、石塚一号古墳の上に立つ「麻績の里 石塚の桜」です。推定樹齢約250年、樹高は約15mのシダレザクラです。小高く盛られた半円形の古墳の上で、まるでこの古墳を守るように枝垂れた枝が包んでいます。こちらもなかなかの存在感です。

続いて向かうのは丘の上と呼ばれる飯田市の中心市街地で、江戸時代に小笠原氏、脇坂氏、堀氏などが城主を務めた飯田城の城下町として栄えた歴史を持っています。飯田は河岸段丘の緩い傾斜地に碁盤状に整然と区画された街並みが広がっています。信州の小京都と呼ばれるにふさわしく、歴代藩主は風流と桜を愛し、追手町、江戸町、愛宕町などには樹齢三百年以上の名桜、老桜が多く残っています。

正しくは長姫(おさひめ)城と呼ばれる飯田城跡は、飯田市が一望できる高台(追手町)にあります。飯田城の二の丸跡には飯田市美術博物館があり、そのモダンな建物の前には見上げんばかりにそびえる樹齢450年以上、胸高周囲6m、樹高約20mの桜「長姫の江戸彼岸桜」が花をつけています。この飯田城二の丸跡が家老安富氏の邸宅だったため、通称「安富桜」の名で親しまれています。

人工的な支えもないまま太い枝を四方に伸ばす姿は、まるで昇り龍のように堂々たるものです。幹と枝張りが雄々しく均整のとれた美しい樹形が素晴らしく、古木の風格を感じさせてくれます。その凛々しい立ち姿は近くで見ても遠くから見ても美しく、傍らでサンシュの黄色い花が彩りを添えています。美術館の前庭にあるので飯田出身の画家・菱田春草の名画鑑賞とともに楽しむのもいいです。

同じ追手町の県飯田合同庁舎の東端の崖縁にあるのが「桜丸の夫婦桜」。ここは曲輪内に桜が多く植栽されたので桜丸と呼ばれた飯田城桜丸跡地で、脇坂安元が建てた桜丸御殿がありました。推定樹齢400年、胸高周囲5m、高さ10m、南アルプスを望むような樹形が見事です。一本の木に見えますが、エドヒガンとシダレザクラが根元で合体していて、寄り添って咲く珍しい夫婦桜です。どちらも藩政時代から生きながらえている桜で、ごつごつとした太い幹がなんともたくましく感じます。

追手町の隣、愛宕町にある「愛宕神社の清秀桜」は、樹齢約780年、胸高周囲6.7m、高さ10mの巨木で市内最古、県内でも屈指の老木のエドヒガンザクラです。仁治元年(1240)愛宕城が長姫城に移った跡地に建てられた地蔵寺の清秀法印がこの桜を植えたといい、悠久の時を越えてきた深みのある美しさが感じられます。花びらが濃いピンク色をしているのが特徴です。また境内には、昔境内でお店をしていた千代蔵さんが植えた「千代蔵桜」と呼ばれる一本桜もあり、一緒に楽しめますよ。

一方飯田市街地のお寺で見られる桜は、趣のある寺院建築と相まってどこか上品な風情があります。江戸時代に江戸詰の交代藩士の屋敷があったことから名付けられた江戸町には、武田信玄の息女、黄梅院姫の菩提を弔うために建立された黄梅院があります。本堂脇に植えられている「黄梅院の枝垂れ桜」は、推定樹齢約350年の紅彼岸系の古木です。飯田城主脇坂安政公が、先代である安元公の菩提を弔うために、「弥陀の四十八願」にちなんで領内四十八寺堂に植えた桜の一本とも言われています。

樹高約16m、幹周り5.5m、天に向かって真直ぐに立ち、山門に覆いかぶさるように左右に張った枝が垂れ下がる姿はまるで冠のような樹形で気品を感じさせます。開花時の紅色がひときわ鮮やかなのも特徴で、日が経つにつれて花びらは白さを増し、そのグラデーションを楽しむのも一興です。桜花の中で最も濃い紅色は紅梅をも思わせますよ。

同じ江戸町にある正永寺は、応永15年(1408)飯田城主・坂西由政によって開基された曹洞宗の寺です。本堂脇に立つ「正永寺の枝垂れ桜」は、戦国時代、飯田城主が各寺を城の周りに移転するように命令し、ここに寺が移転、建立された文禄3年(1594)に植えられたとも、飯田城主脇坂安政公が、先代である安元公の菩提を弔うために領内に48本の桜を植えたとされる、「弥陀四十八願」の一本とも推測されます。

推定樹齢400年余、胸高周囲3.8m、高さ15mの古木は、老木のため幹の傷みが激しいのですが、どっしりとした幹は飯田の歴史の重みを伝えています。幹の片側だけに大きく張り出し枝垂れて咲く花は、まるで天空からの大瀑布のように流れ落ち、荘厳な美しさです。

江戸町の隣、伝馬町にあるのが曹洞宗のお寺「専照寺」です。通りから細い参道を入った所にあり、屋根の上に鐘楼が乗っている珍しい山門をくぐります。正面には釈迦牟尼仏を覆うようにしだれる推定樹齢400年の古木が「専照寺の枝垂れ桜」です。慶長8年(1603)、城主小笠原氏の帰依により現在地に移転され、その時に植栽されたと推測されています。胸高周囲4.5m、樹高10mです。

一本桜巡礼も終盤、旅の締め括りは飯田市南の郊外まで足を延ばします。豊橋方面、遠州街道の旧道沿い、段丘の斜面から長く枝を伸ばし、ながれ落ちる滝のようなダイナミックな姿が印象的なのが「くよとの桜」です。「くよと」とは供養塔のことで、根元には秋葉、蚕玉、天神といった神仏の石塔が並んでいて、信濃守護・小笠原氏の内紛の犠牲者を弔うための桜であるといわれています。推定樹齢約350年のシダレザクラは、飯田市内でもっとも早く咲き始めるエドヒガンのひとつで、のどかな田園風景とあいまって人気が高いです。

飯田IC近く大瀬木にある増泉寺は、およそ1200年の歴史を持つ笠松山の麓に立つ古刹。「増泉寺の天蓋枝垂れ桜」は樹齢約300年、天蓋のように境内を覆う見事な樹形の紅枝垂れ桜で、樹高は18mあり、地面スレスレに枝を落ろしています。見上げれば天から降るように思え、山門越しに眺めるとその大きさが際立ちます。国道153号から寺への路地が狭いので注意が必要です。

飯田山本ICを下り、国道153号から少し入ると、木造平屋建ての校舎(旧山本中学校杵原校舎)を背に、均整の取れた枝が広がる一本桜「杵原学校の枝垂れ桜」があります。まるで両手を広げ、かつての子供達を包み込むように咲き誇っています。

平成17年、戦後の建物としては全国初の国登録有形文化財に指定されています。この佇まいに目をつけた山田洋次監督が、吉永小百合主演の平成20年公開、映画『母べえ』や続く平成27年公開の『母と暮らせば』のロケを行いました。

小説『桜守』の著者水上勉が、「ひとつの町にこれほど多くの桜の古木があることは、非常に珍しいことだ」と語ったといわれるほど、南信州飯田地域は全国でも珍しい名桜の宝庫です。

そんな南信州飯田には、桜にまつわる人々の暮らしや歴史を語る「桜守」といわれる案内人がいて、桜のシーズンには、桜守とめぐるツア-「桜守の旅」を実施されています。桜守の案内と名桜の旅は、飯田の文化に触れる旅の醍醐味です。

 

 

 

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