世界遺産・姫路城で時間旅行!随所に技巧の美が光る白亜の名城

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世界中の人々の琴線に触れる、究極の造形美。これぞ、日本人の美意識と知恵が詰まった結晶、それが昭和58年(1993)、日本初のユネスコ世界文化遺産に登録された白鷺城こと「姫路城」です。姫路城が世界遺産たる理由のひとつは、8棟の国宝のほか、74棟の重要文化財があることですが、それらで構成される天守群はどの角度から見ても美しく、好みのアングルを探すだけで時間が過ぎてしまいます。姫路城は、池田輝政によって、関ヶ原合戦の翌年に築城開始された大阪の豊臣秀頼との決戦に備えた城のひとつ。美貌と実用を兼ね備えた絢爛豪華かつ実践的な城であり、壮麗な外観とは裏腹に、天守内部にはゾクゾクするほどの戦闘機能が潜む。迷路のような通路にも、敵を翻弄する工夫や仕掛けが残り、ひとたび足を踏み入れれば戦乱の世にタイムスリップできる城なのです。想像の羽根を思いっきり広げて、いざ、敵の目線で城内へ。

JR姫路駅からまっすぐに延びる大手前通りの先、標高45m余りの小高い姫山に白鷺が羽ばたくように白く輝く城が聳えます。いまや世界遺産、そして国宝、日本の誇る姫路城です。大手前通りを歩くと、だんだん城の姿が大きくなってきます。姫路城は姫山に築かれた城を中心に、内堀、中堀、外堀の3重の水堀を螺旋状に巡らし、内堀~中堀の間の中曲輪に武士、中堀~外堀の間の外曲輪に町人らが暮らしました。現在の姫路駅は外堀跡の少し外側に位置し、駅前から城まではすっぽりと昔の城内に含まれる。中堀は埋め立てで国道に姿を変えたが、堀の一部や当時の町割り、町名が残っている。

まずは朝一番モーニングコーヒーと姫路名物のアーモンドトーストをはまもとコーヒーでいただきます。姫路駅から徒歩8分、城へまっすぐ延びる大手前通り、その一本東のアーケード街のみゆき通りにそのお店はあります。

姫路の喫茶店の中では古く、当地で八百屋を営んでいた昭和55年(1975)、スーパーが進出して来るのを機に業態を変え、それから半世紀こだわりのコーヒーを提供してきました。朝の7時から営業している店内はほぼ満席です。

大理石のL字のカウンター内で、機敏な動作で店員がサイフォンを扱い、コーヒーを入れています。壁の世界地図やブラジルの農園を描いた銅版画などに、昭和の懐かしい雰囲気を感じます。コーヒーはブレンド500円の他、季節のブレンド550円など各種あり、朝は飲み物にパンとゆで卵がつくモーニングを提供。

コーヒーには姫路グルメのアーモンドトーストが合います。一説には30年以上前、地元のコーヒー豆販売店の成田珈琲が洋菓子店からレシピを聞いて得意先に広めたといいます。アーモンドパウダー・ダイス(粒)を塗って焼き上げたトーストは、ナッツの香ばしさと甘さが朝の気怠い体に染みいるようです。

AM10:00に予約しておいた和船乗車の前に姫路城を借景にした日本庭園、姫路城西御屋敷跡庭園好古園へ。本多忠政時代の姫路城西御屋敷跡などに平成4年(1992)に造られた池泉回遊式日本庭園です。西御屋敷跡・武家屋敷跡・通路跡などの地割りを生かした九つの趣の異なった庭園群で構成され、その面積は約10000坪(3.5ha)あります。好古園の愛称は江戸時代の最後の姫路藩主酒井家によって、この庭園の入り口付近に移設され、文武両道の振興を図った藩校「好古堂」に因んでいます。入場口を入り、少し真っ直ぐ歩くと「御屋敷の庭」前に門があります。

本多忠政時代、元和4年(1618)に造営され、榊原政岺が新吉原から高尾太夫を落籍し、住まわせたといわれる西御屋敷跡に造られた写真「御屋敷の庭」は、姫路藩主の下屋敷があった庭で、姫山樹林を借景とした池泉回遊式庭園で、本園最大の庭。南側の大滝は深山幽谷の趣にあふれ、瀬戸内海をイメージした大池には錦鯉が彩を添えています。

本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある「茶の庭」、姫路城の眺めを取り入れた「流れの平庭」・「夏木の庭」・「築山池泉の庭」などの庭園群と江戸時代を偲ばせる築地塀や屋敷門・長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎の佇まいが歴史的景観を創り出しています。写真の渡り廊下は「唐傘割工法」による中央の曲線は庭園のシンボルです。

姫路城の内堀をめぐる和船の乗船体験ができます。城主が舟遊びをした優雅ね雰囲気を思い起こしながら、船上からの眺めは独特の趣があります。和船は木造で、船の種類は西播磨地区の高瀬舟といい、歴史を持って継承された和船は姫路城の内堀で使用されるために建造されました。シートベルトと和が感じられる笠を被って出発です。

総計24mの内堀を往復30分かけての和船めぐり体験は船頭が船を漕ぎ、舳先に着座した案内人が丁寧にガイドしていただきます。

いよいよ大天守の「絶景ポイント」。ここから折り返して乗船場に戻ります。

姫路城を今の形にしたのは徳川家康の次女督姫の婿・池田輝政です。築城が始まったのは、関ヶ原合戦の翌年慶長6年(1601)。残存する豊臣方の西国諸大名に睨みを利かせるとともに、大阪城の豊臣秀頼をけん制する役目の城でした。秀吉時代の縄張りも生かしつつ、足かけ9年がかりで築城された城はとにかく守りが堅く、どこから攻められても死角ができないように造られています。城の中心部は複雑に重なり合う渡櫓で連結されて天守へ連なっています。ひときわ高くそびえる5重6層・地下1階の大天守は、石垣を合わせて高さ46mに達し、屋根の装飾は千鳥破風や唐破風・入母屋破風など美術品のように華麗な層をなす。その周囲に準天守の乾小天守や東・西小天守を配し、4棟の渡櫓(イ・ロ・ハ・二の渡櫓)で結ぶ連立式天守が大きな特徴です。また他では江戸城でしか見られない螺旋式の縄張りを特徴とし、総延長11.5㎞の内堀・中堀・外堀の3重の堀が反時計回りにめぐらされていました。現在内堀に囲まれた内曲輪をとどめるのみとはいえ、城内に残された数々の門や櫓が、複雑巧妙な要塞だった往時を偲ばせます。写真はテレビドラマ『大奥』などで江戸城の設定で使われ、左から乾小天守、西小天守、大天守が聳えます。

姫路城の構内に入る際に最初に通る門が桜門橋を渡ってすぐにある大手門です。姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も拡張高く厳重な門でした。現在大手門と呼んでいる大型の高麗門は昭和13年(1938)に完成したもので位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。また大手門前の内堀に桜門橋という木造の橋が架けられていましたが、復元した桜門橋は、遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19年(2007)に築いたものです。

大手門を入り、三の丸広場に出て見上げると、うっとりするほどの美しさにため息がでます。木造建築なのにいっさい木材が見えないのは『総漆喰総塗籠』という漆喰を薄く何度も塗りこんで、3cmの厚さに覆っているため。そうすることで、火をつけた矢で攻められても刺さらないし、火縄銃の攻撃で延焼するのを防ぐ構造になっています。屋根瓦も水がしみこんだり瓦がずれたりしないように、目地漆喰で固定されています。2015年に終了した平成の修理では、大天守の漆喰壁の塗り替えや屋根瓦の吹き替えを中心に行われ、真新しい漆喰の壁と瓦の継ぎ目に盛られた漆喰の白が、ひときわ城を輝かせています。城は城主の権威を示すものなので、大きくてきれいなものを造ろうとするのは理解できますが、この美しさは、徹底的に城という機能性を追求した機能美です。総漆喰総塗籠の外観がまばゆい華麗な連立式天守。内堀の中、内曲輪の面積は23haと甲子園球場グランドの約16倍、姫山に約15mの石垣と31.5mの大天守が立ち姫山を含めた高さは海抜約92mに及び壮観です。

入場口を入り坂を上がると、城内で最も大きい「菱の門」に出迎えられます。正面奥に「いの門」を見通すが、これは天守への遠回りルートに誘うワナ。そこから先はまるで迷路のような造りになっていて、門の一つ一つに敵を欺く仕掛けがある。二の丸の玄関口である「菱の門」は、姫路城に現存する21門のなかでも最大規模を誇る二の丸の表門。片側だけが石垣に乗る珍しい安土桃山様式の城門で、正面の冠木に名前の由来となっている木製の「花菱」が飾られています。武者窓や石落としはもちろん、白漆喰庇付き出格子窓や鎌倉時代に中国から伝えられた禅宗様式の釣鐘型の華頭窓があしらわれているのが特徴で、守りの堅さと表門にふさわしい格調を高さを兼ね備えています。城内で華頭窓が見られるのは乾・西小天守と菱の門だけです。姫路城には、菱の門以外に「いろは・・・る」の門、「水の一・・・六」の門、備前門の21門が残っています。

門をくぐると三方に道が分かれ、左は天守と逆方向の西の丸への上り坂、右が行き止まりのよう。天守への近道に見える正面の「いの門」は、実は遠回りで、待ち構える城兵が迎え撃つほか、左手の西の丸の狭間から銃や矢で攻撃し、右手の石垣に隠された「るの門」から飛び出す城兵で挟み撃ちにされる誘いの門。行き場を失った敵を三国堀に追い落とす算段です。実際は「るの門」から東へ回るルートが近道ですが、存在に気付かないように隠された穴門で、たとえ攻め進んでも全面鉄板板張りの二重櫓門「ぬの門」などの難所が待ち窯えています。※このコースは大天守からの帰路通ることに。

江戸時代、菱の門から内側を城山といい、城山には鷺山と姫山の2つの峰がありました。姫山にはその地形を生かして上山里曲輪や備前丸を設け、頂部には大天守が築かれました。一方鷺山には、峰の頂部を大きく削って西の丸が造成されました。姫山と鷺山の間、城山の中央に設けられたほぼ正方形の堀が「三国堀」で、二の丸につながる本道への「いの門」と間道の「るの門」の要所をおさえる重要な位置にあります。この堀は用水池で、2つの峰の間の谷を堰き止めて築かれたダムのような構造で、三国堀北側石垣には、谷筋にあった堀の痕跡をみることができます。写真左手石垣中央にVの字の痕跡

「いの門」から直進ルートで導かれるまま「ろの門」へ。いの門と同じく古い様式の脇戸付き高麗門で、切妻造り、本瓦葺きの屋根。秀吉時代に大陸から伝来したという滴水瓦も。

ろの門を抜ければ、右手に現れるのが通称「将軍坂」。石段の上に構えられた「はの門」のすぐ向こうに天守群を望むロケーションが、ドラマ『暴れん坊将軍』で松平 健さんが馬で駆け上がる象徴的なシーンとして登場したことに因みます。姫路城の石段は段差にバラつきをつけて足元を不安定にしたり、角を丸くして滑りやすくしたりなど、敵が侵入しにくくする工夫がなされています。

さらに「はの門」の先に現れる「にの門櫓」の西面の唐破風屋根に載っいる鬼瓦に刻まれた十字紋が目をひく。周囲に秀吉時代の石垣が見られることから、キリシタンだった黒田官兵衛によるものという説もあるが、官兵衛が洗礼を受けた時期と築城時期が合わないので矛盾するので姫路城の七不思議のひとつとのこと。

ここからはおそらく姫路城最大の難所、「にの門」へ高い石垣に沿った正面の道は行き止まりに見え、広場のように開けた右へ出ると袋小路に追い込まれてしまいます。一方、まっすぐ進むと、奥の突き当りで天守群に背を向ける形で逆向きにターンして折り返します。ヘアピンカーブで見通しがきかず、天守群はすぐそこに見えるがまだまだたどり着けない。敵を欺く工夫です。

さらにその先は、土塀と石垣にはさまれた狭い上り坂を通らなければ次の門へたどりつけない。そして立ちふさがる「にの門」は、鉄板張りの扉を備えた堅牢な櫓門。

圧迫感のある狭く薄暗いトンネルのような通路は天井が低く、途中で直角に曲がるL字型構造。鎧兜や槍を身に着けていると思うように動けず、もたついていると門を閉ざされ、天井の板をはずして頭上から槍などで突いたり、石を落として攻撃するという仕掛けになっている。いざとなれば要の石を抜いて埋めてしまう埋めの門とも呼ばれます。天守や櫓には、石垣を登って来る敵に石を落としたり鉄砲を打ったりする石落としもある。

続く難関「ほの門」も、本丸へ容易に侵入させないように一人ずつしか通れないほど間口はかなり小さい。天守へと近づくと門扉に鉄板が施され、門自体も狭く低くなっていく。入るとすぐ上りの階段がある。

ほの門から上がるといよいよ本丸で視界が開けるが、天守へ続く「水の一門」は油壁の裏に隠れています。勢いにまかせて直進すれば、天守の裏側から城外方向へと誘導されてしまいます。本当のルートは背後にあり、「水」の名がつく6つの門が短い間隔で配置されています。この油壁は秀吉築城時の名残ともされる城内で1カ所だけ残る築地塀です。コンクリート並みの強度で、鉄砲の弾も弾き返すといわれます。また天守群の石垣の中に金網で覆われた小さな白い石があります。これは秀吉が城を改修した際に、石不足で困っていると聞きつけた付近に住む餅屋の老婆が普請に使ってほしいと差し出した石臼で「姥ヶ石」と呼ばれています。

「水の一門」から天守群の西側に配された「水の二門

そして「水の三門」まで緩やかな下り坂になっていますが、天守から離れて城外へ出てしまうと錯覚させる意図がある。

大天守と西小天守をつなぐ二の渡櫓下に付属し、天守群を守る要所が「水の五門

乾・西小天守の脇を回り込み、奥にある「水の六門」をくぐって中庭へ抜けると、ようやく大天守の入り口が現れます。

3つの小天守と渡櫓で結ばれた大天守は、外からだと5重のように見えるものの、内部は地上6階建てで、中庭を経て地階で外部と接続。籠城戦を想定して台所や厠なども設けていた地階で、まず目に飛び込んでくるのが、大天守を支える東西2本の重厚な心柱です。地階から6階の床下まで貫き、東の心柱は江戸時代に建築されたままのモミの木の一本材が使われ、見上げながら、そのすごさを実感します。昭和の大修理で交換された西の心柱は、上下2本の檜材を3階の床上部分で複雑にかみ合わせているます。どちらも根本の地階部分で太さ95cmあり、末口の42cmまで上層部へ行くにつれて徐々に細くなっていく。

釘の頭部を隠すための装飾「六葉釘隠し」は6枚の葉をデザインしていて、葉と葉の間に猪目と呼ばれるハート型の隙間ができます。

1階の大広間は伝統的な城郭の構造をそのままみられるようになっています。屋根を支えるために肘木が添えられた梁が並ぶ高い天井は圧巻です。柱を造った職人がどこに使うかを刻んだ「刻み番付」も見られます。

天守への出入口は4ヵ所で、そのうち2ヶ所が1階にあります。どの出入口も外側と内側の扉により二重の防御が施されています。扉は閂で戸締りするので、すべてに閂をかけると天守へ入ることができません。

1階から2階は、石落としや銃眼、武具掛けなど、実践に備えた城の基本構造がいろいろ。武具掛けは戦闘時にすぐ使えるよう、鉄砲や槍を手に取りやすく壁にストックしていました。

3階の南北・4階の四方には、石打ち棚と呼ばれる棚状のスペースの武者台が窓辺に設置されています。3階は南に唐破風が付き、4階は東西に大千鳥破風があり、高い位置に設けられた窓から攻撃するために設けられています。奥に石打ち棚に上がるための階段が設えてある。

また屋根裏などを利用して内部に潜んで外の敵を攻撃する武者隠しとして設けられた内室も。3階にあるものは上下に入口があり、一方は室内側に銃眼を設けています。

このほか3階部分で東西の心柱を見ることができ、西の心柱は3階部分で2本の材をつなぎ合わせているのが見れます。

東の心柱は補修して建築時から引き継いでいます。

2本の心柱が建てられているのは5階までで、天守最上階の6階へ至ると、細い柱に囲まれた広間は、書院風の意匠を取り入れた総檜造りの大空間です。中心にある小さな刑部(長壁)神社は、江戸時代の初期、大改修を完了したばかりの姫路城で様々な奇怪なことがおこることから人々はこれを羽柴秀吉時代に姫山から移された刑部大神の祟りだと噂します。それを効いた城主・池田輝政は城内の鬼門にあたる「との門」に神社と八角堂を建てて刑部大神を祀り、祟りを鎮めたといいます。その後代々城主の守り神であった刑部神社を明治になって移したものです。刑部大神は長壁姫という狐の妖怪とされることもあり、かの有名な剣豪・宮本武蔵に退治されたという伝説もある。

6階大天守にあがれば瓦の固定と装飾のために吹き替えられた見事な目地漆喰を施した屋根の様子がよくわかり、瓦の向こうに城下の町が広がり、南側正面の大手前通りの先に姫路駅が見えます。播磨のこの地は、東西を結ぶ山陽道と、北の但馬へ向かう但馬街道が交わる交通の要衝でもありました。

大天守から西側の城下を一望すると、奥に鷺山に築かれた西の丸の百閒廊下や化粧櫓、千姫が毎日朝晩に祈りを捧げた男山千姫天満宮などを一望。複雑にめぐらされた縄張りを俯瞰しながら、しばし歴代城主の気分にひたってみます。

乾の小天守と東小天守間のロの渡櫓を通って天守群外へ。渡り廊下にはヤリガンナで削った築城期の床が残る。

天守外に出て池田輝政が自身の居館をおいた備前丸(本丸)へ。写真は備前丸から眺めた天守群で大天守と小天守が連なる連立式天守であることがよくわかる。

姫路城を正面にして右手が備前曲輪への主要な出入口となる城門「備前門」で折廻り櫓に続く切妻の櫓門です。門のすぐ脇にきれいに加工された直方体の石が縦に積まれていますが、これは築城の際、石不足であったため、古墳に埋葬されていた石棺が転用されたものです。

との門」「りの門」とくぐって下ると、中央に「お菊井戸」のある二の丸(上山里曲輪)にでます。この井戸は永正年間(1500年頃)姫路城主小寺則職の家老青山鉄山が主家乗っ取りを企み、これに対し、同じ家老の花房常秀はお菊を鉄山の屋敷に住み込ませ、情報を収集させました。そして鉄山の家宝の10枚揃いのの一枚を皿を割ったという濡れ衣を着せられて殺され、井戸に投げ込まれたお菊が夜な夜な皿を数えるシーンが有名な怪談「播州皿屋敷」のモデルとなった曰くつきの場所です。

二の丸からいの門方面につなぐ「ぬの門」は豪華に装飾された上部が二層になった渡櫓で、全国で現存するのは姫路城だけという。規模は菱の門に次ぐ。入口手前の石垣は人面の模した“笑い積み”が施されている別名「人面石」ともいわれ、呪術的な意味で積まれたとも。

ぬの門と三国堀を近道で結ぶ門が「るの門」でぬの門を出て左手にある急な石段を下りていく。メインの見学ルートからは外れていますが、石垣を切り開いて造られたような狭く珍しい門です。

別名「穴門」ともいわれ、三国堀の奥に隠れ、菱の門からは存在に気付かない。るの門を出てすぐ左手にある石垣で、まっすぐにカットしたような稜線の風景がみられます。右が秀吉時代、左が池田時代に積まれたものです。

菱の門まで戻ってきたので次に西の丸に向かいます。写真は西の丸から見た天守群。

池田氏の鳥取転封に伴って入城した本多忠政は、地形的に唯一の弱点とされる西側の防御を固めるべく、天守群がある姫山と隣り合う鷺山で西の丸の造営に着手します。豊臣秀頼と政略結婚させられた家康の孫娘、将軍徳川秀忠の長女千姫は、大阪夏の陣で落城寸前に救われ、元和2年(1616)姫路城主本多忠政の嫡男忠刻の正室に迎えられ、10万石といわれる化粧料をともなって姫路城に再嫁しました。その10万石で元和4年(1618)に武蔵野御殿と呼ばれる千姫夫妻の屋敷を建てたところが西の丸で「中書丸」ともいわれていました。中書とは忠刻の官職、中務大輔の唐名です。西の丸を整備し、西側にめぐらせた石垣の上に、百閒廊下と呼ばれる同大な渡櫓を築きあげました。また軍事施設の城にしては異色なのが千姫の休憩所、化粧櫓です。「ワの櫓」前にある入場口から入り「レの渡櫓」→「タの渡櫓」→「ヨの渡櫓」→「カの渡櫓」→「化粧櫓」の順で回ります。

鷺山に建てられた御殿を囲むように西の丸の外周に築かれた長屋は通称「百閒廊下」といい、ワの櫓から化粧櫓まで約240m。姫山樹林を活かし、自然の地形に合わせて延々と続くとても長い廊下が続いています。2階建ての櫓と櫓の間は渡櫓と呼ばれる長屋で結ばれていて、別名多聞櫓とも呼ばれます。建物内は城外側が廊下、城内側が部屋になっています。そのうちヨの渡櫓から北の部分が長局で、小さな部屋が廊下に面して並び、西の丸の御殿で働く40人のお付きの女中が住んでいたとみられます。この建物には城外からの攻撃に対する防御機能もありました。外壁は分厚い漆喰塗りで、城外(西)に向けて格子窓や狭間、石落としがいくつも備えられています。格子窓には鉄板が張られその上から漆喰を塗り込み、頑丈な造りになっていました。

百閒廊下の格子窓からは千姫が本多家の繁栄を願って建立し、朝夕、長局から眺めて手を合わせたという男山中腹の男山千姫天満宮が眺められます。これは、忠刻との子が夭折してしまうことから豊臣秀頼の祟りとの噂が立ち、元和9年に伊勢慶光院の周清上人に秀頼の供養を依頼。秀頼直筆(南無阿弥陀仏の名号)を観音像の胎内に納め、男山山麓の祠に安置しました。千姫天満宮は城内から遥拝できるように東向きに造られています。

女性たちが暮らす場というイメージとはかけ離れた武骨な造りですが、長局の北端に設けられた千姫の化粧櫓はひときわ優雅な趣があります。杉柾張りの天井に和紙で仕上げた壁、大きく開放された窓や床の間、畳敷きなど、ほかの武骨な櫓に比べると、細やかな技巧が凝らされています。千姫は姫路城で10年過ごしましたが、千姫が男山にある神社を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいしたり、休憩をした場所といわれています。この日は千姫復元着物展示が行われいました。

姫路城の南東にある「城見台公園」には原寸大のシャチホコが復元されたものが展示してあり、一対の間にちょうど姫路城がおさまるように配置されている人気のフォトスポットです。

最後に姫路の名物グルメを食べて帰ります。ルーツは昭和初期とも言われるおでんをしょうが醤油をつけて食べる“姫路おでん”、は専門店だけでなく、居酒屋などでも人気のメニュー。卵を産まなくなった雌の鶏のことをヒネ鳥と呼び、このヒネ鳥を火で炙りポン酢でいただくコリコリとした歯ごたえがクセになる“ひねポン”、太さとコシの異なるうどんと中華麺の二種の麺に甘辛ソースで炒め、具材はキャベツやモヤシなどの野菜に豚肉やすじ肉などを鉄板で混ぜ合わせた焼きそばと焼きうどんの“ちゃんぽん焼き”と個性豊かな姫路グルメです。

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