万葉の時代「蒲生野」と呼ばれた湖東平野の中央、かつて聖徳太子が祈りを捧げ、最澄が社殿を建立した霊山・赤神山(太郎坊山)があります。標高360m足らずの小さな山ですが、くっきりとした二等辺三角形を描く稜線、山肌のあちこちに露出した巨大な岩と緑深い木々・・・そのすべてが神の宿る特別な場であることを示しているように思え、近江の人々が崇拝してきた「神宿る霊山」です。岩肌も露に霊験あらたかな巨岩が散らばる赤神山を御神体とする「太郎坊・阿賀神社(通称 太郎坊宮)」は「勝運の神様」。白洲正子も訪れた聖徳太子の創建と伝わるかくれ里石の寺「教林坊」とともに勝利と幸福の聖地を訪ねます。
聖徳太子が国家安泰を祈願し、伝教大師最澄は、その神徳に感銘して深く帰依し、50余りの社殿・社坊を建立しました。「太郎坊」とは、同社を守護する天狗の名前だと伝わり、京都鞍馬の次郎天狗の兄といわれる日本の大天狗です。全国に伝説が残る神秘の存在であるその天狗は、最澄が社殿を建てようとした際、山奥から現れて手助けをしたといいます。
神道の神々は、しばしば岩石や巨木を依代として降臨すると信じられています。中でも、この太郎坊宮は、その鎮座地である赤神山そのものを霊山とする神体山信仰・磐境信仰発祥の地ともいわれ、標高350mの赤神山には多数の行者が集まり修験道も盛んになったことから、神道、修験道、天台宗が相混ざった形態で信仰されてきました。山の中腹の社殿は遠くから見ると空に浮かんでいるようでもあり、岩山にしがみつくように建ち、より神秘性を高めています。写真は二の鳥居から赤神山を望む。
一息つくたびに様々なお参り所があり、由来をみるのが面白い。参拝するには二つの道があり、近江鉄道・太郎坊宮駅から国道8号線、友定交差点を渡り「あの山が目的地だ」と正面山麓から殆どまっすぐに742段の急な石段を登り本殿の達するものと、正面山麓で右に通じているドライブウェーを通って参集殿下の駐車場に着く道です。延暦18年(799)最澄創建の赤神山成願寺横の太郎坊宮駐車場に車を停めるとそこから本殿まで742段、参集殿下の駐車場まで491段です。
成願寺本殿横の参道から本格的に急な石段になります。両側には奉納された燈籠、石柱が並びます。
修験道の霊山の趣を残す参道を登っていきます。途中に置かれた不上石は、明治の頃まで、参拝の日に肉や魚を食したものは、ここまでしか登ることができないという結界を表すものでした。
491段登った先、山上駐車場が正面に朱色の社の祈祷殿・授与所があります。車のお祓いや本殿登拝が難しい方がここで御祈祷が受けられます。
授与所の傍らには室町時代の連歌師・宗祇の句碑があります。「三日月の 頃より待ちし 今宵かな」の句は宗祇が故郷を訪ねた後太郎坊宮に参詣した折に詠んだ句です。宗祇法師は近江国守護代伊庭氏の出自で本拠地は東近江市伊庭です。
この駐車場から石段を登って、参集殿を通り本殿に上る道を表参道、絵馬殿を通り抜けて少し迂回しながら石段を登って本殿に上る道を裏参道といいます。
先ずは表参道から登っていきます。心臓破りの階段に始まり、本殿までのきつい石段は運動不足の解消になります。途中には愛宕社や稲荷社、など道々にいろんな神様が祀られています。
高さ数十m、長さ12mほどの巨石には太郎坊という天狗が棲んでいたといいます。
本殿前に高く聳え立つ2つの巨石は昔から「夫婦岩」といわれています。別名「近江の高天原」とも唱えられ、その昔大神の神力によって巨岩が左右に押し開かれて本殿にお鎮まりになったと伝えられています。
夫婦岩は、高さ数十m、長さ12mほどの巨岩が正に引き裂かれるような形。二つの岩の間の空間は幅約80cmしかなく、その隙間を通っての参拝は、即座に病苦を払い諸願を成就させてくれる一方で、ウソつきが通ると岩に挟まれるとの言い伝えがあります。ローマの有名な「真実の口」より、ずっと迫力がありますし、独特の霊気を感じさせます。両側から岩がぐぐっと迫ってきそうで、自然に神様に「どうか無事に通らせて下さい」と祈らずにはいられません。
本殿には天照大神の第一皇子神である、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を主祭神として祀り、約1400年前に創建された神社です。最初に天降りの命を下された程の寵愛を受け、いつも脇に抱えて大切にされた子であるということから、当地名が小脇と名付けられたといいます。勝利を象徴する意味がその名に込められているご神名から知られるように「まさに勝った、私は勝った。朝日が昇るように鮮やかに、速やかに勝利を得た」「吾れ勝ち負ける事が無い。なお勝つ事の速い事、日の昇るが如し」で、どんな事にも勝つという「勝運福授」の御利益は宗派を超えて多くの参詣を集めています。女子レスリング五輪金メダリストの吉田沙保里さんのユニフォームの袖にも太郎坊宮の「勝」のお守りがまかれていたとのことです。
本殿前の舞台からは、旧八日市市街や鈴鹿山脈をはじめ、甲賀遠くは奈良県の山々まで望むことができます。
帰りは裏参道を下ります。本殿横から石段を下っていく途中には、京都の地主神社や七福神の石像等が並んでいます。
もともと、太郎坊宮は山岳信仰の聖地。修験者が籠った洞窟なども遺されています。また裏参道の中程にあるのが「一願成就社」で、病気平癒や受験合格等の願掛けができます。
社の裏手には、比叡山や琵琶湖を望む万葉集にも詠われた蒲生野の美しい田園風景が見渡せる往復100mほどのお百度道も整備されています。太郎坊や役の行者の石像が見守っています。
写真は裏参道の入口んぽ鳥居です。大黒様が傍らに佇んでいます。
さらに下っていくと絵馬殿に到着します。写真は絵馬殿前にある手水舎で天狗の口から水が出る趣向です。
休憩場所はカフェとばかりにバームクーヘンでお馴染みのたねや「クラブハリエ 八日市の社」へ。森のように木が茂る「若松天神社」の境内にあり、木に覆われているので見落としてしまいそうです。お店の入口もウッディな感じで、村の鎮守の社の境内に包まれ、静かで清らかな空気が漂っています。
この店だけのショコラバームは外せないと店内のカフェへ。カウンターで先に注文して会計をすませてしまいます。入口には炎のオブジェ、カフェはシックで落ち着いた雰囲気になっていて中央に大きなテーブル、その周りに一人~二人用のソファ席や四人掛けや六人掛けのテーブル席など幅広くそろっています。
注文したのは八日市の社限定のショコラバームとドリンクがセットになった「焼き立てショコラバームセット1100円」。お皿にチョコレートソースがたっぷりと敷かれその上に焼き立てショコラバームと生クリームが載っています。生クリームとチョコレートソースをたっぷりつけていただきます。ショコラバームが焼き立てなのでふんわりとしてオイシイ。席で仕上げてくれるスペシャルなデザート「デセールショコラバーム1800円」とコーヒー500円も楽しいメニューです。
窓から見える木々を見ながら休日の昼さがり静かな時間を落ち着いてのんびりとすごせます。
因みに予約制ですが「シェフズカウンター」といってチョコレートシェフのデザートコースが目の前でいただけます。
八日市を後にして国道8号を越えた近江商人発祥の地、五個荘近く、観音寺山、別名繖(きぬがさ)山の山裾、うっそうと茂る竹林を縫う石段を上った傾斜地に佇む名勝 石の寺「教林坊」があります。観音寺山上にある西国三十三所32番札所・観音正寺の30以上を数えた子院の中で唯一現存する末寺です。推古13年(605)に聖徳太子によって創建されたと伝わり、寺名の教林とは、太子が林の中で教えを説かれたことに由来し、境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩とご本尊を祀る霊窟が残されていることから別名「石の寺」と呼ばれています。ご詠歌には「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」と詠われ、困難な願い事も再度詣でれば叶うと信仰を集めてきました。
総門をくぐり左手に少し荒れた普陀落の庭を過ぎ、経堂の横からいきなり山へとつづく急勾配上っていきます。ご住職が荒れ放題だった寺を独りコツコツと手入れされています。
この庭は古墳を利用して造られていて、石室の巨大な蓋石をそのまま庭石に使っているのに不自然はありません。「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩やご本尊を祀る霊窟が据えられているのにも納得してしまいます。本尊は太子自作の石仏で、子宝を授かった村娘の難産を助けたという安産守護の言い伝えがあり、その時傍らの小川が安産の血で赤く染まったことから「赤川観音」と呼ばれています。
本堂でお参りして右手に順の流れていくと書院に着きます。カエデに包まれた風雅な葦葺き書院は、里坊建築の古様式を伝える江戸時代前期の貴重な建物です。木々に覆われた書院の入口はどこか京風の庵の佇まいを見せて風雅さを漂わせています。
書院の西面から眺めた庭園は、白州正子の著書「かくれ里」石の寺で、~ここで私の興味をひいたのは慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり~日本の造園のおいたちを見せられたような気がする~と紹介されている小堀遠州作と伝わる庭で、枯れ滝・鶴島・亀島など苔生した庭石、巨石を用いて豪快に表現された桃山様式を象徴する池泉回遊式庭園です。
特に床の間を作らず、独立した付書院からの眺めを四季折々の山水掛軸に見たてて見る庭園を「掛軸庭園」と呼び、室町時代の初期書院の名残を感じます。
回遊庭園ですのでしっかり見て回って出口に向かいます。
お昼時ということで国道8号線沿いのお店・近江ちゃんぽん「ちゃんぽん亭」にはいります。ちゃんぽんといえば長崎ちゃんぽんですが、実は日本各地にご当地ちゃんぽんがあり近江ちゃんぽんもそのひとつです。滋賀県民のソウルフード近江ちゃんぽんは「ちゃんぽん亭」の全身「麺類をかべ」で誕生しました。特徴は白濁した豚骨でも鳥ガラでもなく、京風だしをアレンジした和風醤油味、具が定番の海鮮はなく豚肉と野菜だけです。麺も唐灰汁を使ったちゃんぽん麺ではなくかんすいを使った中華麺を使っています。それを中華鍋で炒めるのではなく手鍋で煮込んだ近江ちゃんぽんは一種の野菜ラーメンです。どちらかというと天理ラーメンに近いです。
東近江ドライブの最後は「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社「多賀大社」に詣でます。日本の神社の中心といえば、天照大御神を祀る伊勢神宮の皇大神宮(内宮)ですが、滋賀県の北東部に鎮座する多賀大社は、天照大御神の「親神」を祀る神社です。ご祭神の伊邪那岐命、伊邪那美命は、この国で初めての夫婦で、天照大神をはじめとする神々と、日本の国土や人間などあらゆる生命を生んだと『古事記』に記されています。
生命の源となった神を祀ることから延命長寿、縁結びの神として信仰を集め、昔から「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」とか「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」という俗謡にもあるように、関西はもちろん東海地方、そして全国から今も参拝客が訪れています。2柱はやがて多賀の地に降り立ち伊邪那岐命のお鎮まりになった地は「古事記」と「日本書紀」では異なっていますが、「古事記」は「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と伝わり、その神話がつまり近江の「多賀大社」の起源となっています。重厚な明神形の石鳥居、社標、狛犬が参拝者を出迎えてくれます。
武田信玄や豊臣秀吉など多くの戦国武将から信仰を集め、天下人・豊臣秀吉が生母・大政所の病気平癒を祈願して一万石を奉納しました。それをもとに造られたと伝わるのが、太閤橋や太閤蔵、多賀大社庭園などです。
鳥居をくぐって現れる迫力ある急な傾斜の太閤橋は、大鳥居と神門前の間を流れる車戸川に架かり、天正16年(1588)建造、寛永15年(1638)再築で、現在でも神事「古例大祭時」の神輿が渡ります。
大きな社らしい風格のある御神門をくぐると、目の前に檜皮葺の荘厳な社殿が現れます。
玉砂利を敷いた境内の向こうによく繁った木立を背に堂々とした風格を持つ三間社流造の本殿が建ちます。厳かな境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿は建っています。また広い境内には多くの摂社、末社があり、多賀大社を崇敬した豊臣秀吉ゆかりの建造物も点在しています。それらをめぐって豊かな緑の中を歩いていると、延命長寿のご利益か、気力が溢れてくるような気ががしました。
東回廊の横には、延命長寿を願う人々が名前を記した白石を供える寿命石。平安の昔、東大寺の再建を命ぜられた俊乗坊重源は多賀大社に参詣、二十年の寿命を授かったとされ、見事東大寺再建を成し遂げ報恩謝徳のため参詣し境内の石に座り込むと眠るように亡くなったという由緒を伝える石です。また神楽殿には大きなお多賀杓子が立て掛けられています。養老年間(717~724年)元正天皇が病の際にシデの木で作った杓子を神供の米に添えて献上したところ、たちまち回復したという故事もあり、お多賀杓子は無病長寿の杓子として古くから親しまれ、その形状から「おたまじゃくし」の語源となったとも伝えられているとのこと。多賀大社のシンボル“杓子”の形をした絵馬など見所満載です。
境内にはお多賀さんの孫神様である摂社「金咲稲荷社」もあります。いかにも金運が上がるご加護がありそうです。
門前の食事処や土産物店が軒を連ねる表参道の絵馬通り、古くは中山道と多賀大社を結ぶ参詣路として賑わいました。絵馬通りに並ぶ店や家には「笑門」と書かれた絵馬が飾られています。正面の大きなお多賀杓子が目印の「多賀や」さんは、多賀土産として参拝客に親しまれている糸切餅の老舗。かわいい赤と青の三本線が目印の糸切餅はきめこまやかでほどよい甘みの自家製あんと、弾力のある米粉の餅との相性が抜群です。
糸切餅と近江牛コロッケを食べて帰ります。