雪国の信州飯山に遅い春の訪れを知らせる飯山城を彩る満開の桜

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日本有数の豪雪地帯でも知られる信州飯山に桜前線がやっと到達すると、飯山城址全体がたちまち桜色に染まります。上杉謙信が越後防衛・信濃侵攻の戦略拠点として永禄7年(1564)築いたのが飯山城。現在は江戸末期の姿を目標に「城山公園」として整備・復元が進められ、復元された門や土塁、石垣が残り、当時を偲ぶことができます。階段式に郭を配した「後堅固の城」で、12年間の合戦にも武田信玄は攻め落とせなかったといいます。そんな堅固な城も春のひと時、明治時代に植えられたソメイヨシノ約400本が咲き競い、満開の桜で華やかな雰囲気になります。

飯山城は市街地のほぼ中央に位置し、奥信濃を流れる千曲川の河岸段丘にある比高約20mの独立した丘陵(城山)を削り直して築かれた平山城です。東に千曲川、西に関田・斑尾山地を望む、越後へ通じる軍事・交通の要衝でした。丘陵の頂部に本丸を置き、北へ向かって二の丸、三の丸を南北に連ねて配置する梯郭式構造です。曲輪毎には高低差があり、「帯郭」を間にして切岸となっていて急峻です。丘陵の西側一段下には「西郭」北側平野部には馬出状の「外郭」を配し、四周は一重の濠をめぐらしています。築城当時は大手は北側にありましたが、江戸時代大手門は南側に設けられました。本丸の南面は特に防備を固め、濠は広く、土塁は高く、急傾斜で、東・北・西の三面は直立に近い石垣を築いています。この城がもと常盤牧の泉氏の居城で、のち上杉謙信の属城となり、永禄7年(1564)ごろ武田信玄の侵攻に備え、謙信の創意の縄張りとさらに上杉景勝の修築による特色ある城郭で、上杉氏の信濃出陣の拠点となりました。慶長3年(1598)上杉氏の会津移封後は、北信濃の要衝として関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山の譜代大名の諸氏が頻繁に入れ替わった後、享保2年(1717)2万石で本多氏が城主となり明治維新まで本多氏の城下町となりました。

駐車場に車を停め石垣沿いに進みます。

JR飯山線北飯山駅から徒歩の場合の入り口・飯山城址公園西口と合流します。左手切岸の手前の坂が南中門に向かう道になり奥が西郭になります。

帯郭に設けられているのが、飯山市内の旧庄屋・南条丸山家に払い下げられていた城門を平成5年(1993)移築復元した櫓門形式の「南中門」です。江戸時代城内には門が13あり、明治のはじめに城内の建物や門は民間へ売却され、そのうちのいくつかの城門は現在も各地に残されているうちのひとつです。正面2本の主柱とその間に取り付けられた内開きの扉、脇扉などは当時のものですが、城内のどの門か不明のため南中門の規模(5間×2間半、二層門)を参考にして復元しています。

南中門跡を目指します。江戸時代の南中門は、現在弓道場のある場所付近にあり、平成4年(1992)弓道場建設に伴う発掘調査により門に接して番所及び駕籠部屋ありました。江戸時代の飯山城内通路は、南大手門より入り、この南中門を通って、三の丸、二の丸、本丸へと登っていきます。

南中門からの道の一段高いところに西郭があります。西館、西の丸とも呼称され、城内で最も広い敷地(2409坪、約7300㎡)を有しています。ここには藩主の居館があり、西郭へは桜井戸にある北側から入り、入口には西館門がありました。西館門は、建物の一部に扉を付けて門とした長屋門で間口は4間(約7.2m)であったとされています。また重臣の屋敷も軒を連ねていました。

西郭の南、扇坂を下ったところの南大手門があります。現在南大手門周辺に整備工事が行われています。

帯郭と思われる通路を歩き二の丸に向かいますが、西郭から眺める本丸(帯郭)下切岸。写真の右手から上っていきます。帯のように細長い区画を帯郭といい、ここに兵を配置して、本丸西側の守りを強化したものです。江戸時代には建物などの施設はなかったようです。

明治時代以降にこの帯郭を分断するように通路が開けられましたが、それまでは二の丸からしか入れませんでした。当然この場所から本丸へ登る石段もなく、明治になって葵神社が建てられたことで造られたものです。途中右手に鳥居が見え、この段の上にあるのが本丸です。二の丸まで行って本丸虎口から本丸に向かいます。

二の丸から城の中枢となる本丸への出入口(虎口)には、防御と攻撃のために工夫された桝形が発達しました。桝形とは、虎口の前面に方形の空間を作って門や口を二重に構えることで容易に入られないように工夫された施設です。

飯山城では全面の門については設置されなかったようで、後方の門は本丸門として、後多聞、渡櫓門と記載されている文書もあり、石垣との間を渡すように設置された5間の二階建ての門がありました。写真は本丸門跡の石垣で武者走りが設置されています。

現在本丸神社にある葵神社は明治16年(1883)、江戸時代中期の享保2年(1717)越後糸魚川藩より入封した本多助芳から明治維新まで10代151年間飯山城主を務めた本多家の中興の祖といわれる本多広孝を祀っています。本多家の家紋は「丸に立葵」で、徳川家譜代の家臣で三河岡崎藩主であった広孝系本多家。

飯山城には、三の丸と本丸に二重櫓がそれぞれ一棟ずつ幕末までありました。本丸の二重櫓は、天守の代用として存続していました。記録には「五間半横三間半」とあり、隅櫓として東西約9.9m、南北6.3mの規模で建てられた二階建ての櫓でした。本丸の南西隅にあり、この場所からは飯山城下が一望でき、逆に城下からは飯山城の権威を示すシンボル的な存在として眺められます。

本丸の裏手にあたる場所には不明(あかず)門がありました。江戸時代後期になるとほとんど使用されることがなく常に閉じられた門でした。弘化4年(1847)の「御城内覚留写」には「不明御門袖共二間四尺」とあり、同時期の絵図には冠木門と説明書きがあり、門柱に横木を渡した屋根のない門だった時もあったようです。なお二の丸から上る石段は江戸時代になく明治時代になってつくられたものです。

二の丸には飯山城の御殿が建てられていました。御殿とは城主の居住、執務スペースのほか家臣等との対面や儀礼、藩政のための庁舎としても使われる、まさに政治の中心部となる建物でした。城主の私邸は西館(西郭)にあったので、専ら公的な行動の場として建てられたようです。残されている平面図では、東西45m、南北28m、坪数で204坪(約675㎡)という大きな建物でした。写真は本丸虎口から見た二の丸で、奥から三の丸に下りていけます。

二の丸の現葵神社下付近には、二の丸の裏門である坂口門がありました。江戸時代前期の松平氏が城主の時、東側に馬場や矢場がつくられ、二の丸から直接行き来できる通路が開けられたようです。しかし、坂を下りた付近には坂下門があり、さらに二カ所の番所が設けられるなど、警備には十分に備えていました。写真の本丸へ登る石段(明治時代の作)の左手、二本の木の間に下る石段があり、坂口門があったと思われます。

坂口門から城の東麓に下ったところにあったのが坂下門です。坂下矢来門、御茶屋門とも呼ばれていた小規模な門です。この門から濠を渡った東側には茶屋や馬場、長屋などがありました。飯山城に石垣は本丸周辺などの一部のみで、大半は周囲の斜面を断崖状に切土して敵が容易に登れないようにつくられた切岸となっていて、本来は垂直に近い角度だったと考えられています。

坂下門から北中門へ向かう三の丸の北東隅に沿ったこの付近には三日月の形をした堀がありました。松平氏時代の絵図から本多氏の時代の絵図にも描かれているので江戸時代を通してあったと思われます。三日月堀とは、戦国時代の武田氏が築いた城に多く見られる城の出入口を防御するために掘られた溝をいいます。

飯山城三の丸の北側には外郭(現グランド)があり、番所、長屋、台所・調錬場がありました。その北には北門があって北からの入口となっていました。

主郭部(三の丸)の北側にあたる城内への虎口となる重要な場所で、北中門が建てられていました。江戸時代初期には二層の大きな門が建てられていましたが、幕末には土塀の間に作られた仕切り門だったようです。門をくぐると東側が三の丸の切岸が、西側は、土塁が築かれていて切通し状の狭い通路となっています。土塁はかつて城内の各郭を取り囲むように築かれ、その上に狭間つきの土塀がめぐらされていました。

三の丸へは三年坂と呼ばれる急坂を上ります。この場所は南の大手門から南中門を通ってくる道と、裏門である北門、北中門を通ってくる道との合流点になります。この坂を登ればいよいよ城の中心部に至るわけで、防御の為一段と高く郭は造成されています。そのため通路も急勾配になっています。

三年坂の少し先に桜井戸があります。飯山城の始まりに関する伝説によれば、鎌倉時代に執権北条義時に反旗を翻した鎌倉幕府御家人泉小次郎親衡は敗れて飯山に逃れてきて、のどの渇きをいやすため桜の大木に幹に鶴岡八幡宮の御札をかけて祈り、根元を掘ってみると清冽な水がこんこんと湧き出たとのことです。親衡は大いに喜び桜井戸と名付け、館を建てて「大泉の館」と命名したとのこと。

三の丸は城山の北端に位置する曲輪で、二重櫓・武器蔵・籾蔵が建てられていました。

城内の通路は三の丸、二の丸、本丸へと登っていきます。写真は二の丸から三の丸を見下ろし、奥の階段が三年坂。

時季を同じくして千曲川を華麗に染めるのが、飯山随一の名所である菜の花公園の菜の花です。                  「幻の富倉そばを楽しみに菜の花から始まる信州飯山の春の旅」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/4362

 

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