
飯森城跡は大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯森山(標高314m)の山頂に築かれた戦国時代末期の山城跡です。東西約400m、南北約700mの城域には大小114もの曲輪や堀切、土塁などがあり、西日本日本有数の規模を誇ります。永禄3年(1560)、織田信長に先駆ける最初の天下人と評価されている三好長慶が、居城を芥川山城からから飯森山城に移して入城した“首都”的な城で、京都と五畿内、四国の一部を支配する三好政権の拠点であるだけでなく、「飯森千句」という歌会を催すなど文化交流の場ともなりました。続日本100名城に選出された織豊系城郭の3要素を取り入れた先駆的な本格的石垣造りの城“飯盛山城”を歩きます。
三好長慶は、元は細川晴元の有力家臣でしたが、室町幕府13代将軍義輝ともども晴元を京都から追放し、三好政権を樹立します。永禄3年(1560)居城を芥川山城から飯森山城に移し、畿内・四国8か国の支配者として君臨したことから、近年織田信長に先駆ける最初の天下人と評価されます。織田信長よりも先んじて鉄砲を戦に導入し、キリスト教を積極的に保護して「河内キリシタン」の繁栄に寄与するなど革新的な人物だったといえます。永禄7年(1564)飯森山城で病死しました。写真はお墓のある堺・南宗寺にある三好長慶像
飯森城は河内と大和との間に国境となる南北に走る生駒山脈の北西支脈に位置している標高314mの飯盛山に築かれた山城です。南北朝時代に楠正行が砦を築いて立て籠もったことに始まりますが、享禄3年(1530)河内守護畠山義尭の家臣・木沢長政により本格的に築城されましたが、三好長慶が太平寺の戦い天文11年(1542)で木沢長政を討ち、永禄3年(1560)飯盛山城を居城と定め、大規模な改修を実施し、現在の城郭になったと思われます。飯森山は北麓に清滝街道、西麓に高野山と京都をつなぐ当時の幹線道路であった東高野街道が通り、また東高野街道の西側には飯森城と堺を結ぶ水路であった深野池・新開地などの湖沼が近くに位置し、飯森山一帯は水陸交通の要衝でした。その後飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に勢力を拡大、当時日本の中心であった京都と五畿内を支配する三好政権の拠点や文化交流の場となりました。城は北エリアと南エリアで機能が分かれていて、北エリアは防御空間、南エリアは居住空間であったと考えられ、調査成果から飯森山城は織田信長によって完成される高石垣や天守を備えた「織豊系城郭」に先行して、石垣・礎石建物・瓦の3つの要素を取り入れた城であったことが明らかになりました。
飯盛山城へは大東市、四条畷市から北東・南西のそれぞれ4コース、計8コースのハイキングコースが設定されていますが、今回は大東市側のJR学研都市線野崎駅から野崎観音を経て、絵日傘(七曲り)コースで飯盛山を目指します。(距離約3.5km、所要時間約80分)先ずは大東市立歴史民俗資料館で、VTRを視聴し見どころを勉強し、資料やMAPをいただいて出発します。
古代より人と物資が行き交う河内の大動脈・東高野街道沿いには多くの社寺があり、中でも野崎観音は、江戸時代より信仰と行楽を兼ねた「野崎まいり」で有名です。野崎観音(福聚山 慈眼寺)は、約1300年前の天平勝宝年間(749~757)に行基菩薩のよって開山された曹洞宗の禅寺です。昭和初期に東海林太郎さんが「のざきまい~りは~、屋形船でまい~ろ♪」と歌われた『野崎小唄』で広く全国に名を知られるようになりました。江戸から明治の頃までは、屋形船に乗って、大坂天満橋の八軒屋浜から寝屋川を遡り、住道浜を経て野崎駅の南・深野池までお参りできたとのことです。
約150段の石段を上ると本堂があります。本堂には、本尊十一面観音菩薩像をお祀りしています。ご本尊は白檀の一木彫りで身の丈は約130cm、一匹の龍が取り巻く台座に上に立ち、半眼の穏やかな表情が眠っているようにも見えることから“居眠り観音”とも呼ばれています。西国霊場三十三ヵ所を決める観音様の集まりに居眠りをして遅刻したため西国霊場に入れてもらえなかったそうです。
三十三所観音堂脇から飯盛山ハイキングコースがスタートします。飯盛山の南西に伸びる尾根に位置する背後の八幡山(標高114.4m)には中世の河内の守護大名・畠山氏内乱の舞台となった野崎城址があり、戦火にあって野崎観音は衰微したといいます。城域は東西約200m、南北約220mを測ります。当時の野崎は、東高野街道の西に広がっていた深野池と八幡山の尾根によって平野部の面積が狭く、山麓の東高野街道を掌握できる軍事的要衝として広く認識されていたとみられます。飯森山城の築城後には飯盛山城の出城となっていたと考えられています。
野崎城址を過ぎれば、ハイキングコースは、絵日傘コース(七曲り)と南尾根コースの分岐点にさしかかりますが、多少登りがきついものの距離の短い絵日傘コース(七曲り)を選択し、辻の新池を経て、大東市立野外活動センターに寄らず野崎城跡に向かいます。
飯森城は中世の山城としては珍しく、石垣が多用された本格的な石垣造りの山城でした。飯盛山は岩山で花崗岩の石材には恵まれていました。石垣は全て自然石を垂直に近い角度で積み上げた野面積み石垣です。石垣は東面と西面に多く、防御・土留めの機能だけでなく、登城道や虎口、深野池から山城をみせつける城主の威光を示した視覚効果を狙ったであろうと考えられています。三好長慶の時代に整備されたものが多い。
飯盛城には、Ⅷ郭(千畳敷郭)の南に東西に大きな石材を使用した石垣で築いた虎口(出入口)が構えられています。飯盛山は東側は深い谷、北側と西側は断崖という天然の要塞でしたが、南側だけは尾根でつながっており防御の劣るため、最南端に強固な虎口を造っています。虎口には複雑な折れなどは見られませんが、石垣の間を通る通路は西側に湾曲していて、直接曲輪を見通せないように工夫されています。虎口の西側に位置するⅨ郭(南丸)と一体となって城の南側を防御したと考えられます。
NHK-FM送信所の建つ曲輪を中心とした3段で構成される千畳敷郭(Ⅷ郭)は、城内最大の平坦地で、居住空間として利用されていて長慶の屋敷があったと考えられています。発掘調査では、建物の礎石や日常生活に使われた土器、茶道具などが発見され、城内には城主や家臣が住んでいたと考えられます。広大な面積の曲輪で構成されていて、石垣が少ないことも特徴です。
南丸(Ⅸ郭)は、城内でも一番南に築かれている城の南側を守るための曲輪です。虎口がある東側には土塁が築かれ、曲輪の南端には櫓が建てられていたと考えられています。
山頂へ向かう南側には堀切が設けられ、そこには土でできた橋(土橋)が設けられています。堀切は敵の侵入を防ぐために設けられた尾根を分断する堀を「掘切」、その中央部を橋状に残したものを「土橋」といいます。土橋は人ひとりが通れるほどの幅になっていて、多くの敵が攻め込むことができいように工夫されています。また、この土橋を切り崩せば敵の侵入を防ぐことができます。Ⅰ郭~Ⅵ郭を中心とした城の北エリアの「防御空間」とⅧ郭千畳敷を中心とした「居住空間」を区切っています。
山頂に構えられたⅠ郭(高櫓郭)Ⅱ郭(本郭)Ⅲ郭を中心とした北エリアは、防御空間として利用されました。東西の支尾根には曲輪群が構えられ、石垣が多く築かれています。Ⅰ郭(高櫓郭)は幅が10m程度と非常に狭く、飯森城址柱と近代に建てられた楠正行の銅像があります。
Ⅱ郭(本郭)には展望台があり近畿自動車が南北に走り、北の門真市から南西の大阪城方面が一望できます。
Ⅲ郭から伸びる北条神社コースの途中、西斜面に築かれてい石垣(No6・9)は、急傾斜地に位置するため北側の一部を段築状として石垣が崩れないように補強しています。城の西側に築かれた数少ない石垣で、山麓などから見える場所に築くことで、城主の威光を示したと考えられます。※北条神社コースはJR四条畷駅から北条神社を経て飯森山山頂を目指す3.5km、約70分コースです。
御体塚郭(Ⅴ郭)は、三好長慶が仮埋葬されたという言い伝えが残る曲輪です。長慶の死後、嗣子の義継が若年であったため2年間喪を秘していました。発掘調査では4m×6mほどの規模の塼(レンガ)列建物跡や特殊な灯明皿なども出土しています。曲輪の中央には露岩があり、磐座信仰との関連が推定され、拝殿や灯明堂がある宗教的な性格を持つ空間である可能性があります。
御体塚郭(Ⅴ郭)の北側には、飯森城跡の中でも最大規模の堀切が構えられています。この堀切によって主尾根は完全に分断されており、尾根伝いの敵の侵入を防いでいます。
北端眺望270°のスポットⅥ郭からの眺めは圧倒的です。比叡山、比良山、京都、大山崎、芥川城跡のある高槻、神戸、大阪平野、晴天時には淡路島の山影まで望め、三好政権の最大勢力範囲そのものの絶景が一望でき、三好長慶が芥川城から居城を移した理由がわかります。『飯森城 拠りて長慶 覇をきそう』
JR四条畷駅に下るハイキングコースはこのままⅥ郭から四条畷神社まで下り、四条畷駅を目指す2km所要時間50分の飯盛山展望コースがメインルートですが、今回は三好長慶時代の登城道ともいわれる、飯盛山の東の谷筋を遡る権現川沿いの滝谷楠水の場コースで四条畷駅を目指します。まずはⅤ郭(御体塚郭)から東斜面の道を通って楠公寺のあるⅩ郭(馬場)に向かいます。
Ⅴ郭(御体塚郭)の北東斜面に築かれた石垣(No18)は、南東側は崩落していますが、当時はⅤ郭の北東から南東斜面を巡っており、権現川沿いの登城道からの視覚的効果を狙ったものと考えられます。
さらに下ると石垣(No14・15)は両石垣の接点が入角となる一連のもので、その上部のハイキング道は帯曲輪と考えられます。
石垣(No1)は、Ⅰ郭(高櫓郭)とⅡ郭(本郭)の東斜面下に築かれていて、長さは約24m、高さは最大で約2.6mを測ります。石垣前面のハイキング道斜面下には石垣(No69)が築かれており、段築状石垣であることがわかります。
Ⅹ郭(馬場)にある楠公寺は楠正行が四条畷の戦いの戦死者を弔うために開山したと伝えられる日蓮宗の寺院です。元は飯森山妙法寺といいましたが、昭和25年(1950)に池田勇人元首相が名付け親となり改称されました。
滝谷楠水の場コースは、楠公寺から一旦広い砂利道を南に進み、桜池尻から権現川に沿って再び往時の登城道を北に向かい、四条畷神社を経てJR四条畷駅までの4.1km所要時間1時間40分の行程です。途中1km先の滝谷楠水の場では水分補給を兼ねてひと息いれます。
さらに300m、10分程歩くとベルトン水車跡があります。讃良の粉箔といわれるほどこの辺りでは、水車を動力として薬種、香料、マンガン等を生産し、米麦を精白していました。『ここかしこ 水車のなごり 権現川 』この先に権現の滝コースと合流します。高さ15mの権現の滝まで片道1km20分ですが今回は見送り、清らかに流れる権現川沿いに先に進みます。
権現川は飯森山麓の人々にとって重要な農業用水であり生命の水でした。この川の水を下流の複数の集落へ公平・確実に分配するために作られたのが分堰です。御机神社の門前付近にそれを伝える「第一分堰」が残されています。
分堰の向かいには龍尾寺があり、川を挟んで向かいには御机神社があります。権現川沿い、御机神社と相対する懸崖上にたつ起雲山龍尾寺は、行基開山と伝えられる古寺院で、龍尾と称するものがあって寺宝とされています。1m余の渦状で、末尾に剣に似たものがあります。寺伝によれば「天平年間、河内国・飯森山の麓が大旱魃にあって里民大いに苦しむ。行基これを憐みて山間に立ち、雨乞いの読経す。一天陰鬱して雲起こり、天より龍が現れ大雨沛然となる。天の許しを得なかった龍は体が裂けてしまいました。為に里民愁眉を開き、翌日野に出れば龍尾の落ちて竹藪に懸れるあり、依って行基これを収めて一庵を創建したりと。」とあります。その後頭が落ちた場所に「龍頭寺」、お腹が落ちた場所に「龍間寺」、そして尾が落ちたこの場所に「龍尾寺」が建てられました。
飯森山の北麓に鎮座する御机神社は、三好長慶が飯森城鎮護の神として厚く信仰した社です。延喜式神名帳に載る古社で、起源は奈良朝時代に鎮座されたものと推測される。。平安時代には「牛頭天王社」と呼ばれ、素戔嗚尊を祭神とし豊作を祈る水神信仰の社として祀られました。
ここからは住宅街を通り、歩く事500m10分ほどで、四条畷神社参道入口に到着しますが、今回は戦国時代、三好長慶の飯森城散策なので南北朝時代は次回ということで、そのままJR四条畷駅を目指しますが、途中東高野街道(国道170号)を右折し、四条畷市立歴史民俗資料館に立ち寄ります。実は、飯森城御城印は、大東市と四条畷市がそれぞれ作成し、2枚で1つになる御城印なのです。
JR四条畷駅でゴールです。改めて飯森城は織田信長に先駆ける最初の天下人・三好長慶の居城で、その特徴は、岐阜城や安土城に先行した本格的「石垣づくりの城」であったということ。また山上に御殿や家臣の屋敷があり、居住と防御を一体化していたことです。山麓に居館をもたず城下町は形成されていません。これは堺などの先進的な村落ですでに経済的な機能を果たしており商業が発達していたためです。戦国時代の城が近世の城になっていく大きなうねりの中でひとつ飯森城が重要な画期になったという城であったと考えられます。