栃木・佐野市で上杉謙信も欲した唐沢山城跡と藤原秀郷を偲ぶ

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

古くは『万葉集』の東歌にも詠まれている詩情あふれる三毳山(みかもやま)、奈良の都からの旧東山道沿いの町として、また藤原秀郷公ゆかりの唐沢山と豊かな自然に恵まれ、厄除け大師で賑わいを見せる歴史と文化の香りの高い栃木県・佐野。かつて戦国時代には唐沢山城が、江戸時代には日光例幣使街道の宿場町として栄えてきた面影が今でも見られます。ブラタモリで“ほしいモノ”にあふれているという佐野の魅力を探しに出かけます。

まずは上杉謙信がどうしても欲しかった「唐沢山城」を目指します。唐沢山城は、佐野市街地の北東約4kmに位置する、標高242mの唐沢山山頂に本丸を置き、一帯に曲輪を配した連郭式山城。平安時代の天慶3年(940)に東国で反乱を起こした平将門を成敗した城主佐野氏の先祖、藤原秀郷が築いたという伝承があります。

唐沢山城へはいくつかのハイキングコースが選定されています。①東武田沼駅から約3.5km、徒歩50分、②東武堀米駅から約4.5km、徒歩1時間強、そして今回往路で利用した③JR佐野駅(南口)から市営バス「さーのって号」犬伏線で犬伏下町バス停から県道141号を歩いて起点の「露垂根神社」に向かうコースです。

ところで犬伏といえば、「犬伏の別れ」で知られています。慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いに際して、7月21日上杉討伐に向かう徳川家康に従っていた真田父子が家康方に付くか石田方(豊臣方)に付くか選択を迫られた際に、いずれが勝利しても真田家が存続できるように、昌幸と次男の信繁(幸村)は石田方(西軍)に、長男の信幸(信之)は家康方(東軍)に味方をすることに決め、父子が敵味方に分かれて、別れを告げた逸話です。その真田父子の協議が行われたのが、犬伏下町バス停の東側・犬伏交差点を県道141号線へ左折せずそのまま県道270号を600mほど直進したところにある薬師堂です。(犬伏下町バス停で下車せず二つ先の犬伏薬師堂西で下車3分)

すぐそばを流れていた川に架かっていた橋は、真田父子の別れ橋としてこの地に語り継がれています。

犬伏交差点まで戻り県道141号線を2kmほどまっすぐ道なりに車道を歩くと唐沢山神社道と標された石標と唐沢山神社一の鳥居が見えてきます。

右手に唐沢山の南の登山口となる露垂根神社があり、参道右手の鳥居をくぐり道中の安全を祈願してお詣りしていきます。

露垂根神社(つゆしね)は天慶5年(942)藤原秀郷公が唐沢山城築城に際し、大炊の井の守り神として安芸国厳島大明神を唐沢山山上に勧請したのが始まりで、慶長元年(1596)城主佐野信吉の時、現在地に遷座しました。唐沢山城破却後の崇敬を集め、寛永12年(1635)徳川家光の治世、この地方を治めた井伊直孝が再建立、寛保3年(1743)拝殿が建立されました。

本殿の東・北・西の3面の壁には、中国晋の時代に、洛陽の竹林に集まって俗世間を離れ心の赴くままに酒を飲み、詩を作り、老子・荘子の思想に浸って清談するという日々を送ったといわれる7人の隠者、名前は、阮石・嵆康・山濤・向秀・劉伶・阮咸・王戎の「竹林の七賢」の色鮮やかな彫刻があります。

神社脇から山側に延びる細いトレイルが唐沢山(唐沢山神社/唐沢山城跡)に向かうハイキングコースとなっています。唐沢山神社までは所要時間30分、登山道は細いものの、緩やかな上りで木陰も多く快適に上っていきます。

唐沢山神社の御祭神藤原秀郷公は、天慶3年(940)に東国で反乱を起こした平将門を成敗し、下野守と武蔵守を拝命して後に鎮守府将軍ともなった平安時代の英雄です。(瀬田唐橋に現れた大蛇に頼まれ、近江の三上山に棲む大百足を成敗した「むかで退治」の俵藤太として有名)唐沢山城は、秀郷公が築いたとする伝承が古くから地元にありますが、実際の築城は15世紀。平安時代の末から佐野庄の領主であった秀郷公の末裔である佐野氏が、早くから戦いに備えて急峻な唐沢山に城を築き始めます。交通の要衝だったため、戦国時代には頻繁に北条氏と上杉氏の抗争の舞台となり、山頂の本丸を中心に山全体を堅牢な城として整備、さらに東日本では数少ない織豊系築城技術を用いて高石垣を築くなど、関東屈指の山城となっていきました。

この頃の当主・佐野昌綱は、上杉について小田原の北条氏から度々攻められ、昌綱の子・宗綱は北条について今度は上杉に攻められます。越後の上杉謙信の攻城を10回も退けたように幾多の戦いにも唐沢山城を堅固に築きつつ400年以上にわたって耐え抜いた山城です。続日本100名城にも選定され、唐沢山城跡の指定面積は194haで、山、城としては関東最大の規模を誇り関東七名城のひとつです。

唐沢山城の入口である大手の石垣造りも枡形はくい違い虎口となっています。敵が直進できないように、鉤の手に折れて「くい違い」に造られています。現在駐車場となっているところは蔵屋敷でした。

さらに内側にはかつて武者詰があったとされる枡形、枡形を入って右手に天狗岩があります。枡形の裏側に虎口が築かれ、本丸方面まで続く大手道への通行を遮断しています。

「大険山」とも例えられる岩山で、南面に出た岩がちょうど天狗の鼻の様であったことからこの名があります。天狗岩からの眺望はとてもよく、物見櫓があった場所といわれ、軍事的に見張る役割を果たしていたことが実感できる場所です。関東平野を一望に遠くの稜線には、北より日光連山、西に上毛三山や浅間山、秩父南アルプス、秀峰富士、東に筑波が眺められます。

虎口の内側には城内の重要な水源である直径9m深さ8mの大炊の井があります。築城の際、厳島大明神に祈請をし、その霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとのこと。今日まで涸れずに豊かな水をたたえています。明治期の井戸浚いの際に、底部に八角形の松材の木枠が3段に積まれていることや、中央がさらに掘り込まれていることが確認されています。

戦国時代の堀切「四ツ目堀」があり、城の山頂部を西城域と帯曲輪以東とを東西に大きく分断する堀切で、南北の斜面を下る竪堀ちなっています。堀巾は5間、深さ2間あり重要な防衛地点でした。

その四ツ目堀に架かる橋が神橋はかつては曳橋が架けられていたとされ、いざという時には橋を引き払い、城の中心部への敵の侵入を防いだと考えれています。

周囲に高く急な切岸が巡り、部分的には石垣も認められる接客殿があったという大きな曲輪・三の丸から参道わきの道・大手道で城の中心部へと進み石垣の間を上り、二の丸に到着します。写真正面から虎口(出入口)から二の丸に入ります。二の丸から本丸へ上る通路はかつて鉤の手に折れていて、二ノ丸に入ると頭上には、本丸の櫓や城門などが聳えていました。

二ノ丸は奥御殿直番の詰所であったいいます。本丸への大手虎口の守りを固めた曲輪で、「追手馬出」と記された古地図も残されています。現在神楽殿が建っています。

二ノ丸より本丸に上がる虎口(入口)には見る者を圧倒する巨大な鏡石が左右に据えられています。この本丸に現在藤原秀郷公を祀る唐澤山神社があります。現在残っている城の機能は戦国時代末期、豊臣秀吉と関係が深かった佐野房綱(天徳寺宝衍)が整えました。秀郷の子孫でこの地を治めていた佐野氏出身で諸国を歩いて中央情勢を把握し、秀吉に従っていたことから秀吉の側近・富田信高の弟である富田信種を養嗣子として迎え、天正20年(1592)家督を継がせました。これが佐野信吉です。

あらためて大手道を下り社務所のある南城へ。この道を下った先で「るろうに剣心 京都大火編」で剣心と刀狩の張が戦闘するシーンのロケがありました。

本丸南西側には、織豊期に城主佐野氏により整備された関東地方最大の高石垣が築かれ、西日本の技術が導入されています。高さ8m、幅40mを越え圧巻です。

南城は蔵屋敷で武者詰所だったところで周囲の石垣は必見です。眺望がよく関東平野を一望でき遠くは富士山も見えます。現在は社務所があり、唐澤山神社の御朱印や唐沢山城の御城印がいただけます。ここでドラマ「ガリレオ」のロケがありました。

南城から石段を上り鳥居をくぐると引局。南局跡とされ、かつては奥女中の詰所であったともいい、古地図によってな二の丸とも記されている場所です。

ちょうどこの時期(令和5年7月15日~8月27日)唐澤山神社 参道・山門前にて夏の風物詩「風鈴参道~天明鋳物 涼音の社~」が開催されています。風鈴はかつては魔除けや疫病退散の縁起物として扱われてきました。一千年以上の歴史を誇る佐野市の伝統工芸である「天明鋳物」でできた風鈴が数百個並び、その涼し気な音色が心に涼をもたらしてくれます。

天明鋳物の起源は平安時代、天慶2年(939)平将門の乱のため、唐澤山神社御祭神・藤原秀郷公が武具製作者として河内国から5人の鋳物師を佐野に移り住ませたことに始まります。風鈴は佐野市亀井町の栗崎鋳工所が作成したもので、金、銀、銅の3色があり、それぞれ直径3cm、高さ5cmの小ぶりなサイズ感が可愛らしく、その音色もとても繊細で美しい。

じつは拝殿に向かう前にある手水舎の水口に注目です。龍と宝珠のデザインで「摩尼神龍」といい天明鋳物師・若林秀真氏によるものです。(ブラタモリでも紹介されていた160年以上続く鋳物の家の5代目です。)むかで退治のお礼として龍神様より品をいただいたという伝説などをふまえたデザインとのこと。

石垣に囲まれた山門をくげれば、唐澤山神社が鎮座されます本丸です。

唐澤山神社の創建は明治16年(1883)10月。佐野郷秋山林策ら佐野家ゆかりの人々によって設立されました。藤原秀郷公を祀っていることから勝ち運・運気上昇のご利益に篤いパワースポットです。

虎口まで戻り駐車場にあるレストハウス横から下り鏡岩を見ます。上杉謙信が唐沢山城を攻めた時、西日が反射して攻めることが困難であったという物語から名付けられた岩です。

駐車場から田沼駅方面へのハイキングコースを下ります。トレイル道は約1.4km、唐澤山神社石鳥居まで30分ほどで着きます。さらに2kmほど車道を歩いて東武佐野線田沼駅に向かいます。これが①のハイキングコースです。

田沼駅の西100mほどに線路を越えた道路沿いに大きな朱色の鳥居が目印の次の目的地「一瓶塚稲荷」があります。文治2年(1186)藤原秀郷の子孫、佐野成俊が、藤原秀郷が天慶5年(942)創建した犬伏町富士の関東五社稲荷を唐沢山城を再興した際に城の後口の固めに塚を築き遷座して創建しました。その折各地の人々が瓶に土を入れてこの地に運び塚を築いたので塚を一瓶塚と呼び、社の名前になりました。江戸時代初期までは佐野の総社だった古社です。

延享3年(1746)佐野荘の人々の協力によって奉納された鋳物師丸山善太郎が制作した天明鋳物の銅製鳥居は国認定重要美術品に指定されています。柱の足元には対の狛犬が上方を眺めています。

拝殿と幣殿は天保5年(1834)の火災後に再建されたもので、どっしりとした拝殿は木造平屋建て、銅板葺入母屋造で千鳥破風、平入、桁行8.19m、梁間4.55m、正面1間唐破風向拝付、外観は真壁造り板張りで拝殿の中に金色の狛狐が置かれています。

幣殿は銅板葺、桁行4.55m、梁間7.28m、棟梁は宮大工片柳備後定保一族。本殿は寛政3年(1791)の火災後に再建したもので、一間社流造、銅瓦棒葺、桁行2.43m、梁間4.24m、外壁は朱色に塗られ建物全体に精巧な彫刻が施されています。本殿、拝殿、幣殿が繋がりあった権現造です。

拝殿の背後、赤い垣の内にある本殿は朱に塗られた流造ですが、本殿の背後に千鳥破風のある変わった形状になっています。本殿の後ろ、垣の中央に神門があり門の両脇に狛犬、参道の階段や鳥居もあるので背後から参拝しても違和感がないのが面白い。神門の扉の前にたくさんの狐の像が置かれています。

朱塗りの権現造りの本殿が豪華で見事で、彫刻は必見です。大平の彫刻師、磯部儀左衛門・義平の作で破風と縁の下に赤龍が睨みを効かせています。

胴羽目では金龍、武王を方相から護の図、西王母の作品が見られ腰羽目など至る所で彫刻のオンパレードです。朱色の中に箸休め程度に白や青の彩色も見られ、波など水系の物が彫られ、火災防止の願いが込められているのが見て取れます。

最後に東武佐野線吉水駅近くにある唐澤山神社の飛地境内となっている秀郷の墓所「藤原秀郷公墳墓」に寄って佐野駅に戻ります。正歴2年(991)没の藤原秀郷公を葬った東明寺の跡とつたわり、別名東明寺古墳とも呼ばれ、直径24m高さ3mの「円墳」となっています。

藤原秀郷を祖に持つ佐野氏の栄華盛衰を感じる城めぐりでした。

唐澤山神社の風鈴や手水舎の水口、一瓶塚稲荷神社の鳥居など、天明鋳物を見つけることができる佐野。そんな佐野の誇る天明鋳物を探しに佐野市内を歩きます。「“ほしいモノ”にあふれる佐野で三英傑も欲した天明鋳物を探す」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/12551

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天明鋳物の起源は

おすすめの記事