飛鳥時代に始まる薬草の里「宇陀松山」は大和の小さな城下町

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飛鳥時代から「阿騎野」と呼ばれ、宮廷の狩場だった大宇陀。戦国時代「宇陀三将」と称された秋山氏が城を築き、江戸時代初期には、宇陀松山城とその麓に栄えた城下町がありました。宇陀松山地区の始まりであり、以後元元年(1615)に宇陀松山城が壊されると宇陀松山藩や天領時代など歴史のうねりのなかで変遷を繰り返し、城下町は商家町へと変化し、伝統の薬草を生かした製薬業によって栄えていきます。それぞれの時代の影響を受けながら、まち並みを形成してきた小さな城下町「宇陀松山」を歩きます。

奈良県北東部に広がる大和高原には、飛鳥~奈良時代に都が置かれた大和国(奈良県)と、伊勢神宮がある伊勢国(三重県)を結ぶ伊勢街道が通っていました。『日本書紀』によると、大和高原に位置する菟田野(現在の宇陀市大宇陀)で、飛鳥時代の推古19年(611)に薬猟が行われた。薬猟とは男性が鹿の角を取り、女性が薬草を摘む宮廷行事を指し、この故事から宇陀市は「薬草の里」と呼ばれています。

大宇陀は古くから吉野、伊勢と京都、大和を結ぶ大和南部の交通の要衡で、すでに南北朝時代に宇陀松山城の城下町として栄えていたといいます。別名秋山城の名を持つ「宇陀松山城」は宇陀に勢力を持つ「宇陀三将」の一人秋山氏の本城として築かれ、大宇陀の市街地の東側にそびえる「古城山」一帯に存在していました。

天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は伊賀に追放され、豊臣系家臣の居城となり、大和郡山城と高取城の三城体制で豊臣政権が大和国を支配していたと思われる。関ヶ原合戦の後には福島正則の弟福島掃部頭孝治がが入城した。城と城下はこれらの大名によって大改修され、名を「松山」と改められこの時の城下町形態が現在の町並みの骨格になっているようである。

元和元年(1615)福島掃部頭孝治の改易後は織田信雄(信長次男)・高長・長頼・信武の四代80年にわたり織田松山藩として栄えたが「宇陀崩れ」による元禄8年(1695)丹州柏原へ移封される。その間、町は徐々に城下町から商家町としての色を濃くしていきます。宇陀崩れとは江戸時代中期の元禄7年(1694)に4代信武の代に宇陀松山藩で起こったお家騒動で、これにより後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原藩2万石に厳封のうえ国替えになり宇陀松山藩は廃藩になりました。

町めぐりは、バス停があり、情報収集が出来て車も停めれる道の駅「宇陀路大宇多」からが便利です。道の駅「宇陀路大宇多」阿騎野宿は国道166号と370号の交わる位置にあり、宿場町をイメージしたドライブイン的な要素を兼ね備えた施設で、ここで「宇陀松山」の地図をいただく。

宇陀松山はいかにも大和らしい城下町と言え、深閑とした山あいにひっそりと軒を連ねる古びた町並みです。重く波打つ瓦屋根、黒漆喰の壁、堅牢な格子に虫籠窓と、構えは重厚で町並みも観光的な派手さはほとんどありません。そんな時代に取り残されたように感じる大宇陀松山地区が2006年7月5日に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。宇多川を外堀として、西口関門から春日門に至る東西の街路が大手筋でそれに交わる2本の南北街路を骨組として町場が発展、江戸時代になって「宇陀千軒」と呼ばれる活況を呈しますが、現存する約200軒の伝統的な建物は、油屋、医者、豆腐屋、煙草屋、薬屋、紙屋、酒屋などで、町屋が歴史を語り町並みを形作っています。

町めぐりは道の駅「宇陀路大宇多」から宇多川を渡り、元禄15年(1702)創業の酒蔵「久保本家酒造」そして古い木看板が目を引く「森野吉野葛本舗」へと上町通り沿いに歩いていく。“吉野葛”の名はつとに有名ですが実は創業400年のここが本家本元。大宇陀は良質の地下水に恵まれ、冬の寒さも厳しいため、酒造りとともに葛の製造が古くから行われていました。和菓子などの高級材料として珍重される葛は、元来薬として栽培されたのが始まりでした。

江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗は薬草を国産化する政策を推進。これにともない享保14年(1729)、葛粉を作り始めて11代目の森野通貞(通称は藤助・号は賽郭)が、自宅の裏山に開いた「小石川植物園」と並ぶ現存する日本最古の私設薬草園が隣接する「森野旧薬園」で、現在では約250種もの薬早木が育つ。植物学者・牧野富太郎(2023年NHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデル)が訪れ、森野家との親交を伝える資料を所蔵します。

大宇陀は薬の町としても発展し、森野旧薬園と同様に、ひときわ存在感のある代表的な建物が「薬の館」で、江戸時代末期の薬問屋・旧細川家住宅です。軒には「天壽丸」の文字が目を引く銅板葺唐破風附看板が残り、館内には古の看板や薬袋などが展示されていて薬問屋・細川家の栄華を今に伝えています。細川家は、幕末のペリー来航を機に多額の供出金を出し、商人としては異例の名字帯刀を許された豪商でした。細川家出身の友吉は明治15年(1882)に藤沢家の養子となり、藤沢薬品工業株式会社を創設。これが現在のアステラス製薬株式会社に至る。

この先を右に曲がると春日神社で春日門跡の石垣が残り、城郭の一部であったことが伺える。城は東側の山裾に建っていたが、今日見れるのは石垣のみで、信雄の頃にはすでに城はなかったともいわれます。

ここから宇陀松山城跡までは登り坂となった杉林の中を進む。道の周囲は崩落防止用の土嚢が左右に積んである。

北側から回り込んだ登城ルートを進むと最初に郭は見え、東に少し上ると、すぐに広大な本丸が見え、その先には3,4m程度高くなった天守郭が控える。 調査跡のブルーシートや、周辺の伐採した跡が残り、整備は完了していないようでしたが、天守郭から宇陀の市街地や遠く二上山や大峰連山を眺める景色はここまで登ってきた甲斐がありました。

元の上町通りに戻り大手筋の鍵形に折れ曲がった路を通り「松山西口関門」へ。松山西口関門は大宇陀の中心部の松山地区に南北朝時代以来の宇陀松山城があったその名残を留める唯一の遺構です。福島掃部頭孝治が松山城を居城とした江戸初期に建築された、本瓦葺き切妻屋根の簡素な門です。城下への入口としてあった門で、壁以外の柱や扉が黒く塗られていたことから「黒門」といわれます。門から町への道は、敵に襲撃を防ぐため鍵形に折れ曲がっているのがわかります。

黒門近くの街角には、伊勢への道しるべが残ります。かつてここはお伊勢参り、吉野山への中継地でもありました。ちょっと休憩を兼ねて松山西口関門から宇田川を渡り国道166号沿いにある先ほどの「森野吉野葛本舗」の経営する「葛の館茶房・葛味庵」に立ち寄ります。2002年11月、森野吉野葛本舗西山工場『葛の館』内に併設されたお店です。

昔ながらの手作業で行われる葛作りは、11月~3月の間の寒ざらしで攪拌と沈殿を何度も繰り返して“白いダイヤ”と称される本葛粉に仕上げます。ここ葛味庵では、注文を受けてから作る、作りたての「葛きり」770円「葛もち」660円がいただけます。「葛きり」は風味、下触り、食感、どれも清冽で特性黒蜜でいただくも飽きがこない素晴らしい味でした。

2023年2月23日に再訪した際には、賞味期限3分の表示に興味をもち、生珈琲葛饅頭をいただきました。

道の駅「宇陀路大宇多」まで徒歩1時間ほどで戻ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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