奈良「葛城古道」に幻の古代鴨・葛城一族の痕跡を訪ねる

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奈良盆地は日本の政治・文化の中心として古くから開けた地域であり、奈良盆地の東端の山辺の道に三輪山があるように、西端の葛城の道には古代の人々が聖なる山と仰いだ金剛山があります。 古代(6世紀以前)、この盆地に勢力をふるっていたのが、三輪一族と葛城一族で、三輪山を中心とする東部に本拠を置いていた三輪一族が崇神天皇に始まる大和朝廷を興したとされる一方、 西部の金剛葛城連山の御所市一帯を本拠地にした葛城一族は、大和朝廷が成立する以前に葛城王朝を築いて国を治めたとされています。 

神々の時代から数々の史実の舞台になった金剛・葛城山麓に広がる古代から葛城と称された地域は大和六県の一つと伝えられ、緑豊かな町・奈良県御所市一帯は、日本が律令国家となる遥か以前に栄えていた古代豪族の鴨・葛城氏の故地でした。神々が住まわれていた高天原は、その昔、高天山と呼ばれていた金剛山の山麓にあったという「高天原」伝承地をはじめ、市内には古事記や日本書紀、万葉集に登場する由緒ある記紀神話にゆかりの舞台がいくつも点在し日本神話のふるさとともいわれています。そして金剛・葛城連山の山裾を南北に走る「葛城古道」は、そうした数々の遺跡や社寺を訪ねる神話と歴史の舞台となったロマンあふれる全長12kmの道です。西の豪族たちが行き来した葛城の道には、金剛山から吹き下ろす古代の風が通っています。その名も「風の森」から旅が始まります。

白州正子著の「かくれ里」の「葛城のあたり」では、“飛鳥は日本のふる里といわれるが、神武天皇以来、いやそれ以前から開けていた葛城地方こそ、大和文化の発祥の地だといえる。ただあまり古すぎて、山と山にまつわる物語しか残っていないのが、飛鳥や山の辺の道ほど人気のわかないゆえんかも知れない。正にそこのところが私の興味をひくのであって原始のままの風景や信仰ほど、人の想像力をそそるものはない。”と記している。

ということで神話の里ののどかな田園地帯を行く「葛城の道」を歩くことに。この道は司馬遼太郎の著書「街道をゆく」第1巻にも取り上げられている。モデルコース(近鉄てくてくまっぷ奈良ー24)では近鉄御所駅から五条バスセンター、新宮駅行きバスに乗って約15分、風の森バス停で降りて御所駅に戻る約13kmのコースです。コースからは奈良盆地や大和三山も一望することが出来ます。

近鉄御所駅からバスに乗り、風の森バス停で下車。葛城古道の南の出発点となる「風の森」。金剛山から吹き下ろす風が一帯の田んぼの水面を揺らす様子は、風の森の名にふさわしい。

鴨と称されたその地域は、南は金剛山麓に鎮座する高鴨神社から、北は葛城山麓・鴨山口神社、東は鴨都波神社に及ぶ、金剛・葛城山麓一帯の呼称でした。絶大な勢力を保持した葛城氏を輩出したのが、更に古い氏族の鴨族です。その鴨族を祀るのが「風の森」から少しゆるやかな坂道を上がったところに鎮座するのが「高鴨神社」です。古代の名門豪族・鴨一族の発祥地であり守護神として祀った社の一つで、京都の上賀茂・下鴨両社をはじめ、広く全国に分布する鴨・賀茂社の総本宮にあたるとされ通称・上鴨社といいます。『日本書記』には、神武、綏靖、安寧の3天皇が鴨族の娘を娶ったと記されていて、有史以前の世界とはいえ、実在の鴨一族の権勢を物語る叙述といえます。

木々が生い茂る参道はひんやりとして、清らかな気に満ちています。正面の石段を上り、拝殿にてお参りします。本殿に祀られる主祭神は、大国主命の御子で『古事記』では迦毛之大御神とも称され、「葛木の鴨の神奈備」に座し、皇孫の守護をした阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)をお祀りしている。古事記で大御神と称されるのは天照大御神、伊邪那岐大御神とこの迦毛之大御神の三神だけであり、最高格の敬称で呼ばれており、死した神々をも甦らせるという神力に強い神様といわれる。境内をうっそうとした老杉に囲まれて建つ三間社流造り檜皮葺の本殿は、室町時代天文12年(1543)の建築で、国の重要文化財に指定されている。白州正子の「かくれ里」でも「高鴨神社には、神さびた雰囲気がある。ことに神社の下の池に、金剛山が影を落としている景色は美しく、万葉によまれた葛城処女を連想させる」とある。

日本神話によると、鴨氏の祖は、八咫鳥に化身して神武天皇を道案内した賀茂建角身命なのだそうです。後に鴨族の本流は大和朝廷に滅ぼされますが、その系譜は各地に広まっていきます。鎌倉時代に『方丈記』を編んだ鴨長明、江戸時代の国学者・賀茂真淵などがそれです。ちなみに拝殿右側横の石垣には燈籠が埋め込まれているとのことで目を皿のようにして探してみたのです。

高鴨神社の隣には葛城の道歴史文化館があり、ここで観光マップなどが入手できます。館内にある「そば小舎」で鴨神そばをいただくことができます。石臼で挽いたそばは、しっかりとした歯ごたえでそば本来の風味が感じられます。

高鴨神社から注連縄をくぐって金剛山中腹へ続く古道は、木々の間を縫うように進むひんやりとした山道で急坂を上りつめること徒歩約30分で「高天(たかま)」に至ります。神話の「高天原」といえば宮崎県高千穂と比定されていますが、大和の地にも神々のふるさとが存在します。

途中には右手の水田の畦道に入って右に40Mという看板の先には蜘蛛窟がある。昔千本の足を持つという大きな土蜘蛛が住んでおり、時の天皇はお悩みであったので勅使がきて字猿伐から矢を射て殺したとのこと。土蜘蛛を高天彦神社の近くに埋めその場所を蜘蛛窟と呼んだとのことです。またその先左手、高天彦神社の手前にある鶯宿梅は昔、高天寺の小僧が若死したので、その師が嘆いていたら梅の木に鶯がきて、「初春のあした 毎には来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いたといいます。そこで、この梅を鶯宿梅と呼ぶようになったといいます。

葛城古道の中でも標高の高い高天原のこの伝承の地に鎮座する「高天彦神社」は、鬱蒼と茂った杉の大木が両側に並んだ参道の奥、厳かな雰囲気の中に社殿をひっそりと構え、今も伝説の地にふさわしい神さびた風情を周囲に漂わせています。延喜式では最高の社格とされる名神大社に列せられる古社で、祭神は天と地が分かれて間もなく高天原に最初に出現した神の一柱であり、神話の中で出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊尊、別名高天彦神です。その孫が高天原から地上へ天降った瓊瓊杵尊です。大和朝廷に先行して葛城王朝を築いた葛城一族の祖神で、社殿後方の美しい円錐型の山、白雲峯(694m)、別名高天山をご神体としています。

高天をあとに葛城古道めぐりを続けること10分程、高天彦神社から北東へ600mほどの橋本院参道沿いに「史跡 高天原」の石碑が立つ。

目の前が大きく開け、広々とした台地に出くわします。古くからの聖なる山・金剛山中腹、橋本院付近水田地帯一帯の高原台地で、人里とも街道とも隔離された状況が、日本神話の舞台になった高天ヶ原の実在の地と伝えられている高天原伝承地にふさわしい風情をかもしています。遠く大台大峰連山を臨み、その昔役行者大峰山へ橋を架けようとしたという展望名所でもあり、正に別天地です高天ヶ原は古事記が伝えるところによると、神代に皇祖神天照大御神が統治していたところで、ここから瓊々杵尊が日向の高千穂の峰に降臨したとされています。

高天原を過ぎたあたりに堂宇を構える「橋本院」。簡素な山門をくぐると観光寺院とは異なり、参拝者もそれほど多くなく、美しい田園風景の中に溶け込むかのように静かに佇んでいます。真言宗高野山の末寺で、建物のつくりが普通の寺と大分異なっているのが大きな特徴です。この寺は高台に建っていて、眼下に奈良盆地を一望できるのです。寺縁起によれば、養老年間、44代元正天皇の勅により僧行基が開き、かつてこの地で大伽藍を構えた高天寺の一子院で、もとは奈良興福寺に所属していたのですが、そののち高野山金剛峰寺に属し、真言宗の開祖である弘法太師を祀っています。高天寺は南北朝時代に焼き討ちされたため、以前あった場所から本尊の十一面観世音菩薩立像などを移したとされる後身寺院で、そのときにすぐ傍の池に橋があったことから、現在の「橋本院」という名になったとのことです。

役行者が修行し、中国唐代の高僧、鑑真が日本へやってきたときに、四十五代聖武天皇が高天寺の住職に鑑真を任命したほどの格式の高い寺院で、金剛山転法輪寺七坊の一つとして、石寺や朝原寺とともに権威をもった寺であり、また奈良朝から平安朝にかけては、高天彦神社とともに広大な荘園と山林を有した寺でもある。

本尊の十一面観世音菩薩立像は、木彫像高5.4mで右手に地蔵菩薩のような錫杖、左手に水瓶を持つ姿は長谷寺式と称される。「生かせいのちの本像」として近郷の信仰を集めているとのこと。江戸時代の大修復で施された金箔の輝きにはぬくもりが感じられます。

橋本院から極楽寺方面へ葛城古道はつながっています。天上の高天原を後にして金剛山の山頂から下る坂道を辿っていく、いかにも「これぞ古道」という雰囲気をもつ熊野古道のような山道を歩くこと30分、極楽寺の南にある北窪の集落にイノシシのフェンスを開けて出ます。

集落の名前にもなっている浄土宗知恩院派の「極楽寺」は、天暦5年(951)に興福寺で名僧の誉れ高かった一和僧都が開いた寺と伝えられています。寺の縁起によると、金剛山の付近に光が放たれているところを見つけた一和僧都が、地中から仏頭を掘り出し、その地に祭ったということです。南北朝時代には楠木正成の祈願寺となり、南朝方の合言葉に「極楽寺」が用いられたという。慶長19年(1614)大和郡山筒井氏との戦火によって焼かれたが、焼け残り再興のきっかけとなった鐘楼門がユニークなお寺です。

さらに郷道を歩くこと30分、やがて道は名柄の集落に至ります。背後に長々とのびる葛城山の尾根をひかえた名柄の地は、古くは長柄といい、それがいつしか転じて現在の名になったという。南北の旧高野街道と東西の水越街道が交差する名柄は江戸時代には宿場町として栄えました。古い民家が軒を連ね、大和棟の切りたった屋根、ひなびた格子、際立つ白い壁など、さながら「大和の民家」展です。なかでも「中村邸」は、御所市内で最も古い建築物で、中世、吐田城主だった吐田越前守の子孫にあたる中村正勝が、慶長年間(1596~1615)頃に建てられた代官屋敷です。

江戸初期の家の造りである切妻段造、本瓦葺、六間取を今に伝えるこの建築物は、全国的にみても歴史的価値の高いもので、国の重要文化財にも指定されています。また、名柄の地には、末吉邸、久保邸など、江戸中期の特徴的な建物も多く、葛城山の麓に静かな町並をかたちづくっている。

また作家の堺屋太一さんの実家もあり、大正時代築の瀟洒な旧長柄郵便局舎は、氏の尽力でカフェを併設した郵便資料館に生まれ変わり、道行く人々に憩いの場を提供しています。隣家に育った氏の記憶から淡い桃色にお色直しです。

町中には長柄神社ある。長柄神社は天武天皇が境内で流鏑馬を観覧したと日本書紀に記されている由緒ある神社である。本殿は一間春日造、桧皮葺、円塗で本殿の庇には勇壮な龍の絵が描かれている。御祭神は大国主命の娘神の下照姫で地元では姫の宮と呼ばれているとのこと。

約1.2kmの名柄集落の先、百楽門の「葛城酒造」の前を通り、醤油の香りが漂う、天然醸造の「片上醤油」のあたりで名柄地区を出ます。片上醤油は昭和6年(1931)創業以来、杉の大桶で発酵熟成させる昔ながらの製造法を守っています。左折して県道30号線の下をくぐりしばらく歩くと「葛城一言主神社」の鳥居が現れ、司馬遼太郎が絶賛した参道を歩きます。

鳥居の袂には『日本書記』によると神武天皇が葛で作った網で大和王権に抵抗した土蜘蛛一族(賊軍)をとらえ頭と胴と足を三つに切って埋めたという石(蜘蛛塚)がある。このことから葛城の地名ができたらしい。

この参道の両脇は松並木になっていて木陰が嬉しい。「大鳥居からはるかむこうの山麓まで松並木の参道になっている。古街道の松並木が戦後急速にほろびつつあるが、もしそのほうの全国番付をつくるとすれば、ここなど横綱がはれるのではないか」と司馬遼太郎が絶賛した一言主神社の参道はとても横綱とは言い難く規模は小さくなったのではないかと思う。歩くこと約25分、ようやく「葛城一言主神社」に到着です。

一言主神社の石段を登ると、拝殿前には推定1200年の高さ約20m、県下最大の銀杏の御神木「乳銀杏」が出迎えてくれます。都が平安京に遷って間もなく生を受け、以来1200年以上もこの土地を見守り続けた古木で、乳房が垂れたような気根が圧巻です。

祭神は、一言主大神で全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本山です。古事記によれば、雄略天皇が葛城山で猟をしたとき、同じ様相をして天皇と全く同じ所作で同じ言葉を発するものが出現し、名を問い掛けたところ、「吾は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と神力を示し、恐れてこれを拝したのが一言主大神といわれる。一言の願いであれば何でも願い事をかなえてくれる神様として、地元の人達は親愛の情を込め「いちごんさん」と呼んでいる。また日本霊異記では、役行者に葛城山と吉野金峰山を結ぶ岩橋づくりを命じられながら顔が醜かったので夜しか働かず、完成しなかったという逸話が残されている。この辺りのことは謡曲「葛木」の題材になっています。

また境内には境内の「謡曲「土蜘蛛」と蜘蛛塚」と題する案内板には、源頼光の土蜘蛛退治のことが書かれています。

葛城一言主神社に別れを告げ、高台の畦道を北へ進みます。この辺りからは、のどかな棚田の風景が広がり、奈良盆地全体を見渡すことができます。大和三山から北に目を転じると、遥か彼方に若草山が確認できます。大和の地理関係が手に取るようにわかり、この地を支配した豪族たちと同じ空間を眺めていると鴨氏や葛城氏が活躍した遥かな昔、そして神話の世界のロマンに浸れます。

杉木立の一角に葛城氏が本拠を置いたという第二代緩靖天皇の皇居である葛城高丘宮跡があります。 第二代緩靖天皇の皇居である葛城高丘宮の遺跡だと伝えられている地で、仁徳天皇の皇后・磐之媛の故郷ともいわれる。有名な『山背河の歌』のなかで、この地が詠まれており、「つぎねふや 山代河を 河上り わが上れば あをによし奈良をすぎ 小盾 倭をすぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり」(古事記)と書かれている。古事記、日本書紀によると、仁徳天皇の后磐之媛(古事記では石之日賣命)は、和歌山へ行っている間に天皇が妃として八田皇女(古事記では八田若郎女)を宮中に入れたことで激怒し、難波宮には帰らず、山城に向かう際に詠んだ望郷の歌だ。磐之媛は、葛城襲津彦(古事記では葛城曾都毘古)の娘で履中・反正・允恭天皇の母で、磐之媛の父葛城襲津彦は、神功皇后の命で新羅征伐に行ったりして活躍し、葛城氏の祖とされている人物です。

葛城の道も終盤にさしかかり道標にも千体石仏で名高い「九品寺」への行先が表示されます。

                                                             九品寺」は葛城連山の北の峰をなす葛城山の東麓、楢原の集落にあり、聖武天皇の勅により奈良時代の僧、行基が開基したと伝えられる戒那千坊の一つである。九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格を表現しています。

この寺は境内や本堂裏から裏山にかけて、赤い前かけをかけた数多くの石仏があることで有名で、本堂の裏山には1800体とも言われるおびただしい数の石仏が整然とお祀りされています。この「千体石仏」と呼ばれる石仏群は南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方の楠木正成公に味方して北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したもので、そのことから、身代わり石仏とも呼ばれているとのことです。南北朝、室町、桃山時代のものが多く、風化してお顔も定かでない石仏ですが、圧するような沈黙の中、参拝者を見守っています。

白州政子は著書の『かくれ里』で「奈良や京都の近くにあったら、たちまち有名になったであろうに、そういうものが人知れず埋もれている所が、葛城山のおもしろさであり、深さでもある」と言っています。

九品寺から六地蔵に至る麓の道を進む。田んぼの畦道を歩くのどかな田園風景の中を歩くと、九品寺を過ぎたあたり、田んぼの間を流れる用水路のそばに、小さな円筒状の塔が建てられている。これが、「番水の時計」といい、中には時計が置かれています。番水の時計により、当番の方が一定の時刻になると、用水路の水門が開けられる方向を調整し、水の流れを変え、それぞれの田んぼに万遍なく、水が行き渡るように配水を調整をするための慣行を守っているものらしい。この慣行は珍しいそうで、その背景には葛城山麓が堆積層の浅い扇状地で、水の浸透が早いなど水を上手く配分しなければならない地形状の問題があったためといわれています。

九品寺から先、歩くこと約20分、猿目の集落に入れば「六地蔵」が待っています。行く手を阻むように道の中央に鎮座する六地蔵は、葛城古道の終着点です。伝承によると、この巨石は自然災害の多かった当地に、室町時代に発生した土石流によって流れ着いたといわれていて、その後村人が自然石の表面に極楽浄土を願って6体のお地蔵様を彫ったのだとか。自然とともに生きてきた土地の人々の祈りが込められています。

「六地蔵石仏」からは近くの猿目橋バス停から近鉄御所駅までバスで10分ほどですが、本数も少ないので歩いて目指します。南に向かう途中櫛羅バス停近く櫛羅大湊に鎮座するのが「鴨山口神社」です。本社の社名・山口とは“山の登り口”を意味し、山口神社とは、古くから朝廷に皇居の用材を献上する山口祭を司った由緒深い神社です。「延喜式神名帳」には山口社は十四社(夜支布(柳生)・伊古麻(生駒)・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・都祁・長谷・飛鳥・畝火・石村(磐余)・耳成・忍坂)あるが、その内葛上郡の鴨山口神社が本社であるとされており、即ち式内の大社として格式の高い神社なのです。

本殿は、春日造桧皮葺(八尺に七尺)であり、拝殿は、瓦葺(五間に二間)であり、祭神は、大山祇神、大日霊命、御霊大神、天御中尊をお祀りしている。本殿に安置されている大日霊貴命坐像、御霊大神坐像は国の重要文化財に指定されています。

近鉄御所駅に戻りましたが、駅前を通る国道24号線を南に100m程行ったところに鴨・葛城一族ゆかりの神社があります。それが「鴨都波神社」です。高鴨神社の上鴨社に対して、下鴨社とも呼ばれています。古代豪族鴨氏の氏神社として、崇神天皇のころに祀られたとされます。大神神社の別宮ともされていて、祭神の鴨都味波八重事代主神は農耕や商売繁盛の神様として親しまれています。

葛城古道の無事踏破の感謝で鴨・賀茂一族に手をあわせ、あとは温泉に浸かって帰ることに。目的地は「葛城の郷 かもきみの湯」であす。葛城の鴨神奈備と称された「鴨」の地に人々が相集う場所として葛城の郷・鴨君之湯と命名している。葛城山系の麓に湧き出る温泉を引いた日帰り温泉施設で泉質はナトリウムー炭酸水素塩化物泉。歩き疲れをを癒し、ストレスなどの心身疲労に効果が高いようです。

施設の前からバスが出ているので御所駅まで戻り帰ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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