太田道灌の城攻めで落城の歴史!小田原北条氏の支城“小机城”

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現在の神奈川県横浜市港北区小机町付近に相当する武蔵国橘樹郡小机にあった続日本100名城に選出されている山城・小机城は、鶴見川に突き出た丘陵上の要害で、15世紀半ば頃(室町時代)までには築城されていたと考えられています。神奈川湊から八王子方面に抜ける神奈川道と鶴見川および鎌倉街道の交差する交通の要衝であり、横浜市北部一帯を含む支配拠点でした。文明10年(1478)の長尾景春の乱では太田道灌によって攻め落とされたと伝わり、戦国時代には小田原北条氏の支城として重要な軍事拠点となり城も改築されました。豊臣秀吉の小田原攻めでは戦闘記録はなく徳川家康の関東入り後廃城となりました。城跡内には迫力満点の巨大な空堀や、土塁・本丸・二の丸などの主要な遺構を見ることができます。

JR横浜線小机駅南口を出て線路沿いに町田方面に歩くこと約3分、城郷小机地区センターがあります。1階エントランスに続日本100名城スタンプが置かれ、2階ロビーにはミニ展示コーナー「戦国の城・小机城の歴史」があるので、事前に知識を得ておくといいでしょう。小机城址ガイドマップも忘れずに貰っていきます。事前準備を整えて小机駅北口から案内標識「小机城址市民の森」に従って小机城址を目指します。

徒歩で北西に約800m、途中民家や畑の遠方に小高い丘を望みながら約10分ほどで小机城址入口に到着します。小机城の築城時期は定かではないが、永享の乱(1438~1439)の頃に関東管領上杉氏によって南武蔵の軍事拠点として築城されたとされています。小机城は別名根古屋城(城山の裾野の古い地名)とも言われ、城山と呼ばれる城のある丘陵は、北・西・東の三方を鶴見川に囲まれ、鶴見川右岸の湿地帯に突き出た標高45m比高22m程の丘で、周囲の展望に優れた要害の地となっていました。またかつて飯田道といわれた神奈川湊から小机・下菅田を通る陸路と、当時舟着き場のあった鶴見川の水路の合流地点が小机であったことから交通の要衝でもありました。

室町時代の文明8年(1476)関東管領山内上杉顕定の家宰・長尾景信の死に伴い、嫡子長尾景春が家宰職を継げなかったことに端を発して反乱を起こし、上杉氏を攻めて武蔵から相模へと勢力を伸ばしていきました。景春に味方した小机城主・矢野兵庫助ら小机衆が城に立て籠もりましたが、鶴見川の対岸、北方の亀甲山に対陣した扇谷上杉氏の家宰・太田道灌によって文明10年(1478)に攻め落とされました。太田道灌は小机城を攻める前、羽沢の松の大木の下に腰掛け「小机は先ず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠み、配下の士気を高めたと伝わります。この時の松は以後硯松と伝わり石碑とともに残っています。

その後40年間廃城となっていましたが、文亀元年(1501)~永正13年(1516)伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を攻め落とし、ここを本拠に南武蔵・相模一帯を支配すると、小机城は地理的に、江戸、玉縄(鎌倉)、榎下(小机の西方)などの諸城を結ぶ位置にあり、軍事、経済の両面でその支配の要の地となりました。実際小机城は、有事のための支城情報ネットワークの一環として、主に北条勢力圏の支城・江戸城から本拠地小田原城間の狼煙の中継拠点の役割を担っていました。

大永4年(1524)北条早雲の家宰であった笠原越前守信為を城代として小机城の改修を命じます。小田原北条氏の支配下で再興された城は半島状の丘陵上部を大きく平らに削り、一列に3つ程度の郭(東郭・中郭・西郭)を並べ、その並んでいる郭の側面に腰、帯曲輪を築いています。そして城郭全体を二重の土塁と空堀で囲むという北条氏特有の築城法です。現在は城郭の主要な二つの郭とその間の細い郭(つなぎ郭)は残されていますが、西方は第三京浜道路の建設の際に分断され破壊、また西側の尾根続きにも城跡が続いていましたが、地下に横浜線の城山トンネルが貫通し、その上の遺構が大きく破壊されました。

城の麓にあった城主の館や家臣の屋敷地だった根古屋跡からが登山口になります。

孟宗竹の竹林の中の登城道を登っていきます。登城道はよく整備され、案内標識も随所にあり迷うことはありません。

突き当りをまずは右手にとり東郭を目指します。竹林の間を進みますが両側を進みますが、左手を覗き見ると空堀が見えます。小机城はこのような迫力ある巨大な空堀の遺構が随所に残る平山城です。

横堀の外側にはたくさんの腰曲輪がありますが、本来登城路は根古屋から東郭の南に位置する腰曲輪を経由していたと考えられています(※現在通行不可)。東西12m・南北20m程の平坦面で、北東側に井楼櫓跡があります。

東郭の南側に枡形虎口があり、周囲を高さ1.6m幅5m程の土塁で囲まれていたようです。

南西端には高さ2.5mの櫓台があります。一城には、数か所の櫓台が置かれています。この櫓台跡もその一つで土塁と連続して造られています。現在は畑地として土塁は取りされれていますが、昔は井楼櫓跡より東郭(二の丸)広場へ通じる散策路の上に土塁が作られていました。櫓台跡から左手下は空堀で堀底まで10m程あります。

東郭は3つの郭のなかで最も大きい郭で、最大で南北約97m・東西約48mあり、長方形に近い平面です。西郭と比べると不成形で曲線部も多く太田道灌に攻められるまでの初期の小机城の主郭とされ、比較的古い時代の姿を残しています。鶴見川を挟む対岸の右前方に亀甲山が位置しています。写真は東郭への虎口で左の土塁上に櫓台があります。

東郭の北側から東郭の外堀を通り、つなぎの郭、西郭まで大きく囲うように堀跡が残っています。堀の両側に土塁を巡らせた、北条氏の築城術「二重土塁」の遺構です。本丸の防御と敵の攻撃に対抗するために造られ、麓から攻めてくる敵に、上から弓や槍で攻撃できるようにしています。最大で深さ約10m以上、堀の上幅は約20mを超える巨大な空堀です。写真は東郭の西側の空堀

西郭へとつながる横堀を歩きます。空堀と土塁で囲われ、幅が広いところで20mを超え、さらに深さもあるため敵の侵入を防ぐ強力な障害となっています。

西郭(本丸9は東西40m・南北40mほどの四角い平面で、周囲を土塁で囲んでいます。西郭の防備と敵の攻撃に対抗するための空堀は堀上部の幅12.7m、堀底の幅5.0m、深さ12.0mとなっています。現在東郭・西郭のどちらが本丸・二の丸であったかは定かではありませんが、東郭が初期小机城の本丸であったと思われ、北条氏の武蔵国進出に伴い東郭から西郭に向かって大規模に改修したと考えられています。

東側の張出部となっている部分にはつなぎの郭へと続く虎口があり枡形虎口を形成していたと思われます。さらに東郭へつなぎの郭を介して結ばれており、行き来できる構造になっています。

中郭(つなぎの郭)は東西約8m・南北約60mと南北に細長く、東西と郭の中間部に位置し、小机城の最も高い地点です。東西の郭の間にある壁のようで、どの方向から敵が来ても狙える防御に適した場所です。特に両先端が西郭の方に曲がっていて、横矢掛けを可能としています。

南には櫓台を伴った虎口があり、土橋を渡った対岸には角馬出があります。角馬出は土橋の左右で空堀を位置をずらしくい違いにすることで造りだしていて、小田原北条氏の城によく見られる特徴です。堀をくい違いにしたことで敵の侵入通路となる土橋が屈曲し、虎口にある高さ2.2mの櫓台に向かって敵が攻めることになり、城兵は敵をより狙い易くなる構造です。写真の奥が土橋

角馬出から城山を下り、第三京浜道路をくぐり、富士塚の富士仙元の石段を登ります。富士塚は富士山を神の宿る場所として信仰する人々の集まりである「富士講」によって、江戸時代後期以降に主として富士登山が困難な人々のために江戸とその周辺地域に築かれました。最盛期には「江戸八百八講」と称されるほど数多くの講が結成されていた代表的な庶民信仰です。小机城の「富士仙元」は出丸のような郭にあった櫓台に建てらた富士塚と考えられています。石碑には富士仙元大菩薩と記されていて、富士山に祀られている木花咲耶姫と同一の名前です。見通しが良ければ富士山が拝める場所なのでしょう。

豊臣秀吉の小田原城攻めでは無傷のまま落城しました。4代目城代笠原弥平治重政が徳川家康の旗本として200石の知行を与えられ、5kmほど離れた台村に住み、小机城は廃城となりその歴史に幕を閉じました。

 

 

 

 

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