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田園風景の中に、古刹や古塔が立ち並び、中世の面影を色濃く残す「信州の鎌倉・塩田平」。前山寺から塩田城址を経て塩田神社へと続く鎌倉街道沿いは、別名「あじさい小道」と呼ばれています。毎年6月中頃になると、ガクアジサイが淡い紫色に色付き始め、見頃を迎える7月には、道の両側に約4万本が咲き揃い、パステル画のような散歩道を描き出します。梅雨の季節の外出は億劫ですが、雨露にぬれた紫陽花の花を見に行きませんか。

信州上田は飛鳥時代には、科野(しなの=信濃の旧名)国の国都であり、信濃国分寺も置かれ、当時の行政長官である国造がこの地に派遣されていたとみられています。時代を下った鎌倉期には、北条氏が幕府の信濃守護職として着任したことから鎌倉文化が移入され、いつしか「信州の鎌倉」と呼ばれるようになりました。実際上田市の塩田・別所は「信州の鎌倉」と呼ばれ,平安~室町時代にかけて造られた寺院が数多く存在する。鎌倉幕府の重臣、鎌倉幕府8代執権北条時宗の連署であった北条義政が1277年に信濃国塩田荘に遁世し、それ以降50年余り国時、俊時の3代にわたって北条氏がこの地域を治め、その間、鎌倉風の仏教文化が塩田及び別所の地に栄えたからです。

田園風景の中に、古刹や古塔が立ち並び、中世の面影を色濃く残す「信州の鎌倉・塩田平」。その前山寺裏手から塩田城址を経て塩田の館、そして龍光院・塩野神社へと続く鎌倉街道沿いは「遊歩百選」にも選ばれています。特に毎年見頃を迎える7月には、道の両側に約4万本のガクアジサイが咲き揃い、パステル画のような散歩道を描きだし、別名「あじさい小径」と呼ばれています。

遊歩百選とは、読売新聞が50年記念事業として2002年に呼び掛けを行い、市民参加による投票と選考委員会により選定された風光明媚な歩道などのある地域百選のこと。かつて「鎌倉街道」が上田市塩田から延々と鎌倉市の鶴岡八幡宮まで伸びていました。。「鎌倉街道」は鎌倉往還とか鎌倉道などとも呼ばれ,武家の都,鎌倉と周辺各地を結ぶ街道が複数存在していました。信濃方面へ通じる上道、越後方面の中道、奥州方面の下道、そして海沿いに京(平安京)へと向かう街道もあり、鎌倉時代の二大国都を結ぶ京への街道以外では、歴史上もっとも重要なのが信濃と鎌倉を結ぶ鎌倉街道上道だったのです。

鎌倉街道(あじさい小径)」を歩きます。まずは出発地点である「前山寺」に向かう。平安時代の弘仁3年(812年)弘法大師によって創建された格式ある襡股山前山寺へは、拝観料200円を払って入山します。両側に大樹がそびえる見事な参道が100mほど続き、薬医門の山門に一歩足を踏み入れるとそこはタイムトンネルをくぐり抜けたかのような中世の世界、静謐な空気が流れています。

茅葺きの本堂と三重塔が印象的な真言宗の寺院で、特に重要文化財である三重塔は室町時代初期の建立です。塔は三間三重で、高さ19・5m、屋根は杮葺で和洋と唐様の調和が見事です。当時の様式である二、三層に本来あるべき廻廊、勾欄や窓がないため、その美しさから完成物以上に均整のとれた佇まいに「未完成の完成塔」と呼ばれています。

この寺でもう一つ有名なのが、代々受け継がれてきた味の庫裡で供される「くるみおはぎ」700円、甘すぎないクルミだれは、まさに絶品の味わいです。愛情が詰まった名物のおはぎを食べて、日常の喧噪と離れた穏やかな時を過ごしてみてください。

前山寺参道前には「KAITA EPITAPH 残照館(旧信濃デッサン館)」や「無言館」といった美術館もあり美大の学生もよく来るらしい。昭和54年(1979)著述家、窪島誠一郎によって設立された「信濃デッサン館」には村山槐多など夭折した画家たちの作品が展示されていました。平成30年(2018)閉館するも令和2年(2020) KAITA EPITAPH 残照館に改めオープンしています。

名物の味に舌鼓を打った後は、前山寺の裏手にある標識から「あじさい小道」の始まりです。出だしは細い山道という感じですが、気持ちのいい小川のせせらぎを聞きながら歩いていくと、やがて一番の見どころである「塩田城跡」にたどり着きます。ガクアジサイも道の両側や山裾にも花を咲かせていて、見事なあじさいに彩られた塩田城跡の碑の前からは塩田平が一望できます。

弘法山の山麓にあった塩田城は、元弘3(1333)年塩田北条氏が滅亡した後、室町時代信濃の豪族村上氏が統治したとされています。現在は村上氏の居館跡の石碑がしずかに立っているのみです。

ここから先は「塩田の館」まで、両脇を埋め尽くすあじさいと木漏れ日がまぶしい道のりが続いてゆきます。

途中には、塩田北条国時が父である北条義政の菩提を弔うため月湲和尚を招いて弘安5年(1282)開山したと伝わる塩田北条氏の菩提寺である「宝珠山龍光院」の参道に出会います。

古くは仙乗寺といい鎌倉・建長寺の末寺でしたが慶長6年(1601)萬照寺6世瑞応が中興開山し、龍光院と改め萬照寺の末寺となった曹洞宗のお寺です。黒門と樹齢600年を誇る欅の古木が堂々たる風格を感じさせます。ところで、この寺では事前予約制で精進料理「山菜膳」が食べられるとのことです。

歩き始めて20分、観光センター「塩田の館」で休憩。“蚕都上田”をイメージし、かつてこの地に多かった白壁黒瓦の養蚕農家を模した建物で、塩田城跡からの出土品を展示しています。ここには「そば処北条庵」が併設されています。

ここのそばは「里帰りそば」と言われ兵庫県豊岡市出石町の「出石そば」同様に「皿そば」です。宝永3年(1706)上田藩主仙石氏が、江戸幕府から出石藩主松平氏とのお国替えを命じられ、その際に仙石氏は信州上田のそば職人を出石へ連れて行ったことから、元々出石にあったそば文化よが融合し、今では関西で最も著名な蕎麦の一つである「出石そば」が誕生したと言われています。この出石そばが、江戸末期から白い出石焼きの5枚の小皿に乗せて提供された為、「皿そば」とも呼ばれるようになったとのことです。時は流れ昭和54年(1979)上田市と出石町(現豊岡市)が姉妹都市となった事がきっかけで、出石そば(皿そば)が信州塩田の地で提供される事となり、このそばを「里帰りそば」と命名されました。

地元塩田で収穫されたそばを石臼で丹念に製粉、提供する日の朝に手打ちをし、挽きたて、打ちたて、ゆでたての3たてにこだわっているとのこと。そばは出石そば同様、白い出石焼きの5枚の小皿に盛られて供されます。5枚で1人前700円、そば栽培から製粉、手打ち、店の運営まで一貫して管理するこだわりの蕎麦は、さすがに味、香り、食感どれをとっても美味しい蕎麦ですよ。

切盛りするのは西塩田地区営農活性化推進組合女性部のおば様方。開店の2年前から地元上田の名店「おお西」で手打ちそばの研修を受け、腕を磨いたそうです。地元塩田で収穫されたそばを石臼で丹念に製粉、提供する日の朝に手打ちをし、挽きたて、打ちたて、ゆでたての3たてにこだわっているとのこと。そばは出石そば同様、白い出石焼きの5枚の小皿に盛られて供されます。5枚で1人前700円、小皿1枚追加は120円、15皿食べればそば通の証、もれなく記念品(真田十勇士か上田城のタオル)が頂けるとの事。そば栽培から製粉、手打ち、店の運営まで一貫して同組合で管理するこだわりの蕎麦は、さすがに味、香り、食感どれをとっても美味しい蕎麦です。

塩田の館から塩野池を横目に見ながら歩きます。塩田平は周囲をとりまく山地が1200mと低く、かつ内陸の盆地で降雨量が少ないためため池灌漑がおこなわれていた地域です。塩野池は独鈷山から流れる塩野川の水を貯めていて塩野平の景観にひとつになっておち、全国ため池百選に選定されています。

「あじさい小径」のあじさいの色がさらに濃くなり、足取りも軽くなります。

水車小屋を下れば終点「塩野神社」に到着です。

見事な杉並木を抜けると境内の中に塩野川に架かるめずらしい太鼓橋があり、そこを渡ると鬱蒼とした森の中には無人の質素な木造神社で、延喜式にもその名が記載されている由緒ある古社「塩野神社」があります。代々工人として社寺建築に精通し、上田地方に多くの業績を残した江戸時代中期の大工棟梁、末野忠兵衛が建てたものです。神社は独鈷山の頂上付近である鷲ヶ峰に祀られたのが始まりと言われています。塩野川の源流となるいくつもの沢がある場所に立ち、独鈷山からの清らかな湧き水が塩田平を潤し、土地を守る産土神として祀られてきました。

拝殿は寛保3(1743)年に現在の地に再建されました。間口と奥行きが同じ長さの楼門造りの二階建てで信州ではとても珍しく、建築形式上でも貴重な建物と言われています。寛延3年(1750)に建てられた拝殿後ろの本殿は神社建築様式のひとつである一間社流れ造りで、やはり間口と奥行きの長さがほぼ同じ。庇が正面の階段の上に張り出すように向拝がついている。

とりわけ拝殿の彫刻の緻密さと豪快さには惹かれるものがあります。虎や牡丹、天女、また昇り龍、下り龍の透かし彫り、虹梁と呼ばれる装飾のある梁には象や雲形が刻まれるなどすべてが完成された美しさです。また三手先の肘木の力強さは、すっと背を高くして立つ拝殿が一層逞しく見える。竜が脇障子の上の木を飲み込む珍しいデザインで竜の目玉がないのは、夜ごと悪さをする竜の目玉をくりぬいたからという伝説が残っています。戦国耳朶には武田信玄や真田昌幸、信之父子らも信仰を寄せています。

この塩田神社から200メートルほどのところ、独鈷山と呼ばれる奇勝な山の中腹に、薬師堂と仁王門のみが残る小さなお寺「真言宗 智山派 龍王山 中禅寺」があります。竜王山という雨乞いの山の名を称号にもつ中禅寺は、およそ800万年前、弘法大師空海が雨乞いの祈祷をするために草庵を結んだのが始まりと云わる真言宗の古刹です。仁王門に安置されている金剛力士像は、平安時代末期の作像とされています。ちなみに塩田神社と中禅寺を結ぶ道路はその昔、流鏑馬神事が行われた馬場だったそうで500メートル先の塩田神社の一の鳥居までまっすぐに伸びた道がその名残をとどめている。

中部日本最古の木造建築物と言われる薬師堂が素晴らしく、東西南北のどちらから見ても柱が4本立ち、柱と柱の間が3つある。茅葺き屋根のてっぺんには、少し先の尖った宝珠や、その下には四角な露盤とよばれる台を乗せてある宝形作り。「方三間 宝形作り」という平安末から鎌倉初期にかけての様式で、そして扉は、正面に3ヵ所、残りの3方に1カ所ずつあり、板を貼った板壁なのが見て取れます。平泉中尊寺の金色堂と同様の「方三間の阿弥陀堂形式」を伝えていて、阿弥陀如来堂様式の典型と言われている。素朴な風情を醸し出している茅葺き屋根は、上からは真四角に見えるらしい。

ここから別所温泉まで約4kmを歩くもよし「信州の鎌倉シャトルバス」に乗ってもよしで、体力に合わせて別所温泉に向かいます。        「信州最古の温泉「別所温泉」で外湯めぐりと古刹めぐりを満喫」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4103

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