豊臣秀次が築いた商いの城下町・近江八幡の情緒と風土を楽しむ

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NIKKEIプラス1「1日で散策満喫 魅力的な城下町(平成31年(2019)2月16日)」で2位の近江商人の町としても知られる近江八幡は、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町。琵琶湖に面して水路を開いて商業都市として発展し、石垣が残る城跡や水運に使われた掘割の八幡堀とともに当時の風情をそのまま残す町。そんな景観に加えて網目のように広がる水路を廻る水郷めぐりも。秀次を偲びながら古い町並みを散策したり屋形船に揺られてみたりとあちこち寄り道してみませんか。また街のあちこちに、建築家ヴォーリスによる洋館が点在しています。町家と洋館、今と昔の間をゆらゆら、舟にのってもゆらゆらと当地ならではの景観を楽しみます。

豊臣秀次は、永禄13年(1568)秀吉の姉、とも(日秀尼公)の子として生まれ、天正13年(1585)に43万石を与えられます。織田信長亡きあとの安土城に代わる近江の拠点として鶴翼山とも呼ばれる標高271.9mの八幡山に城を築き18歳で八幡山城主となります。八幡山城は最頂部に本丸を設け、二の丸、西の丸、北の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測され、2017年4月6日「続日本100名城」に選定されています。築城にあたり豊臣秀吉自ら普請の指揮をとり、居館などは安土城からも多数移築し、城下町も安土城の城下をそっくり移転させ、町民も移住しました。

織田信長に倣って楽市楽座の掟書13か条を出したり、南麓の八幡堀を琵琶湖とつなぎ、湖上を通る商船を立ち寄らせたりするなど城下町の発展に尽力します。その後、秀次は天正18年(1590)に尾張・清洲城100万石として移封になり、代わって京極高次が2万8千石で入城します。秀次はその後関白となるものの、秀吉の実子・秀頼の誕生で秀吉との関係が険悪になり、謀反の疑いをかけられ、文禄4年(1595)切腹しました。28年の生涯でした。京極高次を大津城主6万石で転封させ八幡山城は築城から僅か10年で廃城となりました。

秀次がとった楽市楽座などの政策は、その後の近江商人の原動力となったといわれます。近江商人とは、近江で商いを行う商人ではなく、近江に本宅や本店を置き、天秤棒を担いで全国に行商した商人の総称です。「売り手よし、買い手よし、世間よし」という三方よしの基本理念のもと、自らの利益のみを追求することなく、社会事業にも大きく寄与しました。

JR近江八幡駅北口にある観光案内所で地図をもらい、バスで長命寺行に乗車し小幡町資料館前で下車します。市営小幡観光駐車場から新町通りの角を曲がると、今も秀次が城下町を整備した縦12筋、横4筋の碁盤の目の町並みが残り、八幡山が城下町を見守っています。また軍略上に必要から要所に寺院を移築しました。

旅の始まりは近江商人の精神に触れます。国の重要伝統的建物群保存地区である多くの近江商人が住んでいた町並み・新町通りには重要文化財である旧西川家や旧伴家などの近江商人屋敷や市立資料館といった商家や町屋が建ち並びます。近江商人の質素倹約・質実剛健な暮らしぶりを肌で感じることができ、昔ながらの格子戸や虫籠窓、うだつが見られて面白い。

市立資料館は市内の考古資料等が展示されている郷土資料館と旧西川家住宅、歴史民俗資料館、旧伴家住宅の4館で構成されています。江戸時代の造りをよく残すのは旧西川家住宅。創業はなんと安土桃山時代で、屋号は大文字屋と称し、蚊帳や畳表などの商いで財を成した近江商人、西川利右衛門の商家。京、大阪、江戸の日本橋にも店舗を構え、畳表では幕府の御用をつとめていました。国の重要文化財に指定され、主屋は宝永3年(1706)の姿に復元されています。道路に面した庭に「見越しの松」を配し、街路樹の役割ももたしつつ顧客をもてなしました。珍しい3階建ての蔵もあります。また現在は玄関脇に帳場風景を再現、近江八幡歴史民俗資料館として公開されています。

白雲館は子供たちの教育充実を図るため、近江商人の寄付によって建てられた疑洋風建築物の八幡東学校で明治10年(1877)設立。現在では観光案内所や市民ギャラリーとして活躍中。

道路を隔てた向かいの一の鳥居をくぐり、日牟禮八幡宮から八幡山ロープウェーへと続く白雲橋と八幡堀。堀の景観を眺めつつこの橋を渡って行きます。

まずは“八幡さん”と呼ばれることが多い日牟禮八幡宮に参拝。琵琶湖を見下ろす八幡山の麓に千年以上もの歴史を誇り、近江商人の時代から人々の厚い信仰を集めてきた近江八幡の総社。豊臣秀次の居城・八幡山城が築城される前は、山頂にも遥拝社が鎮座していました。創建は第13代・成務天皇が高穴穂宮(滋賀県大津市穴太地区に存在したと伝承される古代の皇居)にて即位した131年に武内宿禰に命じてこの地に大国主神を祀ったのがはじまりとされています。平安時代中期の正歴2年(991)第66代一条天皇の勅願により宇佐八幡宮を勧請、山頂に上の八幡宮を造営。この時に現在のご祭神である第15代応神天皇が神格化された八幡神、所謂誉田別命が祀られています。また平安時代後期の寛弘2(1005)に遥拝社として現在の地に下の社が建立されました。

天正13年(1585)に豊臣秀次が八幡山城を築城するのあたり上の八幡宮を下の社に合祀しました。境内に佇むと静寂な空気に包まれるかのようでパワーがいただけます。

海洋神としての八幡神を物語っており、近江の守護神として湖国の中心に祀られています。江戸初期に海外貿易で活躍した西村太郎右衛門が寄進した「安南渡海船額」が納められています。町の名前は八幡神を祀るがゆえに近江八幡となったといいます。

日牟禮八幡宮の境内にあるご存知たねやに隣接する「たねや日牟禮の舎」では、昔の近江商家を思わせる大らかな空間で、食事やお茶が楽しめます。

さらに参道を進むと日牟禮八幡宮から徒歩1分もかからない場所に八幡山ロープウェー公園前駅乗り場があります(往復890円)。昭和37(1962)開業、全長543m、高低差157mのロープウェーは15分間隔で運行されています。

八幡山城跡へは、山麓から八幡山ロープウェーでわずか4分の空中散歩で、背後には次第に京都のように碁盤の目に整備された城下の町並みや周囲の田園風景が開けてゆきます。通称八幡山と呼ばれる鶴翼山はかつて法華峯、比牟禮山とも呼ばれていました。鶴が翼を拡げている姿に山容が似ていることから命名されたとのこと。

山頂駅を降りて舗装された道を進んでいくとさっそく立派な石垣が目に飛び込んできます。山頂部分は総石垣作りになっていて、おそらく安土城の天守台石垣が、一部失われていることから転用したことも考えられます。未発達な算木積み、粗削りの石材を直線的に積み上げた反りのない石垣が特徴です。

道なりに進みおねがい地蔵尊を通り過ぎると、約6分で村雲御所こと瑞龍寺の山門に到着。

石垣を左右に控え包まれるように立つ山門を入ったところは、八幡山城の本丸虎口と推定されています。

本丸の出入り口は方形の巨大な枡形虎口になっていて敵を側面から射撃する防御性の高い設計になっています。虎口を上っていきます。

手水鉢は花手水で彩られていました。

本堂脇にある六角堂を回り込む形で進むと金生稲荷堂があり、この場所から虎口に横矢を掛けられるようになっていたと考えられます。

村雲御所 瑞龍寺は、豊臣秀吉の姉で秀次の母、瑞龍院日秀尼(智)が秀次の菩提を弔うために文禄5年(1596)に創建した日蓮宗唯一の門跡由緒寺院です。後陽成天皇から村雲の地(京都市今出川堀川あたり)と瑞龍寺の称号、さらに寺領1千石を賜り、また紫衣の着用と菊の御紋使用が許されて勅願所となりました。昭和36年(1961)に京都から八幡山城跡に移築されました。

本尊は一塔二尊四菩薩(釈迦牟尼菩薩)です。須弥壇には鮮やかなブルー(ウルトラマリン)の蓮の絵が描かれています。

本堂は八幡山城の本丸があった場所に立っています。本堂では村雲御所と呼ばれるのも納得する華やかな空間で、狩野派が約170年前に金やプラチナを使って描かれた襖絵の気品ある「雲の間」や「拝謁の間」がかつての威光を伝えています。

老朽化する本堂等の建造物の再整備が図られ、本堂内の廊下の側にも、須弥壇と同じ木村英輝氏のウルトラマリンの蓮が36個描かれています。

京都から移された妙と法の字が石で表された庭園があります。奥には能舞台も設置されています。

八幡公園にある秀次公の像の原型が安置されています。豊臣秀次は18歳の若さで八幡山城主となっていましたので、補佐には水口岡山城主・中村一氏、佐和山城主・堀尾吉晴、長浜城主・山内一豊とあり、付家老として八幡山43万石のうち、23万石をもって田中吉政が赴任しました。八幡山城は近江支配の拠点としての一翼を担い、それに見合う城と城下町づくりが進められました。

山頂には遊歩道が設けられ、一周30分ほどの散策コースです。山頂部分の北の丸、西の丸などの曲輪に総石垣と礎石が残ります。

北の丸跡から安土山を望み西湖とそれに続く水郷が見えます。

西の丸跡からは琵琶湖と対岸の比良山系が望める。右手には長命寺港が見えます

出丸跡からはの眺望です。安土城と観音寺城の山が見えています。

二ノ丸はおねがい地蔵尊の上にあり、石垣の上には観光施設はあり、少し残念です。写真は二の丸の石垣です。

八幡山は険しい山城であったため、山の斜面は活用できず麓に建てた居館が政務の中心となっていました。八幡山の南麓には八幡山公園があり、ここから少し山側に登って行くと、竹藪の奥に大きな石を組んだ石垣が現れます。谷部にあり、両側の尾根が壁となって挟み込む形の秀次が住んだ秀次館跡で、山頂で見た石垣よりもスケールが大きく、立派な建物であったことを彷彿させます。

ここから秀次が琵琶湖を行き来する船をすべて寄港させて賑わっていたという八幡堀へ。城と城下町を隔てる幅員約15m、全長6kmに及ぶ人口の水路で、標高約283mの八幡山山頂にある八幡山城の山麓を取り巻くように蛇行しながらめぐっています。現在は干拓されていますが、かつては八幡山の西側には津田内湖、東には大中の湖が広がり、八幡堀は西側は津田内湖から琵琶湖へ抜け、東側は北乃庄沢から西の湖へ抜けていました。本来防御のための堀ですが、商人たちの水路として大いに活躍しました。白壁の旧家や土蔵が立ち並び、映画やテレビ時代劇の撮影にも使われます。2015年後期のNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のロケ地になり、あさの姉はつが舟に乗って嫁ぐシーンもここ八幡堀で撮影されました。

堀沿いの石畳を歩いていくと八幡堀めぐりの乗船場があります。約35分の船巡りでゆらゆらのんびり昔懐かしい雰囲気と風情を楽しみます。

写真は白雲橋からの眺めです。「大奥」「最後の忠臣蔵」「武士の家計簿」「るろうに剣心」といった名作が生まれています。

城下町散策の後はヨシが茂る水郷を和船で楽しむとしゃれこみましょう。豊臣秀次も舟の中で茶会を開いたり、お月見をしたりしたといいますよ。「桜と菜の花の競演!葦の原を行く舟遊び・近江八幡水郷めぐり」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/11127

近江八幡の町中散策「近江八幡の和の歴史の町並みに残るヴォーリズ建築を訪ね歩く」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/12629

 

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