諏訪に鎮座する神々を巡る!信濃國一之宮諏訪大社と諏訪信仰

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信州の真中に位置する諏訪でまず参拝したいのが、御柱祭でよく知られる信濃國の一之宮「諏訪大社」。末社を含め全国25,000社に及ぶお諏訪様と呼ばれる諏訪神社の総本社です。諏訪湖を挟んで南北に上社と下社があり、南に諏訪市の「上社本宮」茅野市の「上社前宮」、北に下諏訪町の「下社春宮」「下社秋宮」と2社4宮の総称です。単体の神社ではなく4社に分れている構成はほかに類を見ず、日本最古級の神社に一つとされ、その起源は『古事記』の国譲りの神話まで遡ることができます。諏訪大社4社参りの道すがら諏訪信仰の謎をを解くカギを探りに出かけます。

上社本宮は、四社からなる諏訪大社の中核で、品格ある聖域。本州を東西分断する大断層、糸魚川・静岡構造線の中央部上にあり、大地のエネルギーが凝縮されている神霊磁場(上社本宮が断層上)です。

上社本宮は建御名方神を祭神とし、成立年代は1500年~2000年前とされ、古くは風の神、水の神、農耕・狩猟の神として信仰を集めていました。中世以降は東国第一の軍神として崇拝され、武田信玄をはじめ多くの名将たちが戦勝を祈願し、全国各地に分霊を持ち帰ったとされていて、そのため全国に一万余りの御分社が祀られています。鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に出雲王朝の支配権を天の神へ譲渡するようにと迫りました。これに対して、大国主の長男である建御名方命は国譲りに反対し、武甕槌命と力比べで負けてしまい、建御名方命は諏訪まで逃れたと伝えられています。

一の鳥居からが参道となっており布橋に続く入口門があります。前宮経由で繋がる御神体の守屋山のエネルギーを、廊下を通じて門から拝殿に引き込む構造になっているため廊下が必要になるとのこと。その布橋といわれる全長67mの回廊を抜けて拝殿に向かいます。明治になるまで、上社の最高祀職は「大祝」という生き神様でした。しかし大祝は少年で、信仰対象そのものでしたので、神事の一切は五官祝という5人の神官に任されていました。

渡御や遷座のたびに大祝が渡った長い回廊には上社の神紋(諏訪梶)が柱ごとに施されています。途中山側にあたる左手には、式年造営御柱大祭のたびに交互に建て替えられる東宝殿、西宝殿そしてその中間には慶長13年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したと言う四脚門、別名勅使門があります。かつて禁足地の神聖な地であり、神仏習合時代以前の神社信仰の形態を知る貴重な建造物です。

拝殿は参道に対して違う方向を向いているので、「願い事を大きな声で言わないと届かない」との伝承があります。神殿はなく代わりに御神体山とされるのが守屋山(1650m)です。上社本宮の境内すぐそばまで中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに迫っていて、神聖な地として神職以外の立ち入りを一切禁じています。一説には「硯石」という大きな磐座がひとつあるといわれています。磐座とは神様の御霊の宿るもの、降臨されるとされる巨石で古くからの自然信仰を表しています。※東西両宝殿の間から拝観することができます。

本宮の昔の建物は極彩色が施されておりましたが、天正10年(1582)に織田信長の侵攻によりその多くが焼失してしまいました。現在の建物は天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要して社殿が落成し、立川流の代表的建築物と言われています。幣拝殿の左右に片拝殿が並ぶ本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式になっています。

新川バイパスの神宮寺交差点から広い参道を通って駐車場に車をとめ、最初の白い石鳥居をくぐると左手に温泉が湧き出ている手水があがります。明神湯といい諏訪の温泉の源泉とも伝わるかなり熱いお湯が出ています。

諏訪大社上社本宮一の鳥居前にあるのが、昭和18年創業の諏訪市内の日東光学(株)が、神社参拝客のためにショールームと会議室を兼ねた喫茶室を2011年にオープンさせた「金子茶房」です。ガラス張りの近代的な建物は、松本市出身の建築家柳澤孝彦+TAK建築研究所によるもので、室内からはもちろん、外からも建物をすかして八ヶ岳連峰が間近に見られるのが特徴です。

一階は松本家具で統一されたシックで落ち着いた空間で華やかな高級食器が並ぶ飾り棚もある。2階のショールームに上がると、日東光学が誇るLED照明用拡散レンズ使用のダウンライトが心地よいスタイリッシュな部屋で八ヶ岳連峰の大パノラマを望みながらのコーヒータイム。霧ヶ峰の天然水で淹れるオリジナルブレンドハーブティーや極上のスペシャリティコーヒーをマイセンやウェッジウッドなど最高級の器で提供しています。提供されたコーヒーには「ローズヒップ」と「アカシア」の蜜が添えられていました。

御柱街道を少し入ったところに諏訪大神が出現し最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられているのが「上社 前宮」。前宮の社務所がある下の段全体は、その昔諏訪大社の祭祀を司る建御名方命の子孫とされる現人神の大祝(おおほうり)の居宅である神殿があったあたりで神原(ごうばら)と呼ばれていました。昔のままの素朴な原風景が広がる「古代の聖域」で、霊山・守屋山を背後に、太陽の光に恵まれた緑豊かな高台が開け、清らかな名水が流れる…江原啓之さんは「前宮こそ、日本屈指のスピリチュアル・サンクチュアリ」と評しているらしい。

写真の鳥居左は十間廊といい様々な神事を行う場所で、4月15日の御頭祭は最も需要でかつては鹿の頭75頭や山海の幸が積み上げられていました。大祝は年の暮れになると、ハンノキの枝で作られた16m余の大蛇3体が入った「御室」の中に入り、旧暦3月の酉の日まで「穴巣籠り」をしました。御頭祭は大祝が御室から出現する祭です。

右奥にあるのは内御玉殿といい即位した大祝が神宝である「真澄の鏡」を胸に飾り、「弥栄の鈴」を打ち振って民の前におでましになったお社です。

前宮御本殿は、内御玉殿から200m程坂道を上り集落を抜けると、鬱蒼とした木々に囲まれた山の中腹にひっそりと立っています。古くは神殿に付属したお社で前宮だけに本殿があり、本宮や春宮、秋宮にはありません。左側に諏訪明神が降りたとされる石があり諏訪大社発祥の地とされる由縁のひとつです。4社いずれも御柱を見ることができますが、4本すべての御柱を見て触れられるのはここ上社の前宮だけです。

本殿脇、四之御柱付近には約1km先の御手洗川上流から湧き出た“水眼(すいが)の清流”が流れ、古くから御神水として大切にされてきました。

下社は、春宮・秋宮ともに、建御名方神の妃である八坂刀売神 (やさかとめのかみ)をお祀りし、家庭運・結婚運をもたらすパワースポットです。古代、現代よりはるかに広かった諏訪湖をはさんで南に男神・上社、北に女神・下社が向き合っていたのが原型で、古い時代から今でいう「通い婚」スタイルでした。その通った足後が諏訪湖の氷の亀裂として現れると伝えられ、「御神渡り」とされ、上社と下社をつなぐように起こりやすく、両神の出会いと信じられていました。諏訪湖が全面結氷した時に起きる自然現象で、氷が割れ山脈のように連なり、長さは数キロにもなり、この氷の亀裂の盛り上がり方などから、その年の天候や、農作物のことを占います。

下社では寅年と申年の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されるので、春宮へは、神様が鎮座されている2~7月(冬至~夏至)がオススメなのである。

国道20号線から石の鳥居をくぐり、社頭から真直ぐ800m程伸びる通りはかつては春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場です。金刺氏は欽明天皇が営む金刺宮に仕えたと伝わる名族です。途中の御手洗川に架る下馬橋は室町時代の建立で、その形から太鼓橋の名もあります。ここより神域として、春宮参拝の折りには殿様でも駕籠や馬から降りなければなりませんでした。建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折に神輿はこの橋を渡るとのことです。入口の御影石の大鳥居は万治二年(1656)建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われています。

諏訪大社下社の最初の鎮座地とも伝えられている「下社春宮」。祭祀・拝礼を行うための建物は、中央の二重楼門づくりの弊拝殿、左右に建つ片拝殿ともに国の重要文化財に指定されています。拝殿の正面後方のご神木(杉の木)がご神体で、本殿を持たない原初的な神社形態です。

下社の春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画された際、同じ絵図面が与えられたため、社殿の構造・配置が大きさこそ違うものの全く同じ「対の宮」になっています。同じ絵図面で2人の名匠が競い合って造られたものですが、幣拝殿などの細部に施された彫刻はまったく異質で、大隈流と立川流という江戸時代を代表する二つの流派の宮大工によって、春秋両社の建築は彫刻に於て技が競われています。春宮の社殿は大隈流の地元の宮大工柴宮(村田)長左衛門矩重が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永9年(1780)に完成しました。

境内の西の清流が砥川で、川の中にある島は浮島と言い、どんな大水にも流れず下社七不思議の一つとのこと。お社は浮島社と言い、鎌倉武士が御射山の祭典に参列する時は、まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられます。諏訪大社春宮から砥川にかかる赤い橋を渡った近くに鎮座する謎の石仏が万治三年と彫られていることから「万治の石仏」といわれているものである。春宮に鳥居を造ろうと石にノミを打ち入れたところ、そこから血が出たために造作を中止し、代わりに阿弥陀仏を刻んだのがこの石仏とされる。長い間一般にはあまり知られていなかったユーモラスな形の石仏で、世にでるきっかけをつくったのが今は亡き岡本太郎画伯なのだ。下諏訪の歴史的情緒を愛し、しばしば訪れた画伯が、昭和49年の諏訪大社御柱祭に来た時、これを見て、「世界中歩いているが、こんな面白いものを見たことがない」と絶賛、新聞や雑誌に書かれ、一躍有名になったのです。

春宮から中山道を東へ1Km、甲州街道との分岐点である交通の要衡として発展してきた下諏訪宿に鎮座するのが「下社秋宮」。下社秋宮は観光地としても有名な場所ですが、立地的にも、霧が峰の龍脈が留まる龍穴(大地のエネルギーがみなぎる場所)のパワースポットなのです。正面の鳥居をくぐるとまず目に付く正面の大きな木は、寝入の杉と呼ばれる樹令は約八百年の大きな杉の木です。丑三つ時になると枝を下げて寝入りいびきが聞こえるといわれています。

その先に青銅製としては日本一の大きさを誇る狛犬(170cm)を両脇に従えて建つ神楽殿は、三方切妻造りで天保6年(1835)、江戸時代中期の名匠、立川和四郎二代目富昌の作で、荘厳な雰囲気を漂わせて迎えてくれています。大注連縄は蛇体を模したものともいわれ、出雲大社型で日本一の長さ(7.5m)がある。

社殿は春宮と同じ造りながら立川流の立川和四郎初代富棟の手によって安永10年(1781)に落成しました。拝殿奥の神明造りの建物は御柱の際に片方ずつ立て替えられる東西の宝殿があり、その奥に御神木であるイチイの古木が聳えています。宝殿の奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所であり、上社の神体山に対し下社は御神木を御神体として拝し、古代祭祀の形式を今に残しています。社殿の四隅には正面向かって右手前より時計回りに一の柱、二の柱、三の柱、四の柱が建っています。

鳥居をくぐって、緩やかな階段を登りきった右手に、下社秋宮は八坂刀売神の開湯伝説にまつわる温泉の湧出地でもあり、境内に温泉が湧き出ている全国でも珍しい御神湯の手水舎があります。湯口は竜神伝説にちなんで竜の口、かなり熱い天然温泉が流れ出ています。

境内横には創業明治6年(1873)、初代河西六郎が考案した塩羊羹を今に伝える老舗「新鶴本店」があります。素材を厳選し楢薪を焚いて練り上げる羊羹は、まさに洗練された手作りの味。上品な甘さと淡い塩味、滑らかな舌触りは職人の腕がなせる技で、ここの塩羊羹を食べたら他のは食べれません。

「神無月」は八百万の神々が出雲の地へ集まるため、各地に神様がいなくなることから呼ばれるようになり、それに対して出雲の国だけは「神在月」と呼ばれるようになりましたが、建御名方命は力比べに負けた際に、「この地から出ない」と約束をしたため、神無月の神々の会議には参加しないで諏訪の地にとどまるため、諏訪の地は神在月なのだという伝承があります。また、その際に4本の柱で結界を創ったものが御柱となったと伝えられています。

諏訪市・岡谷市・茅野市・下諏訪町等諏訪地方6市町村20万人の氏子が力を合わせて成し遂げる天下の大祭「御柱祭」、正式には「諏訪大社式年造営御柱大祭」といい、7年目ごとの寅と申の年に御社殿を造り替える祭事です。建築技術を伝える目的と新たに神が甦るという意味を持ちます。本殿のない諏訪大社では、御社殿の四隅に大木を曳き立ててそこに神が宿るとされています。諏訪大社は2社4宮で構成され、4本ずつ、計16本の柱が立てられることになります。柱となるのは直径約1m、長さ約17m、重さ約12tにもなる巨木で、この巨木を山から切り出し、人力のみで里へと曳き、各社殿を囲むように建てます。

上社山出しの見せ場は「木落し」と最後の難所「宮川の川越し」。下社の山出しの見せ場は「萩倉の大曲」とその後に待ち構える「木落し」です。これら難所を人力で乗り越えて延々と巨木を曳き歩く様から天下の奇祭ともいわれ、迫力ある勇壮な祭りです。2016年から下社の「木落し」は観覧が予約制に変更されているので注意してください。それぞれの境内に曳きつけられた巨木にはロープやワイヤーが巻きつけられ、氏子と観衆に見守られるなか建御柱が始まります。垂直に立てられた巨木は神となるのです。

 諏訪盆地は、九州から本州を横断する断層である中央構造線と、縦断する断層・糸魚川ー静岡構造線の交点にあり、つまり“日本のヘソ”に当たる位置にあります。構造線は水を司る龍神が行き来する龍脈とも信じられていて、断層によってできた谷は人や物が流通する道にもなりました。

龍神伝説としては中世に成立した「諏訪明神縁起画詞」には、諏訪明神がたびたび龍の姿で顕視したと記され、先の神在月も諏訪の龍神が出雲国の神々の集まりに出かけた時、あまりにも巨大な姿のために社に入り切れず、翌年から出席しなくても良いことになったという民話がある。また蛇体(または龍)となった甲賀三郎が諏訪の神になったとする「甲賀三郎伝説」や建御名方神の化身「犀竜」の子・泉小太郎が松本盆地を開拓したとする民話「泉小太郎」など、さまざまな龍神伝説が語り継がれています。

 

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