決戦前夜の西軍本陣!西美濃の要衝・大垣城と水の都の城下町

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伊吹山を仰ぐ岐阜県西部の町・大垣は、またの名を“水の都”と呼ぶ。その所以は地下水が豊富であることで、近くに木曽三川と呼ばれる揖斐川・長良川・木曽川の大河川が流れ、その伏流水をため込む独特の地質の上に町が開かれているので、あちらこちらから水が湧き出しています。寛永12年(1635)から明治維新まで戸田氏が治めた大垣藩は、土木技術に優れた初代戸田氏鉄が、治山治水に力を尽くしました。大垣城下を貫流する水門川は城の外堀であるとともに、揖斐川を経て伊勢湾に臨む桑名へ続く水運の動脈であり、また美濃路の宿場でもありました。つまり水陸の交通の拠点でもあり、濃尾平野と近江・京とをつなぐ要衝の地に築かれたのが大垣城です。おいしい水を気軽に飲めるだけでなく、水を使った名物も多彩。市街地の中心を流れる水門川沿の散策路を歩いて、水の都と呼ばれる所以を探ってみます。

大垣城の築城時期は、天文4年(1535)土岐氏一族の宮川安定説や明応9年(1500)土岐氏家臣の竹腰彦五郎尚綱説など諸説ありますが、牛屋村と呼ばれる場所に築かれた水門川(牛屋川)の流れを利用した水城で、規模の小さな城(牛屋城)でした。城の周囲に大きな冊をめぐらせていたことから「大垣」と名付けられたと伝わっています。その後氏家卜全が城主の頃に城の土塁を高くするとともに堀を深くし、慶長元年(1596)には羽柴秀勝のあとに入った伊藤祐盛によって天守が造営されました。最終的には連郭式の本丸・二の丸を中心として、4重の堀が囲む総郭の城となりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、直前まで石田三成ら西軍の本拠地となり、徳川家康率いる東軍の西進を防ぐため、城を出て関ヶ原に転進した西軍は敗れると、取り残された大垣城は落城の憂き目にあいました。その後、城主は石川氏、岡部氏、松平氏と入れ替わり、元和6年(1620)松平忠良によって改築が行われ、天守は4階4層、石垣には市内赤坂町・金生山産の石灰岩が多く使われ、隙間の多い「笑い積み」の石垣は全国的にも珍しい。

摂津国尼崎の領主であった戸田氏鉄は、尼崎における治水事業の手腕が認められ、寛永12年(1635)美濃国大垣藩の藩主となり、明治に至るまで11代に渡り、約230年の間大垣を治め、戸田氏の城下町の中心として大垣城はそびえました。大垣戸田家は、三河以来の徳川氏の家臣で、藩祖戸田一西は、慶長6年(1601)近江膳所に築城を命じられ、3万石の大名となる戸田家の礎を築きました。その子氏鉄は慶長元年(1600)家康の姪にあたる諷姫を妻とし、同7年膳所の領地を継ぎ、元和2年(1616)2万石の加増を受け摂津国尼崎5万石に移封、さらに5万石の加増を受け大垣10万石の藩主となりました。

昭和20年(1945)7月の空襲によりそれまで「国宝」として残存していた天守や艮隅櫓などが焼失してしまいましたが、昭和34年(1959)には国宝指定時の写真や実測図を基に外観復元され、平成23年(2011)にはさらに元の姿に近づけるべく改修工事が完了し今に至ります。

大垣城の構造は、内堀に囲まれた本丸と二の丸が直線状に並んで配置され、本丸へは唯一黒鉄門からの廊下橋だけでつながっていました。この本丸と二の丸の南方に三の丸、西側に竹の丸、東側に天神丸がありました。堀は本丸西が三重で東は4重になっていて、内堀の幅はおよそ24~36m、深さは2.7~4.5mありました。これらは明治時代以降に徐々に埋め立てられ、現在では外堀が水門川や牛犀川として残っているのみです。

大垣城は大垣市の中心部にあり、明治13年(1880)には本丸を中心とした約0.57haを公園として開設。幾度かの改修を経て、現在は約3.1haの都市公園として市民に親しまれています。。大垣公園の園内には200本の桜が植樹され、3~4月には開花を楽しむことができます。JR大垣駅南口から駅前商店街をまっすぐ南下していき途中、大垣城跡の標柱を右に曲がれば大垣公園です。ちょうど商店街の真裏にあります。

戸田氏鉄公騎馬像の立つ城西広場で最初に目に飛び込んでくるのが乾隅櫓です。

北西の角のある乾隅櫓の北側に水之手門跡があります。石段を上った先にある一本の直立した松が「おあむの松」です。

関ヶ原の戦い後に起こった「大垣城の戦い」で石田三成の家臣・山田去暦の娘・おあむ(御庵)が城から脱出する際に天守の西側にあったこの松にかけた縄を伝って内堀に降り、堀に浮かべた「たらい」に乗って城から脱出しました。山田去暦はかつて家康の手習いの師匠であったため、「今なら無事に抜け出せるよう手配してあるので逃げよ」との申し出でした。この逸話は後に「おあむ物語」として語り継がれ、この松は「おあむの松」と呼ばれるようになりました。現在の松は2代目とのこと。

 

城西公園から天守へは、西門をくぐります。

元和6年(1620)天守は三階建てkら全国的にも珍しい4層4階建てに改築されました。1、2階の床面積は等しく、上層にいくに従って面積が減少する層塔型天守となり、建物の高さは約18m、石垣は約6.4mで東附多門、西附多門が付設され、本丸を囲む曲輪の要所には二重、三重の隅櫓が並んでいました。いずれも総塗りごめ様式で、天守閣の優美さを表現し別名「巨鹿城」または「麋城」とも呼ばれています。内部には関ヶ原の戦いの資料や戸田氏の甲冑が展示されています。

天守から西側を見た大垣公園(城西広場)。埋め立てられた内堀と竹の丸の跡で、戸田氏鉄公騎馬像の先にある木々のあるあたりは竹の丸の土塁跡です。残雪が残っているのが伊吹山、写真左のこんもりとした山が南宮山、そして正面、山と山の間に凹んでいるように思えるのが関ヶ原です。右端のマンションの左手あたりが東軍が陣をおいた岡山(お勝山)があります。

東門には、天守復元の際に総郭の七口之門のひとつ・戸田家の別邸として使用されていた柳口門が移築されました。堂々とした立派な櫓門で、櫓部分の下部が下見板張り、上部が白漆喰の組み合わせが特徴です。本来ここに門はありませんでした。

本丸の北東側に復元された艮隅櫓

 

 

 

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