“清貧の托鉢僧”良寛禅師ゆかりの越後西蒲三山「国上山」を登る

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越後平野(蒲原平野)の西側、日本海沿岸に聳え、北から角田山、弥彦山、国上山と連なるのが西蒲三山です。国上山(くがみやま)の中腹には越後最古の古刹、国上寺(こくじょうじ)があり、そこには“清貧の托鉢僧”と呼ばれた江戸時代の禅僧で歌人の良寛禅師が過ごした五合庵があります。豊かな自然と歴史が待つ良寛さんゆかりの国上山山頂目指して越後路へ出発です。

西蒲三山と呼ばれる角田山や弥彦山から連なる、俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する標高312.8mの低山です。江戸時代後期に良寛さんが住んでいた五合庵があることで有名な山です。中腹までは車道が整備されているので体力や時間に合わせてコースを選択できるのがうれしいです。初心者やお子様向けの距離約1.8km、所要時間1時間程度から国上の里山を周遊できる距離約3.3km、所要時間1時間30分程度のコースがありますが、今回は最も国上の自然と歴史を楽しめる距離約5km、所要時間2時間30分程度のコースを歩きます。ちなみに中部北陸自然歩道「良寛のてまりのみち」の遊歩道が整備されていて、酒呑童子神社~朝日山展望台~蛇崩~国上山山頂~国上寺~五合庵~弥彦山スカイライン入口~大野積バス停までの12.1kmです。

県道新潟寺泊線か沿いの道の駅「ふれあいパーク久賀美」の裏手にある酒呑童子神社前の駐車場に車を停めます。『御伽草子』では、酒呑童子の出生地を越後としており、中でも国上寺には「大江山酒呑童子」絵巻と共に酒呑童子の生い立ちが詳しく記されています。そこには、桓武天皇の第5皇子桃園親王が流罪となってこの地へ来た時、従者として同行した否瀬善次俊綱の数代後の砂子塚の城主岩瀬俊兼が子授けを願って信州戸隠山の九頭竜権現に参拝祈願したところ男の子を授かり幼名外道丸と名付けられました。乱暴者でしたが、まれにみる美男子であったので近住在郷の多くの娘たちからの恋文が山のようにたまりました。ある日返事が来ないことに悲観し一人の娘が淵に身を投げてしまいました。これを聞いた外道丸は恋文の詰まったつづらを開けたとたん紫の煙が立ち昇り気を失ってしまいます。しばらくして鏡の井戸に顔を映し出すと悪鬼の形相に変わっていました。その後数々の悪行をはたらき副将の茨木童子を従え、信州戸隠を経てついに丹波の大江山におもむき、千丈嶽にこもったといいます。そんな酒呑童子を縁結びの神として祀るのが1995年に建立された酒呑童子神社です。

酒呑童子神社脇登山口から登りだしこもれび広場分岐を直進します。

遊具のある朝日山展望台は頂上ではありませんが、越後平野と大河津分水路が眼下に見渡せます。

朝日山展望台と五合庵を結ぶ長さ124mの橋が「千眼堂吊り橋」です。名前はこの橋が架かる千眼堂谷から名付けられ、橋上から谷底まで約35mあり、赤い橋脚が山谷に映え美しいのですが、思いのほか揺れます。

国上寺の住職の隠居所であった五合庵は、諸行行脚の末、文化元年(1804)47歳の時、越後に戻った良寛さんが約20年暮らしたといわれる茅葺きの質素な草庵です。五合庵の名は国上寺の客僧、萬元上人が毎日5合の米を支給されていたのに由来します。現在の庵は1914年に再建されたものです。

6畳一間ほどの板敷きで、茅葺屋根の簡素な造りから良寛さんのつましい暮らしが偲ばれます。縁側に腰掛けると、うっそうと生い茂る木々から漏れる光が庵を照らし出し、あたりの静けさが深く心に浸み込んできてとても安らいだ気分になれます。良寛さんも「いざここに 我が身は老いん 足びきの 国上の山の 松の下いほ」と詠んでいます。

また優しい秋風が吹き抜け庵の前には落ち葉も舞い、五合庵の傍らにある句碑「焚くほどは 風がもてくる 落葉かな」を実感します。これは、良寛さんが長岡藩主から城下に大きな寺を建てて迎え入れるとの申し出を断った時に詠んだ歌です。火を燃やすのに必要な落ち葉は風が持ってきて、煮焚きに必要なものは自然が運んでくるという意味で、自然体で生きる良寛さんの思想を表しています。良寛さんが一躍有名になったのは小説『雪国』の作者、川端康成がノーベル文学賞の授賞講演で「日本人の心は越後の四季と良寛の書にある」と言及したことによります。

ここから10分ほど上った先に国上寺があり、良寛さんが「国上やま苔の岩みちふみならし幾度われはまいりけらしも」と詠んだ坂道をのぼります。ちなみにこのあたりを内田康夫著『北国街道殺人事件』で描写しています。

国上寺に向かう途中に小高い山があり、「香児山」とあります。弥彦神社の祭神である天香児山命伊夜比古の神が最初に鎮座された場所でしたが、山が浅く、夏季に水が涸れることから三代目の天忍人命の時に現在の弥彦神社の場所に遷座されたといいます。

さらに進むと、あの外道丸が覗いて悪鬼の形相を映し出した「鏡井戸」があります。鏡井戸の横(説明板の後)には「縁切り地蔵」が安置され、その前には「縁切り、縁抜き絵馬」が奉納されています。絵馬に縁の字が型抜きされています。

康元元年(1256)、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が越後回国の際に御詠歌を作り、三十三ヵ寺を札所と定めたのが始まりとされる越後三十三観音霊場二十二番札所が雲高山国上寺です。元明天皇和銅2年(709)に越後一の宮弥彦大神の託宣により創建したと伝わる新潟県最古の名刹。上杉謙信が深く庇護し、祈願所として10万石の格式を与えて七堂伽藍を建立しました。往時は山中に21ヵ寺の末寺を擁し、1000人以上の僧が修行していました。

本尊は行基菩薩の御作婆羅門僧正の開眼にして聖武天皇后光明皇后により賜った霊仏阿弥陀如来坐像です。子年(12年に一度)の御開帳となっていて、地元では「今年は子の年、国上の開帳」と謡われています。

安置宝永8年(1711)に建造された弘法大師像を安置している「大師堂」は御影堂とも「御仮堂」とも呼ばれています。

方丈講堂は元文2年(1737)に建てられ、上杉謙信及び長岡藩主牧野公もが信心され崇めた千手観音菩薩像が安置されています。越後三十三観音霊場二十二番札所の観音様です。

文治3年(1187)兄頼朝に追われる身となった弟義経は武蔵坊弁慶をはじめ数人の家来と共に奥州、藤原秀衡を頼って落ち延びる途中、寺泊を経てくg沙美寺に参詣し、今後の無事を祈願して持仏の大黒天木像を寄進したといいます。その後霊夢により招福利益のため文化3年(1816)六角堂が建立され、大黒天像が本尊として安置されました。

国上寺本堂の裏側にある国上寺登山口から鳥居をくぐって山頂を目指して木漏れ日の中なだらかな階段を進みます。

コースの半分ほど上ったところに休憩ポイント五合目「あか谷みはらし」があり、ここから燕市を一望できます。山頂へは国上寺から30分ほどで着きます。山頂からは日本海がみえ、天気が良ければ佐渡島もみることができます。

山頂から反対方向、「山の神参道」を下り、剣ヶ峰分岐を蛇崩に向かいます。国上山は遠くより眺めるとお椀を伏せたような形をしていて、なだらかな稜線が温和な印象を与えていますが、北側の一部は奇岩(流紋岩)が露出した断崖絶壁になっています。昔から「国上山に大蛇住みして崩せる所なり」と伝えられ、地元ではここを「蛇崩」と呼んでいます。また「此の山に天狗が住みす」とも言われ、毎年3月9日の早朝に、山神とされる天狗が集まり、蛇崩から麓の一本杉を的にして、水晶石で拵えた魔除けの矢を放つと、蛇崩の方向より唸るような山鳴りの音がしたという伝説が残っています。

狭い岩道の途中には、大山祇命と天狗を祀った二つの石の祠があり、厚く信仰されています。

ここからちご道分岐、ちご道出合と下り、こもれび広場分岐まで戻ります。ちご道とは国上寺から弥彦方面まで続く古道で、国上寺の稚児が通った道です。

途中何か所か林道の下をくぐるトンネルがあって頂上から30分ほどで酒呑童子神社まで戻ります。

道の駅で永井豪の酒呑童子絵馬も販売されています。

トレッキングの疲れを癒せるのは温泉ということで越後長野温泉「嵐渓荘」に向かいます。

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