
津軽平野の南部、岩木山南麓を北東に流れる、岩木川の河岸段丘の平地に築かれた平山城が、江戸時代に弘前藩を治めた津軽氏の居城「弘前城」です。別名鷹岡城とも呼ばれ、市街地にもかかわらず現存12天守のひとつである5層5階(焼失後は3層3階)の天守と3棟の櫓、5棟の門が築城時の姿を今に伝えています。天守のある本丸を中心に内堀を隔てた周囲に二の丸、北の郭、西の郭、さらに三の丸、四の丸などを配した輪郭式縄張。堀と土塁に囲まれた姿は、西日本の石垣を多様した城とは異なり、独特の趣が感じられます。しかも二の丸を過ぎると一転して本丸部分だけ石垣が積まれていて別の顔を見せてくれます。4万7000石の弘前藩の持てる財政の中でギリギリ立派な城にしようとした粘り強さなのでしょうか。
天正18年(1590)津軽地方をの統一を成し遂げた大浦為信が、豊臣秀吉から4万5000石の領地を安堵され津軽と改姓。文禄3年(1594)の大浦城から堀越城に移り、藩の基礎づくりを開始し、関ヶ原の戦いで東軍につき、家康よりさらに2000石の加増を受け4万7000石の弘前藩が成立しました。慶長8年(1603)には幕府の成立とともに岩木川と土淵川に挟まれた鷹岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進め築城を計画しますが、4年後に為信は京都で客死し、築城は中段します。慶長15年(1610)に二代信枚が築城を再開し、わずか1年と数か月で弘前城が落成します。写真は弘前市のマスコットキャラクター「たか丸くん」です。弘前城(鷹岡城)の鷹をモチーフに津軽藩初代藩主・津軽為信をイメージした兜に弘前城が乗ったデザインです。
築城当時から現存する建造物が多いのも弘前城の魅力です。6つあった門のうち5つ、14あった櫓のうち3つが現存し、どれも国の重要文化財です。お城を取り壊されなかった理由は、最後の殿様である12代・承昭が肥後藩細川家からの養子で九州から入った討幕派の情報を受け、最終的に新政府側に付いたため、廃藩置県による城の取り壊し煩く言われなかったとか。特に城門は必見です。二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の5棟が現存する城は全国でも希少で、門の両側が石垣ではなく土を盛った土塁であることも特徴です。土塁や土塀なども良好な状態で残っています。
またいずれも巨大でがっちりしていて、門の前面に特別の門(高麗門)などを設けず、一層目の屋根を特に高く配し、全体を簡素な素木造りとしていることなど豪雪地帯らしい工夫がされていることが魅力です。写真は周辺に最も有力な家臣の屋敷が集まっていたという二の丸南門です。二の丸東門と同様に一階正面の柱にケヤキ板を化粧のための鏡板として張り付けるなど、打ち廻りの門としての配慮がなされていると考えられる城門です。建築当初は本瓦葺でしたが、文化年間に銅板を葺いた記録が残っています。
写真は三の丸東門も他の城門と同様に木部が露出し、軒に反りがなく、出窓は直線的に設けられるなど、装飾的なものがほとんどない簡素な造りとなっていますが、木型を銅板で包んだ他の門と異なり、鋳鉄製の鯱があげられています。
石垣よりも土塁が主流の東北地方の城らしい点といえ、二層の櫓門の三の丸南追手門は土塁で枡形が造られ、いかにも東日本の城という印象を受けます。柱が太く、屋根の軒が直線的。豪壮で骨太な城門は迫力があります。5棟の城門すべてが桝形門で、北門以外は上層の壁面に鉄砲狭間があります。
三の丸東門から三の丸に入り、北の郭方向に中濠沿いに進むと見えてくる二の丸丑寅櫓は、城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺(当初はとち葺)となっています。軒下や虫格子の木部は素木のままで飾り気がないが、独特の美しさがある。櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東にあたります。
二の丸辰巳櫓は城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りとなっています。1・2層は四間四方の同面積ですが、三層目を小さくし屋根は入母屋にしています。歴代の藩主は、この櫓から三の丸を通る弘前八幡宮に山車行列などを観覧したと伝わります。櫓の名前は天守から見た方角を十二支で示したもので辰巳は南東に当たります。辰巳櫓は追手門から入城した時に最初に見える櫓です。
追手門から入城すると辰巳櫓と未申櫓の間にある中濠に架かる杉の大橋を渡って南内門から二の丸に入ります。
二の丸未申櫓は城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りとなっています。現存する3つの櫓はいずれも三層建てで同じような形ですが、窓の形など細部の造作に違いが見てとれます。櫓の方角を十二支で示したもので未申は南西に当たる。
中堀の土橋を渡って北の郭へ。北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して三層の櫓・子の櫓がありました。櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていました。子の櫓は廃藩以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)焼失してしまいました。平成13年7の発掘調査により正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が確認されました。櫓の規模は四間×四間(約8m×8m)であり、二の丸に現存する三棟の櫓と同規模となります。
武徳殿休憩所は明治44年(1911)に演舞場として建設されましたが現在は、休憩所として、また館内にはお土産コーナーや喫茶コーナーがあります・
赤井欄干の鷹丘橋を渡って本丸に向かいます、写真は橋上から見た本丸戌亥櫓跡
本丸戌亥櫓跡は城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(1690)に杮葺きの葺替えが終了しています。また同9年には、軒下にあった番所の修復も行われており、北の郭から櫓台下、本丸への通路がありました。
弘前城は東北で唯一江戸時代に建てられた天守が残る城です。築城時に築かれた5層5階の初代天守が、寛永4年(1627)に落雷で焼失したため幕府に天守の再建を申請しましたが、当時は元和元年(1615)の武家諸法度公布後で天守の新築は厳しく規制されていました。そのため幕府には本丸辰巳櫓の改築という名目で申請し、文化7年(1810)9代藩主津軽寧親の時に再建が叶い三重櫓を建てて天守代用としました。初代天守があったのは、現在の本丸未申櫓跡で、築城当時は五層の天守閣がありました。寛永4年(1627)に落雷で焼失したため、焼失後は隅櫓が建設されました。元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字が刻んだ石が出土し、最勝院に保存されています。櫓の方角が本丸の南西(未申の方角)にあったため本丸未申櫓と呼ばれています。
当時幕府から再建後の検査に来た武士を、東南側は一切見せないまま駕籠で運び北西側で下し、櫓の面だけを見せて上手く切り抜けたといいます。そのため天守の特徴は、北・西面と東・南面の外観が違うことです。城外側(二の丸側)の天守の東・南面は天守が優雅に見えるように切り妻破風や出窓、矢狭間などの装飾が設けられています。初代天守は防火を祈願した鯱に落雷し、焼失したという皮肉な説もあります。
城内側(本丸側)の西・北面は装飾の窓がなく簡素な造りで、採光のために銅板張りの窓がたくさん付いているだけです。総重量約400tの天守は平成27年(2015)から石垣の修復工事のため、背景に岩木山を望める本丸の中央付近に天守ごと曳屋で移動されています。石垣が積み直された後、元に戻されます。
天守真下から本丸東面の架けて約100mと南西の約10mが修理中。
武者屯御門跡は、長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門扉は二枚扉でした。番所があり更に門の両脇に袖塀があったことが古い写真からわかります。二の丸と下乗橋で区画され、本丸に連絡路で続くこの一部が「武者屯」で、合戦の際には大将が軍装を整えて号令を発する場所でした。
下乗橋は本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札があり、藩士は馬から降りるように定められていました。築城当初、橋の両側は土塁坂でしたが、文化8年(1811)に石垣に直されました。以前は擬宝珠が十二支をかたどったものでした。
下乗橋を渡ると南北に長い二の丸になり、二の丸馬場があります。元禄7年(1694)に完成し、明治4年(1871)の廃藩まで使われていました。復元整備は発掘調査を基に実施し、長さ160m(90間)、幅16m(9間)で、柵で仕切られ、内側に排水溝と通路、小土居がありました。藩主は、御高覧所から馬の品定めをし、藩士の馬事訓練を実見しました。馬場は、二の丸の他に、本丸・三の丸・西の郭・西外の郭にあり、城外では4代藩主信政を祀る高照神社などにもありました。高照神社の馬場は、文政13年(1830)に造られ、二の丸馬場とほぼ同規模で、外側土塁に石積みがありました。神事に使われており平成29年に復元整備されています。左の建物は弘前城情報館
御高覧所跡は馬場の中央に位置し、東西約6m、南北約6mの総柱建物を北に一部拡張したL字型です。藩主が藩士らの馬術を御高覧になった場所で、藩庁日記によると、藩主が城にいるときだけ仮設しました。馬場が元禄7年(1694)に築造されているので、同時期から仮設されたと推定されます。
二の丸馬場を北に進むと三の丸へ向かう東内門があり、隣接して二の丸東門与力番所が建っています。与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、藩政時代には追手門与力番所、三の丸東門与力番所等12ヵ所に建てられていたようです。この与力番所の建築年代は定かではありませんが、柱や梁に残された墨書きは江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書き跡と酷似し、構築手法は江戸時代中期の様相を呈していることから、古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推定されます。
三の丸の北門として四の丸に通じる賀田門は、旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝わる。門の内外は直進できないよう折れ曲がった枡形が造られていて、堅固な備えを見せています。
現在護国神社が建つ四の丸の北側に北門があります。現在は追手門が正面玄関で、現在は搦手門ですが、四の丸北門(亀甲門)は4代津軽信政までは大手(正面)だったようで、現存するほかの4棟の城門に比べて、規模が大きく、かつ狭間がなく、唯一実践の痕跡をとどめています。大光寺城からの移築ともいわれています。※修理中
その北門の守護として武家の住んでいた場所が仲町で今も同地区に残るサワラの生垣や板塀などが、往時の雰囲気を偲ばせます。仲町伝統的建造物保存地区に指定され旧岩田家住宅や旧梅田家住宅が江戸時代後期の武士の住居を今に伝えています。また北門前の県道31号沿いに石場家住宅があります。江戸時代中期築といわれる商家の建物で、藩政時代はワラ製品を扱っていた豪商です。大きな梁や釘を使わない指物など豪壮な造りが特徴。家内安全などを祈って梁に吊るされた馬沓も必見です。現在も現役」でお酒」などを販売しています。
大手門から南に下った禅林街入口に建つ黒門は長勝寺の総門という位置づけですが、土居を配した桝形構造で、城郭門としての機能がありました。禅林街全体が弘前城の西南(裏鬼門)に位置し、城の守りを固めるために、2代藩主・津軽信牧が1610年に作らせた出城(長勝寺構)としての役割を持っていました。左右に板塀を伴う高麗門形式を採用し、門の総高は4.9m、支柱柱間4.3mで、主柱上と左右の控柱と主柱の間にそれぞれ板葺切妻屋根が載り、平面はコの字形になっている。延宝5年(1677)から貞享4年(1687)の建造。 「五重塔の最勝院に禅林街と長勝寺!古都弘前・歴史の街を歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/7794
弘前公園は、全国屈指の桜の名所として有名で、さくらの名所100選に選出されています。1715年に津軽藩士が京都から運んだカスミザクラが始まりといい、廃城後、明治期に入ってから少しずつ旧藩士による植栽が続きました。現在では52種約2600本に及ぶ桜のうち樹齢100年を超える桜が400本以上もあり、リンゴの剪定技術を応用した「弘前方式」で管理されています。一つの花芽の中にある蕾の数が多く、ボリューム満点。花が密集し、水堀を覆うように枝が美しくしなだれます。満開の桜が頭上を覆う西濠沿いの桜のトンネル、ピンクの絨毯のように堀の水面を花びらが埋め尽くす「花いかだ」など、満開時には息をのむ美しい風景に出会えます。