世界遺産「法隆寺」を目指し聖徳太子ゆかりの斑鳩の里を歩く

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奈良市の南西、のどかな田園風景が広がり、美しい塔が点在する斑鳩の里は、世界遺産「法隆寺」を中心とした静かな山里です。この斑鳩の里は、聖徳太子が推古天皇の摂政として斑鳩宮を置いたことから始まり、太子ゆかりの古寺が点在します。田園風景が広がる太子ゆかりの斑鳩の里に点在する「斑鳩三塔」を訪ね歩き、太子ロマンに浸ります。

当時都のあった飛鳥を離れ、斑鳩の地を選んだ背景には、外交戦略を重視していた太子が、遠洋航路の拠点となる難波津に出やすい、雄大な大和川の水運を利用できるこの地を選んだのではないかとも言われています。そして太子は、南西に斜めに連なる「太子道(筋違道)」を、舎人の調子丸とともに、愛馬の黒駒に乗って、斑鳩から都のある飛鳥まで通ったとも伝わります。

斑鳩の里のスタート地点は、世界遺産「法起寺」です。別名は岡本尼寺、池後尼寺とも呼ばれ、もとは推古14年(606)に太子の岡本宮があったところと伝わります。創建の由来は推古30(622)年2月22日に聖徳太子が甍去される際に、息子の山背大兄王に太子が「法華経」を講じられた岡本宮を寺に改めるよう遺命されたのが始まりとされ、舒明10年(638)に造営されたと伝わります。法隆寺、四天王寺、中宮寺などとともに聖徳太子の建立にかかる七寺の一にして、金堂と塔の位置が法隆寺と逆になった法起寺式と呼ばれる七堂伽藍の大寺院だったとのことです。

当時の姿そのままに、今も斑鳩の空に高く聳え立ち池に美しい姿を映す三重塔(国宝)は慶雲3(706)年の完成で、創建当時の高さ24mの現存するわが国最古の三重塔です。一重基壇の上に立ち、屋根の勾配緩く、軒深く、雲形肘木、井籠組の構架法などどれも飛鳥時代の様式を伝えています。遠くより見る安定感となだらかさは、斑鳩の里に調和した美しさをただよわせています。

ここから「法輪寺」まで田園風景の中、のどかな道を歩きます。推古30(622)年、聖徳太子の長子・山背大兄王と孫の由義王が太子の病気平癒を祈願して創建されたと伝わります。土地の名にちなんで三井寺とも言われ、「法林寺」「法琳寺」とも書きます。法隆寺式伽藍配置をとり、七堂伽藍を完備していましたが、創建当時の建物はなく、法隆寺・法起寺とともに斑鳩三塔として美しさを讃えられた三重塔は、昭和19(1944)年に雷火で焼失し、昭和50(1975)年に昔ながらの工法で再建されたのです。そのため残念ながら世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていません。講堂には、薬師如来坐像と虚空蔵菩薩立像の2体の飛鳥仏と6体の平安仏を安置されています。

さて聖徳太子ロマン溢れる斑鳩の里・三塔めぐりのクライマックス世界遺産「法隆寺」に向かいます。飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られ、1993年世界文化遺産に日本で初めて登録されました。

サイクリングロードを南に歩いていくとその先に、聖徳太子建立七大寺の一つに数えられ、大和三門跡寺院のひとつ「中宮寺」に向かうことになります。法隆寺の隣に野の花のようにさり気なく佇む中宮寺」は聖徳太子が、母の穴穂部間人皇女のために御所を寺にして建立したといわれ、斑鳩尼寺とも呼ばれた創建時以来の尼寺で天文年間(1532~54)に後伏見天皇八世の皇孫である尊智女王が入寺してからは門跡尼寺となったとのことです。創建当時は、斑鳩宮を中心にして法隆寺と対をなすように伽藍が配置されていたといいますが、戦国時代に焼失し、現在の地に遷されています。

麗しい御寺が奈良にある。                                                たおやかに風が流れる。緑は麗しくそよぐ。ここは日本最古の尼寺。聖徳太子が母を偲んで建立したという歴史が息ずく名刹。本尊。如意輪観音像の母のような美しさは圧巻。JR東海「うまし うるわし 奈良」より

中宮寺にある文化財でご本尊の「伝如意輪観世音菩薩」の半跏思惟像(国宝)、聖徳太子の死を悲しむ妃、橘大郎女が死後の世界の様子を刺繍させた日本最古の繍張「天寿国曼荼羅帳」(国宝)は必見の価値ありです。半跏とは、左足を垂らした状態で台座に座り、右足を左膝の上に載せた姿をいい、右手の指先を頬に添えて思案する様が思惟と呼ばれる。そのやや俯きかげん、わずかに右に傾けた顔には微笑みを浮かべ、衆生の煩悩に優しく思いを寄せているように見えます。美しい姿に神秘的な微笑をたたえたこの菩薩の微笑みは、「アルカイックスマイル(古典的微笑)」とも言われ、スフィンクスや名画モナリザと並ぶ、「世界三微笑像」と言われています。

哲学者・和辻哲郎は『古寺巡礼』の中で「なつかしいわが聖女」と記し、文芸評論家・亀井勝一郎は、『大和古寺風物誌で、口もとの微笑を「おそらく余韻」と評し、絶賛。一方、歌人の会津八一は「みほとけの あごとひぢとに あまでらの あさのひかりの ともしきろかな」と詠み、三十一文字に寺と仏の魅力を凝縮しています。

美しいひとが奈良にいる。                                                この像に、ある人はふるさとを想い、ある人は母性を見出す。聖徳太子が遺したという日本最古の尼寺に坐す如意輪観音。千四百年間変わらぬ微笑で日本を見つめる美しい人。JR東海「うまし うるわし 奈良」より

現在「法隆寺」は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心として東院伽藍に分けられていて「中宮寺」に隣接するのが東院伽藍の「夢殿」(拝観料300円)です。ここに来るとさすが世界遺産、外国の方が多いのに驚く。推古9年(601)に造営された斑鳩宮跡に行信僧都という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といい、その中心となる建物が「夢殿」です。夢殿という名は、聖徳太子が夢で金人から夢で教えを受けたという伝承に由来する。この夢殿は中門を改造した礼堂と回廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。

東と西を結ぶ大垣と呼ばれる築地塀で囲まれている道を歩いて西院伽藍に向かいます。

途中には珍しい三棟造りという奈良時代を代表する建物である東大門を抜けると法隆寺の中心である西院伽藍である。

「法隆寺」は聖徳太子と推古天皇が先帝・用命天皇の遺志を継ぎ、推古15年(607)に創建されたという正式名は法隆学問寺。「日本書記」には天智9年(670)に伽藍が焼失したとあり、現伽藍は8世紀初頭に完成し、東大寺や興福寺のように兵火や天災に見舞われず、往時の姿を伝えている。世界遺産維持費になるであろう拝観料1000円を払います。

中心に五重塔と金堂が並び、中門と大講堂をつないで回廊が囲む配置は、法隆寺式伽藍配置と呼ばれている。鎌倉時代に花開いた日本独自の仏教と違い、より大陸からの影響が残されている飛鳥時代建築の粋を集めた中門に向かって右手に五重塔、左手に金堂が威圧感と重量感を帯びて並び立ちます。

以和為貴 今日に届けたい千四百年前がある。                                      『和を以って貴しと為す』聖徳太子が創建した斑鳩 法隆寺に、今も受け継がれるひとつの言葉。飛鳥の時代から今日へ、そして未来へ届けたい大切な日本人の心かもしれない。JR東海「うまし うるわし 奈良」より

西院伽藍の本来の入口となる中門は正面が四間二戸と入口が二つあるのが特徴です。この中門の足の数は5本で通常の場合、門の造り方は大小関係なく「偶数本」で構成され、真ん中が通り抜けられるようになっているのが一般的なのですが、この法隆寺の中門だけはなぜか5本という「奇数」で建てられているのです。中央に配された柱が、入門を拒んでいるとの説もあります。

金堂と五重塔を囲む中門と回廊は軒が深く覆いかぶさり、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱や上層には金堂と同じ卍崩しと人字型び割束を配した高欄を備え、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものであり、壮麗な飛鳥時代の様式を今に伝えています。中門の重厚な扉と左右に立つ阿・吽の金剛力士像は、東西にのびた回廊の連子窓と対照的な組み合わせで並列して建つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいます。奈良時代初めに作られた塑像といって粘土造りの仁王様は1300年前からここで風雪に耐えながら門番をされているのです。

遠い昔の日本を見ている。                                                奈良、斑鳩の里に美しい年輪を刻む日本がある。聖徳太子創建、法隆寺。五重塔をはじめとする世界最古の木造建築物。釈迦三尊像など飛鳥時代を物語る仏たち。そして、太子が伝えた和を重んじる精神。ここは、日出ずる頃へ帰れる故郷のような寺。        JR東海「うまし うるわし 奈良」より

拝観のための入口から進むと先に五重塔の前に出るためつい五重塔から拝観したくなりますが、右手の法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂「金堂」は711年頃の建築で、法隆寺中でも最初に完成した現存する世界最古の木造建築物です。軒の出の深い安定した姿が美しい。入母屋造りの二重の瓦屋根と下層の裳階の板葺きの対比、これに奥深い軒下の垂木や雲斗・雲肘木が調和した快いリズムを奏でています。

急な石段を上って威風堂々としたこの建物の中に足を踏み入れれば開け放たれた扉から漏れる外光が、ほのかに堂内を照らし、古色を帯びた荘厳具に囲まれた仏像軍が浮かび上がります。聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像や金銅薬師如来坐像、金銅阿弥陀如来坐像、それを守護するように樟で造られたわが国最古の四天王像が邪鬼の背に静かに立っています。その他木造吉祥天立像・毘沙門天立像が安置されていて金網越しに見れます。その多くが飛鳥時代の創建当時のものであり、薬師如来の光背には「父用明天皇の病気平癒」、釈迦如来の光背の裏面には仏師・鞍作止利の名前と196文字の「聖徳太子の冥福を祈願」という内容の銘文が刻まれています。

遥か先の日本を見ていた。                                                遠い昔、日出ずる国の未来に夢を描いた人がいた。和の精神を説き、法隆寺を建立したその人は、律令国家の礎を築いて、日本が歩むべき道に光を照らした。時は経ち、静かに微笑む本尊、釈迦如来。神秘的な仏像に、その人、聖徳太子の影が重なる。         JR東海「うまし うるわし 奈良」より

「五重塔」は高さ約32.5Mでわが国最古の五重塔として知られ、最も美しい塔だと言えます。それは初層から上に行くにしたがって、柱間をせまくしていき屋根もそれに応じてほどよく小さくなっている。こうして全体が調和のとれた二等辺三角形におさまっているからだという。建築の様式も金堂に類似して初層には裳階があり、二層目からは卍崩しの高欄がめぐらされている。もうひとつの特徴が、最下層の内陣にある塔本塑像と呼ぶ奈良時代の初め和銅4年(711)に造られた塑像群です。心柱の四方に塑土で洞窟のような舞台を造り、さまざまな経典に出てくる釈迦に関する四つの説話から四つの場面をストーリーがわかりやすく立体的に塑像の小群像で表しています。

中門の真向かいにある間口九間の大講堂は、仏教の学問を研鑚したり、法要を行う施設として建立されましたが延長3年(925)に焼失、正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像が安置されています。

再建時に回廊を北側に延長して大講堂に取り付けたので堂の前が広く清々しい空間となっています。奥に連なる経堂は経典を納める施設として建立されましたが、現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正像を安置しています。

宝物庫である綱封蔵を横目に進み大宝蔵院を見学する。最初に出迎えてくれる、悪夢を良い夢に変えるという穏やかな表情の有名な夢違観音像をはじめ、推古天皇の仏殿と伝わる玉虫厨子、橘夫人厨子百万塔、大宝蔵院の主役であり、会津八一が「ほほえみて うつつごころに ありたたす くだらぼとけに しくものぞなき」と詠んだ百済観音像 等わが国を代表する宝物類を多数安置しています。

さて広さ約18万7千平方メートルにもおよぶ境内を見て歩き、法隆寺の玄関にあたる総門の南大門をくぐります。三間一戸の八脚門で、創建時のものは永享7年(1435)に焼失し、永享10年(1438)に再建されました。この南大門の石段の下中央に長さ2m、幅1mの魚の形をした石が地面に埋め込まれており「鯛石」と言われています。魚がここまで泳いできたと伝えられるこの「鯛石」から先、お寺の境内は地面が高くなっていて、大雨が降って大和が水害にあってもこの石のところで止まり、境内には水が入らないと伝承される。法隆寺が聖域として守られていることを示唆する伝説なのです。

南大門からは美しい松並木の参道が続き、国道25号に出ればあとはJR法隆寺駅を目指すだけです。

旅の途中、何気なく記憶にあった正岡子規の『柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺』という句が鮮やかに胸に響きます。

 

 

  

  

  

 

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