甲斐武田の栄華盛衰を見届けた2城・要害山城・躑躅ヶ崎館を巡る

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

武田信玄といえば甲府、甲府といえば武田信玄というくらい、山梨県民にとって戦国武将・武田信玄は特別な存在。武田神社の祭神となり、今も多くの参拝者が訪れています。武田神社は武田信虎、信玄、勝頼の3代が暮らした躑躅ヶ崎館の跡。そしてその背後には、武田信虎が築城し、信玄、勝頼と、甲斐武田家が3代にわたって居城とした要害山城があります。信玄生誕の地でもある歴史的な城跡には、土塁や曲輪が良く残されています。武田家の歴史に思いを馳せながら甲府駅から出発します。

JR甲府駅に降り立つと、ふたりの武田家の武将に迎えられます。JR甲府駅南口のロータリーに雄々しく立つのは武田信玄公像。高さ3.1m、台座を合わせると6.2m、重さ5000kgの像は川中島の戦いの陣中における姿を模したもので、甲冑を身に着け、どっかりと床几に腰をおろし、右手に風林火山の軍配、左手に数珠を握りしめている姿は、戦国時代に精鋭を誇った甲州軍団を思うがままにあやつった名将にふさわしい堂々とした様子がうかがえます。戦国時代を駆け抜け“甲斐の虎”と恐れられましたが、甲斐の国の中においては国造りに力を注いだといいます。

そして駅の北口には武田信玄の父・武田信虎の立像があります。信玄に比べてその名は知られていませんが、実は甲斐の統一に奔走し、躑躅が崎に城館を造営した「甲府の祖」です。彫像からはそのまなざしの鋭さを見て取れます。甲府開府500年を記念して2019年によっちゃれば広場に設置された銅像は、高さ2.1m、重さ400kgで右手に軍配を持ち、武田氏の本拠地躑躅ヶ崎館を背に、甲斐国を統一した後登ったと伝えられている富士山を見据えています。

まずは武田氏館跡へ向かいます。武田家には、古くから有能な家臣が多く、信玄公の代になると武田二十四将としてその名をとどろかせました。甲府駅北口から館跡との間はかつて城下町だったエリア。中央の通りともいえる武田通り沿いの東電地上機器24器に「武田二十四将」の切り絵デザインでラッピングされています。甲府駅北口から緩やかな坂道をまっすぐに3km弱を山梨県出身の切り絵作家・百鬼丸さんの切り絵デザインを楽しみながら進みます。

突き当りが館跡、甲斐国総鎮護である武田神社です。神橋が架かる堀や土塁に躑躅ヶ崎館の面影が残ります。南西に向かって緩やかに傾斜する甲府盆地の北辺である太良峠に発する相川の扇状地の頂部に城館は置かれ、北は山々がそびえ立ち、東西も峰に囲まれるいわば背後から攻撃されない立地でした。日本100名城に選定されている戦国大名武田信玄の居館として名高い武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)は、父信虎が永正16年(1519)に石和から本拠を移して築いた守護館で、以後、勝頼の新府城移転まで、親子三代、60有余年にわたって領国支配の中心として使用されました。また家臣団屋敷群と商人たちの根小屋が一体化した戦国城下町の形態を今に伝えています。甲府とは甲斐の府中という意味で、信虎が石和からこの地に居所を移した時に命名されました。

館跡は現在の武田神社とその周辺にまで及ぶ大規模なもので、室町将軍邸である花の御所と同様の東西約200m、南北約190mの方形居館で、館の周囲からその南方に広がる相川扇状地の一帯にかけて、一族や家臣、商職人の住む城下町が形成されました。城下町も京都の条坊を基本に一定の都市計画に基づいて設計されたことが明らかで、市場も開設されました。

近年の調査で、武田氏の築城技術の特徴と言われる三日月堀が、躑躅ヶ崎館の大手口を三日月状に丸く覆うような形で確認されました。堀は内側に土塁をともなう丸馬出と呼ばれる敵から館を守る防御施設の一部で、全長約30m、幅約4~5m、深さ約2.5mと推定されています。また『甲陽軍艦』には山本勘助が信玄の前で馬出の重要性を披露したという興味深い記述もあり、大阪の陣で真田幸村が造った真田丸はこの丸馬出の砦です。

武田神社の創建は大正8年(1919)、武田信玄をお祀りしています。檜皮葺の拝殿、本殿は一間社流造りで質実剛健を感じさせる拝殿です。緑濃い境内には城館の当時から残る堀や土塁、近くには「信玄公御使用井戸」があります。なかでも拝殿に向かって左にある信玄が娘の産湯に使った「姫の井戸」は延命長寿、万病退散のご利益があると伝えられています。また黄金色になって落葉する奇木「三葉の松」などがみられます。

永正17年(1520)武田信虎は居館と政庁の役割を担っていた躑躅ヶ崎館に対して、戦闘時に立てこもる詰城として要害山城を躑躅ヶ崎館の北東、標高770mの丸山に築きました。当時、駿河国の今川氏親の家臣であり、甲斐地域を侵攻していた福島正成が信虎の脅威となっていて、築城後ほどなくして正成との間に飯田河原の合戦が起こります。信虎は正室の大井の方を守るため、躑躅ヶ崎館から要害山城に迎え入れました。信玄が産声を上げたのはその直後であったといいます。

要害山南麓に位置する積翠寺は、行基開創と伝えられる臨済宗妙心寺派の名刹で、境内の清流が巨石にぶつかって滝をなしていたところから、古くは石水寺とも書かれました。

石水寺物語には、大永元年(1521)飯田河原の合戦時、要害山城に避難した大井の方がこの寺で信玄を出産したと載せてあり、産湯の水を汲んだとされる井戸が残っています。

不動堂には信玄像が祀られています。

ここから要害山の登山口までは、徒歩10分ほどで着きます。途中には廃館になってしまった積翠寺温泉の2軒の宿があります。鎌倉時代に発見され信玄の隠し湯のひとつと伝えられるこの温泉は、要害山麓の閑静な山あいにあり、尾根を隔てて西方の養曽沢にあるのを古湯坊坐忘庵、東方の要害山入口に位置するのを要害といいました。泉温は15~20度と低温ですが、緑ばんを含み、リュウマチや神経痛などに効果があるといわれ、その昔武田の傷病兵を癒したといいます。今では要害はシルバーセンターに古湯坊は閉館中で再開が待たれます。

登城道の入口には史跡要害山の説明看板が据えられているのですぐにわかります。

いよいよ山登りですが、登山道は整備されているので軽装備でも問題ありません。15分ほど登ると、土塁や竪堀の跡が見えてきます。城には山腹から主郭に至る通路に沿って、自然の地形を利用しつつ要所に竪堀や堀切の工事を施し、防御を固めている点が要害山城の特徴です。また枡形虎口に伴う門と曲輪が複雑かつ連続的に付設されています。

竪堀を過ぎて九十九折の道を登った所にある虎口の両側には石積が築かれ、ここに門が建てられていたと思われます。

この先は城門の跡が次々と現れます。山頂に近づくにつれて、至るところに堀や土塁によって区画された平坦な曲輪の跡も確認できるようになります。曲輪には、武士が控える武者溜まりや、武具などを保管する倉庫や防御施設などの建物があったと考えられます。

最初の大きな曲輪が「不動曲輪」です。この名称は、江戸時代後期に建てられた信玄の姿を模している武田不動尊が建立されていることに由来します。

2、3m進み、左手に進むと井戸曲輪があり、水神様が祀られています。この井戸は、一年を通して水の絶えることがことがなく、築城の際、諏訪明神に祈って水を得たことから「諏訪の水」(井戸)名付けられたと伝えられています。傍らに祀られているのが諏訪明神の祠です。

分岐に戻りさらに登ると要害山城で最も堅固な門の建っていた跡があります。両側に高く整然とした石積を築いて通路を狭くし、防御と攻撃の拠点として機能していました。

この曲輪はこれまで見て来た小規模なものとは異なり、山腹を大規模に造成して広い平坦面を造っています。ここから主廓部にかけて、階段状に大きな曲輪が連続し、道が何度も折れ曲がり、堅固な造りを見せています。

主郭部西側に設けられた、上下二段に石積みが築かれた門です。

登山口から30分ほどで山頂の主郭に到着です。東西73m、南北22mの長方形で広く、山頂の周囲は土塁で固められていて、城主居館であろう比較的規模の大きな建物が建ち並んでいた広場と東郷平八郎の書による「武田信玄公誕生之地」の石碑があります。

城の最も重要な場所であり、庭園に用いられたと思われる石も残っています。

反対側の主郭部東側に設けられた城門跡があり、さらに狭い土橋を残してを切った堀切跡があります。一度に大勢の敵兵が城の背後から主郭部に進入するのを防ぐため尾根の両側に深く急な竪堀を築き、護岸の一部に石積が見られます。

信玄は要害山城を用いることはありませんでしたが、勝頼の時代になってから修築されています。天正3年(1575)の長篠の合戦で織田と徳川の連合軍に敗北を喫し、その後の侵攻に備えたものです。しかしながら、これでは守りきれないと感じ、要害山城を離れ韮崎に新府城を築きました。その直後の天正10年(1582)甲斐武田家は滅亡してしまいました。しかしながら要害山城は戦国時代の山城の様相を今に伝え続日本100名城に選定されています。

JR甲府駅北口から武田神社まで山梨交通バスも頻繁にでていますが、要害山城に行くには甲府駅北口2番の積翠寺行きが7:30と11:30にあるので行きに登りで利用して帰りは徒歩で下ることをお勧めします。積翠寺バス停から要害山登山口なでは約15分です。

 

おすすめの記事