“小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ”と島崎藤村が謳い、全国的にも名高い「懐古園」は、「白鶴城」「酔月城」とも呼ばれる信州小諸駅の南東に位置する小諸城の跡地です。城としては珍しく、城下町よりも低い場所に立ち穴城と呼ばれています。桜で有名ですが、紅葉の時期も美しく、モミジやイチョウ、ケヤキなどが赤や黄に染まり、苔むした野面積みの石垣に映えます。秋晴れの一日、ゆっくり散策を楽しんでみて下さい。
「日本100名城」や「日本さくら名所100選」に選定されている懐古園では、毎年10月下旬から11月中旬にかけて「小諸城址懐古園紅葉まつり」が開催されています。馬場のコモロヤエベニシダレザクラは有名ですが、風情ある秋の紅葉も美しく、静かな公園内をゆっくりと散策しつつ、歴史をしのびながら深まる秋を味わうことができます。
小諸城は戦国時代の長享元年(1487)、大井光忠により築城され、その後武田信玄の東信州経営のために山本勘助によって現在の城郭の元になった縄張りに改修されました。安土桃山時代から江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修され、現在のような構えになったのは、仙石久秀の改修によるものです。城下町より低い穴城は全国的にも珍しく、水にない空堀と自然石を積んだ野面積みの石垣が特徴。明治初期に神社を祀って「懐古園」となっています。
郭は本丸、二の丸、北の丸、南の丸、三の丸からなり、小諸駅を降りると、そこはすでに城の中。駅の東側、三の丸跡には城の玄関口「大手門」があります。慶長17年(1612)に仙石秀久により築かれ、五間櫓門、入母屋造、本瓦葺で、小諸城としてはこちらが正門です。本丸から数えて4番目の門であることから「四の門」とも呼ばれていました。
大手門を見てから小諸駅の連絡橋を渡り、坂を下った先にあるのが、懐古園の正門にして象徴な「三の門」です。元和元年(1615)創建、寛保2年(1742)に起きた「戌の満水」と呼ばれる大水害に寄って破損し、明和2年(1765)に再建されたもので、三間櫓門、寄棟造、桟瓦葺。三の門は国の重要文化財で、自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣と一体になってそびえ立ちさらなる迫力を与えています。そして威風堂々としながらも、どこか哀愁漂う雰囲気を醸し、その上の塀には、弓矢や鉄砲を撃つための矢狭間・鉄砲狭間が設けられ、戦国時代を生きた門の特徴を残しています。三の門に掲げられた「懐古園」の扁額は、徳川16代当主家達(いえさと)によるものです。三の門から城内を望むと、ゆるやかに傾斜していて穴城と呼ばれる不思議な構造が実感できますよ。
三の門料金所から進むと、右手に二の丸跡の石垣、クランクしてさらに進めば、左手前方に南丸跡の石垣、右に北の丸跡に挟まれたりと城内は枡形を多用し、要所要所には橋や櫓、門を構えるなど、敵の侵入に備えた造りです。建物は残っていませんが、復元されたものを含め苔むした立派な石垣とモミジの赤が迎えてくれます。その先をまっすぐ進み紅葉谷に架かる黒門橋を渡ると本丸です。
三の門料金所から二股を左手に進み、そば屋の“古城軒”の裏手を進むと南谷と呼ばれる空堀に一筋の道があり途中で進入禁止になりますが、空堀の両側から迫る紅葉が見事です。
歴史好きにはたまらないのが、関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠率いる徳川軍が本陣を置いたとされる場所の「二の丸跡」です。上田城攻略のため真田親子に足止めされてここに逗留しました。三方石垣に囲まれた番所跡には色鮮やかなモミジあります。ここからは北東方向に浅間山、北西方向に遠くアルプス山脈が眺めることができる眺望のよい高台になっています。赤い紅葉の間から眺める青い空に向かって聳える雄大な浅間山は格別です。
「南丸」の高さ約3mの石垣は、戦国時代の特徴的な野面石積みですが、ほぼ垂直に築かれ、敵を寄せつけない気迫が感じられます。南丸跡に上ればそこは一面、赤や黄色のモミジに覆われ、地面は錦の絨毯に覆われています。
北に浅間山を控える小諸の地には浅間山の火山灰地が浸食された深い谷が幾筋も走り、11の丘と12の谷からなる天然の要害に背後の谷筋を空堀に見立てて城後方の守りとした後ろ堅固の城です。本丸と二の丸を隔てる空堀・紅葉谷は、小諸城内で数少ない人工の横谷です。ここにかかる橋が、かつて黒門(一の門)があったとされる場所にある「黒門橋」です。橋の袂には稲荷神社があり、この橋を渡った左手が本丸跡になります。橋の正面に見える本丸跡の石垣は苔むして古風でかっこよく、紅葉谷の赤によく映えます。
黒門橋が架かる空堀は「紅葉谷」と呼ばれています。園内にはモミジ・カエデ類が400本ほどあるといわれていますが、その大半がここ紅葉谷に植えられているかのように、堀一面が赤と黄色と橙と絵の具箱をひっくり返したような華やかさに包まれます。山にいかなくても、町なかで美しい紅葉の谷に出会えるとは感動です。
突きあたりから左は本丸跡で苔むした野面積みの石垣が見事に残っていて往時が偲ばれます。
自然石の石垣が珍しい本丸跡に、現在は懐古神社が祀られています。旧小諸藩の藩士により同藩を治めた牧野氏の歴代藩主の霊を城内の鎮守神として明治13年(1880)建立されました。小さな池にモミジの木が映り込み、散りモミジが浮かんでより一層鮮やかな紅葉になっていますよ。
懐古神社が坐し、背後には天守台の石垣が囲んでいます。天守台には三層の天守閣があったとされています。天守台の西側は馬場で春ともなれば「日本さくら名所100選」にも選ばれている見事な桜の名所になります。
本丸は約6mの石垣で囲まれていて、特に本丸北西方向にせり出し、他の石垣よりひときわ大きな野面積みの石垣で築かれた場所が、天守(天守台)です。この天守台には3層の天守閣があったと伝わりますが、寛永3年(1626)の落雷で焼失したといわれますが真相は不明です。仰ぎ見れば、約400年の時を経た石垣は苔生し、綺麗に角が整った野面積みの石垣に圧倒されます。
突きあたりを右に行けば、ひと際紅葉が鮮やかな紅葉ヶ丘が目に飛び込んできます。園内で一番もみじが密集して生えていて、苔むした石垣とともに訪れる人を魅了しているのが、その名の通りの「紅葉(モミジ)ヶ丘」です。日当たりが場所によって違うので、モミジが赤、橙、緑と色彩が鮮やかで見応えがありますよ。
その先には島崎藤村の胸像が控える懐古園の雰囲気によく合った、簡素ながら格調高い建物があります。東宮御所や東京国立博物館東洋館を手掛けた建築家・谷口吉郎による和風建築・藤村記念館です。明治の文豪・島崎藤村は、恩師である木村熊二に小諸義塾の国語と英語の教師として招かれ、27才からの明治32年(1899)から6年間を最初の妻フユを伴って小諸で過ごしたのです。島崎藤村の小諸時代の活動ぶりが偲ばれる作品、遺墨、遺品を多数展示しています。
“酔月橋”は、小山敬三美術館前・第2駐車場近くの酔月料金所から懐古園に入る道にある橋で、地獄谷と呼ばれる深い空堀に架かっています。秋になると深い地獄谷も見事な紅葉で天国のような極彩色に彩られます。そんな絵画のような景色が第一駐車場の奥から眺めることができます。駐車場からは見ると紅葉の中に浮橋のように空堀にかかっています。『千曲川旅情のうた』『千曲川のスケッチ』など何篇かの作品を生み出し、後の人生にも大きな影響を与えたという。
懐古園の一番奥、水の手門があったとされる場所にあるのが、檜傘のような屋根が目印の「水の手展望台」です。文豪・島崎藤村自筆の文字が刻まれた「千曲川旅情のうた」の歌碑から階段を上ります。また名曲「上を向いて歩こう」という歌の歌詞は、永六輔さんが戦時中に小諸に疎開に来て、疎開先でいじめられて、懐古園を一人歩いていたときのおもいを詩にしたものです。
ここは千曲川の流れが見渡せるビューポイントです。ここから見る千曲川の両河岸から迫る河岸段丘を覆う紅葉は、とうとうと流れる千曲川の青い水の流れを一層鮮やかにしてくれています。
駅の近くには「停車場ガーデン」があり、あったかいコーヒーが飲めます。
