世界遺産「石見銀山」世界を魅了した銀の聖地をめぐる

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島根県大田市の石見銀山。日本におけえるシルバーラッシュは石見から始まりました。その時代に思いを馳せながら銀山を逍遥すると、堀子たちの威勢のよい声が聞こえてくるようです。緑が濃く香る自然の中に溶け込んで、しっかり見ないと見落としてしまいそうな場所に歴史が隠れているのは石見銀山が長い間手を加えられず時を過ごしてきた証で、国内で産業遺産としては初めての登録となります。深山幽玄な石見銀山の静寂の森と、昔日の面影を残す大森の街並みを歩いてみます。

山陰自動車道、仁摩・石見銀山ICでおり石見銀山へ。平成19年(2007)7月世界遺産に登録された石見銀山は、鎌倉時代の延喜2年(1309)周防国主大内弘幸によって発見されたと伝わります、それから約200年後の大永6年(1526)筑前博多の豪商神屋寿禎の入山によって本格的な銀の採掘が始まります。初めは山肌に露出していた鉱石を採取していましたが、徐々に鉱山の奥深くにまで間歩(坑道)を掘るようになっていきました。そして天文2年(1533)に朝鮮半島から伝わった灰吹法という方法を独自に進化させた画期的な銀精錬が開始され、シルバーラッシュの時を迎えることになります。以来、大正12年(1923)の休山までの約400年にわたって採掘された日本を代表する鉱山遺跡なのです。かつて世界二大銀山のひとつとして大航海時代の16世紀、石見銀山は日本の銀鉱山としてヨーロッパ人に唯一知られた存在で、16世紀半ばから17世紀はじめには、世界の産銀量の約3分の1をを占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものでした。石見銀産で産出された銀は高品質で石見銀山の所在する大森の古名・佐摩村にちなんでソーマ銀と呼ばれ世界中に流通しました。

時代は下り。群雄割拠の戦国時代には石見銀山の豊かな鉱脈をめぐり激しい争奪戦が行われます。中国地方の主権を争う大内、尼子、毛利の戦いで、いったん銀山は毛利の手に落ちるものの、関西から勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉のものとなります。そして慶長5年(1600)石見銀山は天領となり、銀山の最盛期を迎えます。『銀山旧記』には「はるか南山を望に嚇然たる光有り」と日本海を出雲へ向け航行中、船乗りたちは南の山の輝きを見て驚いたといいます。

世界遺産の登録エリアは、銀の生産が行われた約900もの間歩が残る仙ノ山を中心とした「銀鉱山(柵内)跡と鉱山町である大森の町並」、銀山の争奪にかかわる「数基の山城跡」、銀が搬出され生活物資が搬入された「石見銀山街道」、海運流通の要所となった沖泊と温泉津といった「港と港町」といった14の多様な要素すべてが対象で総面積は約530haに及びます。伝統的技術による銀生産方式を伝える遺構や生産から搬出に至る鉱山都市の全体像がよく残された一帯は、自然との共生もすばらしく、世界有数の大規模鉱山遺跡として威容を持ちます。

石見銀山の繁栄の面影を最も感じることができる二つのエリアが、鉱石を掘り出した坑道跡が数多く残る銀山地区と商家など歴史的な建造物が立ち並ぶ大森地区です。歩き方としてはまずは銀山地区「龍源寺間歩」までの片道約2.3kmの自然遊歩道を歩きます。緩やかな上り坂なので時間がなければ電動タイプのレンタサイクルで移動するのがおすすめですが、これだと遊歩道が歩けないので、じっくり観光したい方は歩きましょう。自然に満ちた散歩道です。石見銀山世界遺産センターに車をおいてシャトルバスで先ずは大森バス停で下車し、石見銀山公園からスタートです。

銀山地区は16世紀から20世紀にかけて銀生産の全作業が行われていた場所で、現在は緑深い森の中に坑道跡や精錬所跡、寺社などが残ります。最盛期には1万3000軒もの住居が並び、約20万人がここで暮らしていました。柵内への入口にあたる銀山橋を渡ります。しばらく進むと「下河原吹屋跡」があります。江戸時代初めの銀精錬跡で、初代奉行大久保長安あるいは2代目奉行竹村丹後の時代の吹屋と推察されます。平成3年に公園整備に伴う発掘中に発見されたもので、鉱石を砕いた要石や建物の礎石などが残されています。

狭い谷間の奥へ奥へと誘う小路をたどって歩きます。樹木の生い茂った谷間の斜面や小路から見上げることのできる山肌が、人工的に手を加えられたような跡も散見されます。通りには焼きだんごやさんもあり一時の休憩も。

龍源寺間歩までの途中に「豊栄神社」があります。慶応3年(1867)までは洞春山長安寺という曹洞宗のお寺で、洞春というのは毛利元就の法号です。永禄4年(1561)に山吹城内に元就が自分の木像を彫って御神体として安置し、元亀2年(1571)には長安寺を建立し、ご神体を移したと伝わります。

川のせせらぎを聞きながら石見銀山柵内を歩いていきます。このあたりは石見銀山石見銀山遺跡の中枢であり、膨大な規模の銀鉱脈をその懐に有した「仙ノ山」を中心とするところ。その文字のどおりの宝の山、銀鉱脈への入口が間歩です。石見銀山の間歩群では。「龍源寺間歩」をはじめ「釜屋間歩」「新切間歩」「大久保間歩」「福神山間歩」「本間歩」「新横相間歩」の7つの間歩が国の史跡として登録されています。このほかにも調査によればその数は大小合わせて900箇所を超える間歩があることが確認されていて、この辺りの地中をのぞくとアリの巣のようだといいます。まさに驚くべき遺構です。自然遊歩道沿いにあるのが「福神山間歩」です。人ひとりがやっと入れるほどの坑道で、入口から斜坑となり、川の下を横切って仙ノ山方面に延びる特殊な構造。この間歩は採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」といわれます。

やがて龍源寺間歩へと至る道のりは、幸いなことに開発の手が及ばなかった静寂幽玄な空間は、時代の流れなど何処吹く風といった様子で、当時の繁栄の面影を静かに語りかけてくれています。

柵内の小路を辿った先にある龍源寺間歩は、代官所直営の間歩「御直山」のひとつです。江戸時代前期の正徳5年(1715)に大久保間歩(870m)に次いで開発され、閉山したのは昭和18年(1943)といわれ230年以上にわたり銀や銅を産出しました。全長600mのうち約三分の一の約157m(新坑道と合わせると273m)が一般公開されています。永久・大久保・新切・新横相の間歩とともに5ヵ山と呼ばれていました。周辺に見られるシダはヘビノネゴザというオシダ科のシダで、貴金属を好む性質を持ち、金銀山発見の手掛かりになったといいますよ。坑口は落盤を防ぐため四ツ留と呼ばれる方法で坑木を組んでいます。

この坑道は東西に延びる鉱脈を狙って南北方向から坑道を掘削する構造をもっています。坑内の壁には左右に堀り進んだ20余りのひ押し掘り(鉱脈に沿って掘り進んだ横穴)や垂直に100m掘られた排水用の竪杭があったりと、その複雑な全容の一部を垣間見ることができます。それにしても驚かされるのは、間歩の壁一面にびっしりと当時のノミの跡がそのまま残っていることです。ひんやりとした間歩の中、手に触れる手ノミ跡はさらに冷たい。間歩の横幅2尺高さ4尺を、1日5交代で10日で10尺掘ったと伝えられ、さらに採掘を続けていくと「けだえ」といった鉱山特有の病気にかかる人も少なくなかったといいます。薄暗い内部は幅90cm~1.5m、高さ1.6m~2mほどで、かがみながら進む箇所も。入り口と出口は異なり、通り抜けができます。

岩盤の隙間に板のように固まっている鉱物の層(鉱脈)を追って掘り進んだ小さな坑道を「ひおい坑」と言います。

垂直に掘られた坑道を「竪坑」といい、龍源寺間歩に溜まった水を約100m下の永久坑道へ排水したと言われます。

全長600mのうち平成元年に157mのところから通り抜け用に設けられた新しい坑道(栃畑谷新坑)が設けられ観光用に公開されています。新坑には石見銀山絵巻の一部を展示しています。

出口を出てすぐの山の中腹に佇む「佐毘売山神社」は、永享6年(1434)将軍足利義教の命で建立。当時鉱山を領有していた大内氏をはじめ、尼子氏や毛利氏などの戦国大名たちから崇敬されました。全国一の規模の山神社で100段の石段を上った先にあるお社は文政2年(1819)に再建されました。鉱山の神である「金山彦命」を主祭神とし、山神さんと呼ばれて親しまれています。この奥に江戸中期以降に開発され、良鉱石を多く産出した「新横相間歩」があります。ここからの道中にはいくつかの間歩があるので周りを見渡しながら歩きます。

龍源寺間歩から北にわずか100m、川を渡った旧極楽寺境内にあるのが「吉岡出雲墓」。大久保長安の元で代官として銀山の採掘経営にあたり功績を上げた吉岡隼人の墓です。慶長6年(1601)将軍徳川家康に拝謁した際に「出雲」の称号を賜り、同時に拝領した「銀杏葉雪輪散辻ヶ花染丁子紋道服」は国の重要文化財として東京国立博物館に収蔵されています。

新切間歩」を覗きます。幕府代官所直営の間歩「御直山」のひとつで、正徳5年(1715)代官鈴木八右衛門の時に開発し、最初疎水坑(水抜き坑)として掘られましたが、享保年間(1716~36)に鉱脈にあたり盛山になりました。江戸時代後期には坑口から520mまで掘り進んでいましたがその後休山となりました、銀山の間歩の中では最も大森の町に近く、標高も低い場所にありました。現在中に入ることはできませんが、常時出水していることからも水抜き坑であったことがわかります。

さらに歩くと銀山開発にかかわった領主や代官らの信仰を集めた真言宗のお寺「清水(せいすい)寺」があります。推古天皇の時代の創建とのことです。

少し遊歩道から奥まったところに「清水谷精錬所跡」があります。石見銀山遺跡の中で最も新しい遺跡で、大部分の銀が採り尽くされた後の明治27年(1894)に起工し、翌1895年に大阪の藤田組によって完成しました。しかしながら鉱石の品質が予想以上に悪く、また設備の能力不足もあり明治29年(1896)の開始からわずか1年半で閉鎖、当時のお金で約20万円の巨費を投じ、最先端の技術を駆使して造られた大型精錬所の遺跡です。現在は高さ33m、幅100m。8段の壮大な石垣など基礎部分が残っていてさながら城跡のようです。苔むした石垣が時の流れを感じさせてくれます。

最後に銀山川遊歩道の出入り口近くの「大久保石見守墓」を訪れます。慶長6年(1601)に徳川家康から任命され、石見国の初代奉行として卓越した知識と経営手腕を発揮し、石見銀山で最大規模を誇る大久保間歩を開発し、シルバーラッシュをもたらした大久保石見守長安の逆修墓。大久保長安が自分の名から二文字とって慶長10年(1605)に建立した正覚山大安寺跡にある墓所です。

ここからはさらに歩いて江戸時代の風情が残る銀山のまち「大森地区」の町並みめぐりになります。大森地区は、北は石見銀山資料館から南は羅漢寺が立つ要害山の麓付近までで、銀山川に沿うように建てられた家々が緩やかなカーブを描きながら建ち、町にはおっとりとした和やかな空気が漂っています。山の中ですが、かつて代官所が置かれた陣屋町は、17世紀から19世紀半ばにかけて石見銀山の政治経済の中心地となった場所で、銀山川に沿う約800mの町並みに代官所跡、地役人旧宅、武家屋敷、銀山運営に関する建物が並び、一帯は島根県で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町内で唯一の高台である観世音寺の境内からは大森の町並みを一望することができ、谷間に細く続く赤褐色の石州瓦の屋根の連なりはそれだけで絵になります。

まるでタイムスリップしたかのようと紹介されることの多い大森の町並みには、、三十数軒のお店があり、それぞれに銀山町としての雰囲気にあった店構えや商品、料理などで訪れる人々を楽しませてくれます。銀細工の店やブリキ店、骨董品店、布細工、蕎麦屋、茶屋、ブティック、クラフトショップ、パン屋など多彩で、まさに鄙のにぎわいといった様子です。そしてそのどれもが一見古くはあるけれど、それぞれが清々しく美しい佇まいをもって町並みに溶け込み、銀山川の清流や周囲の山々の美しさをもすぐ間近に楽しむことができます。

幕府が直轄で政を行なっていたという陣屋町「大森」。その町並みにはなぜか庶民的な建物が多く、町家と武家屋敷が混在している日本でも珍しい場所です。谷間などの地形的な条件もあり、人々は限られた場所で暮らしていたためこの町は武家屋敷と町家が混在し、武士と町民が身分を越えた付き合いがあったといわれていますが、旧河島家熊谷家住宅などを訪ねてみるとそれがもっともわかりやすく表れているといいます。武家と町家の違いは通りに面しているか奥にあるか、あるいは堀や式台があるかないかというだけです。通り土間があり、片側に座敷があるという造りはとても似ています。

寛政12年(1800)大森の町並みを焼いた大火の翌年、淳和元年(1801)に再建された熊谷家住宅は、江戸時代に石見銀山で鉱山を経営し、その後代官所の御用達を務めるなど、当時最も有力だった商人・熊谷家の屋敷。大森地区最大規模の商家建築で、白い漆喰塗りの土塀に囲まれた約500坪の敷地に、主屋や納屋、五つの土蔵が立ちます。その屋敷構えだけでなく季節に合わせた部屋の設えも美しく、和の心が息ずく生活が感じられます。

大森代官所に務めた役人を地役人といい、旧河島家は代々大森の地で地役人を務めたのち、総括役まで昇進した上級武士の家です。武家屋敷の特徴をよく残した造りです。

向かいには明治23年に開設された旧大森区の裁判所で現在は「町並み交流センター」になっています。館内には法廷が一部復元されています。

江戸時代には代官所があったところに明治35年(1902)に建てられた旧邇摩郡役所を利用しているのが、見事な瓦屋根が印象的な「石見銀山資料館」。文献資料や県内外の鉱石などを展示。廊下の壁には石見と佐渡の無名異(酸化鉄を含む赤土)を使った土壁を使用しています。写真の門長屋は代官所時代の文化12年(1815)に建てられたもので当時の面影が漂います。ここまでくればあとは「大森代官所跡バス停」から世界遺産センターまでシャトルバスで戻ります。

時代は新大陸を発見したコロンブスやバスコ・ダ・ガマで有名な大航海時代に突入していました。来日したフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスの書簡には石見銀山についての記事が残り、文禄4年(1595)にポルトガル宣教師テイセラが制作し、ベルギーのアントワープで印刷された『ティセラ日本図』には、「Hivami(石見)Argentifodinae(銀鉱山)」の文字が記され、銀の産地として世界中に石見の名が知られていました。銀を運び出した港町は良質な湯が出る温泉郷でした温泉津で身体を癒したいものです。

 

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