
函館五稜郭とともに日本に二つしかない星形稜堡の洋式城郭をもつ龍岡城五稜郭は、箱館五稜郭の築城の4年後、大給松平乗謨によって慶応3年(1867)に築城された日本最後の城です。星形城郭はフランスのヴォーバン元帥が17世紀に考案した城郭にしたといわれ、山から遠く離れた平野の真ん中にあってこそ、その機能を十分に発揮できる平城でした。松平乗謨は、早くから様式城郭にあこがれており、その先見性と江戸時代末期の動乱期の情勢などから龍岡城五稜郭が築城されました。続日本100名城に選出された五稜郭を訪れます。
三河額田郡・加茂郡に4千石の領地を持ち、貞淳元年(1684)1万6000石で三河に立藩した大給藩は、宝永元年(1704)に飛び地1万2000石と交換する形で信州佐久郡田野口に一万2千石を領し、正徳元年(1711)に三河奥殿に本拠地を移し奥殿藩に改称されます。三河奥殿藩16000石の大給松平氏は、宝永以来160年間、佐久に陣屋を置いて、領内22ヵ村の統治を続けてきました。大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家に譜代の家臣として仕えてきました。文久3年(1863)奥殿藩11代藩主松平乗謨は、奥殿藩の領地の大部分であった信濃国佐久郡田野口への陣屋移転・新築許可を得ます。写真は大給恒(松平乗謨)の碑。明治10年日本赤十字社のもととなった博愛社を設立しています。
信濃国への藩庁移転により田野口藩と呼ばれ、大給松平氏は代々「陣屋格」で、城を持つ資格がなかったため、新しい陣屋を稜堡式城郭とし元治元年(1863)より築城を開始し慶応3年(1867)4月には城郭内の御殿は竣工したが、城郭としては未完成のまま明治維新を迎えます。なお慶応4年(1868)5月に龍岡藩に改称されたことから龍岡城と呼ばれています。
龍岡城への最寄り駅はJR小海線龍岡城駅で、徒歩15分の距離にあります。
龍岡城の星形に囲まれたエリアを内郭とし、外側に矢来柵土手で囲まれた外郭が置かれていました。駅から向かう途中、龍岡城から北西に300mほどのところ、石碑や龍岡城解説版、新海三社神社鳥居が立つ場所が龍岡城の西の入口となる鈎の手状の桝形虎口が残っています。
「五稜郭であいの館」がある北東側が正面になり、案内板がある出入口が表門(大手門)跡となります。
西側に黒門、東側に東通用門、南側に穴門がありました。写真は東通用門で奥に移築された台所が見えます。
写真は内堀と隅部で水堀の幅は大手橋夫君が最も広く9.1mありm他はやや狭くなって平均7.3mとなっています。石垣の高さは、堀底から3.64m、布積の石垣の上部はわずかに刎ね出し石垣となっています。石垣上の土塁はその幅が7.2m、高さは2.27mあり、頂上の武者走りは2.26m幅で、土手はしっかりとした芝土手です。
星形の内部に入ると、旧田口小学校の校舎が建っています。龍岡城は竣工からわずか4年後の明治4年(1871)に廃城となり、内部にあった「大広間」「書院」「台所」などの建物は民間に払い下げられましたが、このうち大きくて売れ残った台所が明治8年(1875)に尚友学校の校舎として改築して使用されたのです。こうして校地を囲む星形の土塁や石垣も破壊されずに残されました。
台所は横10間、縦7間半の大きさがあり、小学校敷地内の西側に昭和4年(1929)再移築されています。
龍岡城は函館五稜郭と同じ星形をしていますが、規模は比べるとかなり小さい。龍岡城の一辺の長さは145m~150mで函館五稜郭の一辺の長さは297mなので星形の部分の面積は1/4ほどしかありません。星形の稜堡は土塁、石垣、堀で囲んでいますが、幕末の逼迫した財政事情から西側から南側にかけては未完成で、この面には堀がないためすぐ近くで石垣が鑑賞できます。大きな特徴は石垣で、石材が成形された切込接の石垣が印象的で、箱館五稜郭と同じ天端部分の石が突きだす「刎ね出し石垣」も幕末に積まれた石垣の特徴です。多角形の石材を組み合わせた亀甲積みも見られます。砲台が置かれていたのはここ西側の稜堡のみでした。
龍岡城の石垣は、伊那高遠藩が西洋式築城石垣石工を養成していると聞きつけ、約60名の石工職人を招き3年という時間をかけて積み上げました。石材は、千曲川東岸「お滝の山」などの近隣の山から採れる佐久石や志賀石と呼ばれる柔らかく加工しやすい溶結凝灰岩を使用しています。自然石を積んだ野面積みや目地を揃えて切石を積んだ布積み、上記のような五角形、六角形の石を積む亀甲積みなどが見られます。
龍岡城から新海三社神社方向に50m歩くと標高差160mの五稜郭展望台への登り口があります。北側の標高881mの山上にある田口城は、室町時代末期に地元の土豪田口氏が築いたとされる城で、尾根上に1km以上の広範囲を城郭とし、本丸の北西側にはいくつもの曲輪があり、堀切や土塁、石積みなども残っています。案内標識に従って登っていきます。登り30分、下り20分の行程です。
五稜郭展望台からは内郭に旧小学校の校舎が建つ龍岡五稜郭を望むことができ、遠くに八ヶ岳の姿も望めます。稜堡式は小銃ではなく大砲戦を意識した城で、突端部に砲台を設けることで十字砲火を可能にする構造となっています。内郭には天守や櫓のような標的となる高い建物をなくし、また万一大砲が当たっても衝撃を吸収できるよう、石垣の中や上に厚みのある土の層を設けています。
五稜郭展望台からさらに登ると田口城跡です。戦国時代の16世紀半ばに武田氏の佐久侵攻を受けて落城、天文17年(1548)田口氏は滅亡し武田領となります。武田氏滅亡後、その旧領を北条氏直方と徳川家康が奪い合った天正壬午の乱では、北条方の阿江木能登守と徳川方の依田信蕃に支配されるも戦国時代の終焉とともに廃城となりました。
下山は南麓の大梁山蕃松院へ。武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田右衛門佐信蕃の菩提寺として天正13年(1585)に長男の依田康国が居館の跡地に堂宇を再建し、父の戒名である「蕃松院殿節叟良筠大居士」、祖父備前守の戒名「大梁院殿森補良源大居」より寺号を大梁山に蕃松院としました。江戸時代には田野口藩の庇護を受け、天明6年(1786)からは歴代田野口藩主の位牌所となっています。参道入口の御殿松は、明治維新後の藩主上京の際、龍岡城の御殿の赤松を移植したものです。
境内には高い石垣と塀を巡らし、現本堂は文政5年(1822)の再建ですが、間口13間、奥行9間の入母屋造りで、特にその規模は県内屈指です。
寺の裏山には信蕃公兄弟の墓と伝えられる五輪塔があり、近年その礎石下から愛用されたと思われる刀が発見されました。依田信蕃・源八郎信幸兄弟は、天正壬午の乱後の天正11年(1583)佐久地方の重要な戦略拠点である岩尾城に籠る北条方の大井行吉を攻撃の際、戦死しました。信蕃の子竹福丸(14歳)は、父信蕃の戦功により家康から「松平」の称号と「康」に字を与えられ、松平康国と名乗り、信蕃の跡目を継ぎ、信州小諸城主6万石の大名となります。
