埼玉はじまりの地・行田に「のぼうの城」忍城と古墳を訪ねる

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北は利根川、南は荒川の支流によって作られた自然堤防やその南西部の湿地帯に残る高地を利用して室町時代に築かれ、関東七名城の一つに数えられた、埼玉県行田市にある浮き城「忍城」。戦国時代、上杉謙信の軍勢を退け、石田三成を大将とする豊臣軍の水攻めに耐えた、要害堅固な城として知られます。続日本100名城に選出された忍城には天守はありませんが、その役割を果たした御三階櫓を昭和63年(1988)に再建、内部は博物館となっていて、最上階からは行田市街が一望できます。小説・映画『のぼうの城』の舞台であり、埼玉はじまりの地行田を歩いてみます。

武蔵・忍城はもともと扇谷上杉家に属する「忍氏」の居城でしたが、地元の豪族であった成田氏が滅ぼし、文明11年(1479)頃、成田顕泰が築城。北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する忍川の流れ込む広大な沼地と自然堤防を巧みに利用し、沼を埋めず島に橋を渡す形で築城したため、攻めにくい構造になっていました。永正6年(1509)に忍城を訪ねた連歌師・宗長の日記によると「四方沼水で、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水鳥が多く見られた」とあります。

天正18年(1590)3月総勢24万の大軍をもって小田原城と北条氏に従う忍城に攻めかかりました。天正18年(1590)6月、石田三成に佐竹義宣、宇都宮国綱、多賀谷重経、水谷勝俊、結城晴朝以下2万の軍勢を率いて忍城を攻めるよう命じました。小説『のぼうの城』で「天下人の戦をしよう」と言い放った石田三成が利根川/荒川ふたつの大河を使い、総延長28kmともいわれる堤で城を囲み水没させようとしたこの水攻めに耐え、明治維新で取り壊されるまで歴史が続いた堅城です。現在御三階櫓や本丸跡に建つ行田市郷土博物館などで、当時の雰囲気や水攻めの概要に触れることができます。御三階櫓は元禄15年(1702)年5代将軍綱吉の老中・阿部正武(藩祖阿部正秋の孫)の代に層塔型3重3階で建造されたもので、昭和63年(1988)に模擬・復興再建されたものです。

城内にある鐘楼と時の鐘は元は享保2年(1717)伊勢国桑名で鋳造され桑名城の鐘として使用されていましたが、宝暦5年の桑名大火で破損し同14年(1764)に改鋳されました。文政6年(1823)に奥平松平忠尭氏忍へ移封されるときに忍城に運ばれ二の丸にあった鐘楼に架けられました。現在鐘楼は諏訪曲輪の土塁上に移築され、鐘は取り外されて博物館で展示されています。

忍城址から歩いてすぐのところに「水城公園」があります。忍城が取り壊されたあと外堀は忍沼と呼ばれるほど大きな沼になったほどですが、その沼が埋め立てられ現在の市役所や市立体育館が作られました。その末端部分、広さ約10.3haが「しのぶ池」として水城公園となり開園しました。この公園から御三階櫓が見えればもっと築城時の雰囲気が味わえたかもと残念に思えます。2017年TBSドラマ「陸王」でこはぜ屋社長宮沢(役所広司)が行田市民駅伝に向けた練習をした公園です。

忍城攻めの際、忍城主成田氏長は北条氏の家臣として小田原城に籠城しており、留守を任された城代成田長親は残った兵3千人と忍城に立て籠もり、徹底抗戦が始まります。忍城主成田氏長の重臣正木丹波守利英が“佐間口”の守りを固め、死闘を繰り広げたと伝わります。水城公園の東端、県道77号行田蓮田線沿いにある佐間天神社付近がその“佐間口”にあたり、正木丹波守利英の屋敷がこの付近にあったとされます。

忍城攻めの際、三成が本陣を築いたのが城から南東へ2.5kmの位置にあるのが、直径105m、高さ18.9mの円墳で、円墳の規模としては日本最大の丸墓山古墳山頂です。快晴時なら山頂から御三階櫓を含む展望を眺めておきたい。忍城から丸墓山古墳までは徒歩30分ほどですが、途中の水城公園で外堀の雰囲気を想像したりするのも楽しみです。

丸墓山古墳からさらに武蔵水路沿いに南に約2.5kmの位置に「石田堤(石田堤歴史の広場)」があります。石田三成が忍城攻めのために築いた堤は、全長28kmに及び、わずか1週間で作り上げたと伝えられていますが、実際には、自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われます。今日では残されている部分はわずかで、現在では石田堤と呼ばれる行田市堤根の旧日光館林道沿いに282m残されているにとどまります。石田堤の碑は、幕末の堤根の名主増田五左衛門が慶応2年(1866)に建立した由緒を記した石碑です。碑文は江戸時代末期の儒学者・寺門静軒。

水攻めが失敗したのは、忍城の地形が周りよりも少し高かったからとも、堤防が決壊したからとも言われています。下流のある土木学会推奨土木遺産「掘切橋」はこの場所で堤が決壊して水攻めが失敗したと伝わっています。

水攻めの後、江戸時代石田堤沿いの館林道も中山道と日光例幣使街道を結ぶ日光脇往還として整備され、堤の上には黒松が植えられ街道沿いに松並木が形成されました。

天正18年(1590)7月、小田原城の降伏後に開城するも、その後譜代や親藩大名が在城し、忍藩10万石として繁栄します。文政6年(1823)には、武蔵国忍藩主阿部正権が白河へ、陸奥国白河藩主(久松)松平越中守定永が桑名へ、伊勢国桑名藩主(奥平)松平下総守忠尭が忍へ国替えとなる「三方領地替」が行われました。一般的に国替えの理由は公にされないため、実施の直接的な要因を特定するのは難しいですが、白河藩主の松平定永が房総半島沿岸警備への負担に耐え切れず転封を願ったとも、忍藩主の阿部正権が、幕府へのお目見えを果たせていなかったことなどが国替えに何らかの影響を及ぼしたのではないかと考えられていますが、白河藩主を隠居していた元老中首座で寛政の改革を主導した松平定信が祖先の旧領であることや港湾財源を持つ桑名への転封を狙って仕掛けたものとされています。

国替え先には、大名と家臣団によってさまざまな異文化がもたらされます。桑名藩から忍藩にやってきた(奥平)松平下総守忠尭は桑名時代に開いた藩校進脩館を忍城下で再興し、その名は現在の県立進修館高校の校名に受け継がれています。また忍東照宮も松平家ゆかりの寺社として国替え後に勧請されました。東照宮は、奥平松平家の祖・松平忠明の母である徳川家康の長女亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝えられ寛永2年(1625)、大和郡山城内に社殿を造営し、肖像を安置したことに始まります。

石田堤からの帰路、埼玉県名発祥の神社「前玉(サキタマ)神社」を訪れます。さきたま古墳群に隣接する神社はの創建は、安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年後半~500年代前半)ではないかと考えられています。その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建立されています。千数百年の歴史を持つ、荘厳で落ち着いた雰囲気の延喜式(927年)に載る古社で、幸魂神社ともいいます。前玉郡は後に埼玉郡へと漢字が変化し、現在の埼玉県につながります。

前玉神社の大鳥居は延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領氏子達によって建立されたものです。明神系の形式で正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代における浅間神社の隆盛を今に伝える貴重な建造物です。

社殿は高さ8.7m周囲92m程の浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられていて、石段を上った先にあります。御祭神は前玉比売命・前玉彦命の二柱で、人の身を守り、幸福をもたらす神様であり、縁結びの神様でもあります。

2020年春から始まった行田花手水week、毎月1日から14日(11月と1月は15日から末日まで※8月は開催なし)が実施され豊かな色彩で見る人の心を癒してくれます。

さきたま古墳公園は埼玉県名発祥の地、行田市大字埼玉にあり、5世紀後半から7世紀はじめころまでにつくられた前方後円墳8基、大型円墳1基で構成される大型古墳が群集している公園です。埼玉古墳群のほぼ中央に位置し、墳丘の全長132.2m埼玉古墳群のなかで、またかつての武蔵国の中で最大の規模を誇る二子山古墳は、名前の通り、側面から見ると二つの山のように見えます。他の前方後円墳と同様、二重の長方形の周堀が周囲をめぐり、墳丘と中堤に造出しを持ちます。

埼玉古墳群で最も古く、最も北に位置する古墳が稲荷山古墳です。墳丘の全長は120mで、二重の長方形の周堀が周囲をめぐります。昭和43年の発掘調査により後円部から2基の埋葬施設が見つかり、そのうち礫槨からは、鏡や武具、馬具とともに、115の文字が刻まれた鉄剣が出土しました。金錯銘鉄剣と呼ばれるこの剣は、古墳時代の刀剣の銘文としては最も長文で、その内容も古代史を研究するうえで重要な情報が含まれています。特に裏面の「杖刀人首」は、王の警備隊の隊長がいたという証拠で、大和朝廷の王様の側近となって活躍した人がこの地にいたことを示し、行田と中央の結びつきを示しています。また表面の「辛亥年」は西暦471年という説が有力です。年代が明記された遺物は、非常に貴重「なものです。

丸墓山古墳は日本最大級の円墳として知られ、埼玉古墳群で最も高い標高18.9mをもちます。忍城の水攻めの際、石田三成がこの古墳の上に陣を張ったという伝承が残されています。

さきたま古墳公園の一角に埼玉県名発祥之碑が建っています。奈良時代の『万葉集』の中に見える「さきたま」の地名は現在の行田市埼玉(さきたま)周辺を指しています。埼玉(さきたま)郡は律令による国郡制度が発足した当初より置かれた郡とみられ、当初は前玉郡という表示も行われ、正倉院文書の神亀3年(726)の山背国の計帳(戸籍)に「武蔵国前出(玉)郡」の表記が見れる。また延喜式神明帳にも埼玉(さきたま)郡の項に「前玉神社二社」とあります。平安時代には「埼玉・左伊太末」の表記が見え、埼玉県の東部地域を「さいたま」郡と呼んでいたことが判っています。その後、長い歴史を経た明治の廃藩置県で明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出されました。これが埼玉県の誕生で、その後幾度かの変遷を経て管区内の最も広い郡名が採用され「埼玉県」が誕生しました。現在の埼玉県域が確定したのは明治9年(1876)8月のことです。

ここ行田市埼玉(さきたま)の地は巨大古墳群の所在地であり、また前玉神社の鎮座する場所でもあります。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とするとあります。

日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」を歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/13138

 

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