会津若松城下の札の辻(現在の大町四ッ角)と下野国・今市宿まで、およそ32里(約130km)を結んだ会津西街道とも日光街道とも呼ばれる下野街道は、参勤交代や江戸と東北の物流を支える重要な道とされました。土がむき出しの全長500mほどの旧街道の両側に、重厚な茅葺き屋根の民家が軒を連ねている大内宿は、南会津の山中にあり、ほとんどの家が旅籠を営み、荷継ぎ馬で駄賃を稼ぎ、半農半宿の宿場として栄えました。問屋本陣や脇本陣も置かれた宿場で、参勤交代で江戸へ向かう会津のお殿様は、参勤交代の際、5泊6日かけて江戸に向かい、大内宿では昼の休憩をとったといい、600人クラスの大名行列が立ち寄るとあって、料理人も50人はいたといいます。往時の姿を今に留め、まるで時代劇のセットか江戸時代のテーマパークのような大内宿で食べ歩きはいかがですか。
天正18年(1590)小田原征伐参陣のため小田原に向かう伊達政宗や奥州仕置きに向かった豊臣秀吉も通ったという記録が残る大内宿は、江戸時代、会津西街道2番目の宿場でした。会津藩初代藩主保科正之の命で沿道の整備が進み、寛文7年(1667)には一里塚が築かれました。今市宿で日光街道や例幣使街道とつながるこの下野街道は、会津と江戸を結ぶ最短ルートだったため、会津藩だけでなく、近隣の諸大名も参勤交代に利用。また毎年、数万俵もの廻米や会津の特産品も運ばれ、宿屋や問屋が軒を連ね、人やモノの往来で賑わいました。会津藩の経済を支える重要な街道でした。
正徳元年(1711)の大火以来、戊辰戦争の折にも名主・阿部大五郎(現・美濃屋)の尽力により、焼き払われず難を逃れ景観が保たれました。、明治11年(1878)には、『日本奥地紀行』を著した英国人女性旅行家、イザベラ・バードがこの道を辿っています。そんあ重要な役割を果たしてきた街道でしたが明治17年(1884)阿賀川(大川)沿いに現在の国道121号が開通、幹線道路や鉄道路から外れ、宿場の機能が失われすっかり忘れられた存在になり、住民たちにとって厳しい時代が続いたといいます。そんな大内宿が昭和40年代に美術大学の学生だった相沢韶男氏により一躍有名になり、昭和56年(1981)には国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
多くの家が寄棟造りで、間口は6~7間ほど。道の両側には山から清水を引いた用水路が流れていて、各家の前に設けられた洗い場では野菜を洗ったり、飲み物を冷やしたりしています。用水路から汲んだ水は花の水やりにも使われ、用水路の横には消火用の28基の放水銃が設置されています。日本の音風景百選に選ばれています。
通りの突き当りにある浅沼(扇屋分家)を回り込むように石段を息を切らして上ると、集落の人々の信仰を集めてきた子安観音があり、すぐ近くの見晴台から大内宿を一望できます。傾斜のゆるい迂回路もあります。
大内宿には、南北500m、東西200mほどの集落に48戸が立ち、そのうち33戸が茅葺屋根。1戸あたり50坪前後、屋根の妻を通りに向けた寄棟造りの家並みは、高台から眺めると、幾何学的で整然として見える
通りを駐車場方面に戻る途中、宿場の中ほどで目に止まったのは、立派な鳥居。集落西側の高台にある高倉神社の一の鳥居で、まっすぐに延びる農道の先、緑豊かな参道を進むと石段を上った先に拝殿があります。後白河天皇の第二皇子・高倉宮以仁王は平清盛の全盛期である治承4年(1180)源頼政のすすめで平氏打倒の兵を挙げましたが宇治川の合戦に敗れた後、落ちのびて大内宿に留まったと伝えられ、神社には以仁王と愛馬が祀られています。伝説によれば、宇治川で敗れた宮は、奈良路から近江東海道・甲斐・信濃・上州沼田・尾瀬・桧枝岐。伊南・大内・只見を通って越後に入り、小国右馬頭頼之を頼りに落ち延びていったといいます。大内に立ち寄った際、この里が都の風情に良く似ている所から、それまでの山本村から大内村と改められました。また以仁王の側室である紅梅御前の従女、桜木姫の霊墓もあり、境内には樹齢800年の大杉がどっしりと構えています。
茅葺き屋根の建物の多くは、民芸品店や食事処となっています。名物のネギそばのほか、トチの実を使った栃餅、しんごろう餅、焼き立てのイワナ塩焼きや玉コンニャク、手焼き煎餅を軒先で売る店などが多く並ぶ。土産物店はどこも通りに面した建具を大きく開き、縁側に商品をいっぱい並べています。散策しながら手軽に食べられるのがうれしいし、一軒ずつゆっくり見ていても飽きることがない。
このあたりは水が冷たく、稲よりもそばが多く作られていたことから、かつては、客をそばでもてなす習慣があったといいます。宿場内には蕎麦処も多く、町並みの入り口近くにある「ネギ一本そば」で有名な 大内宿 三澤屋の店舗は築350年を超えるといいます。
開放感あふれる店内。一日中、お客さんで賑わっています。
おろしそばに箸代わりの長ネギが添えられた名物の「高遠そば」。名前は会津藩藩祖の保科正之が信州高遠藩で育ったことに由来します。寛永20年(16439会津藩23万石の藩主となった際に当時そばの先進国ともいえる信濃国からそば職人を伴わせ、そば切りとともに、辛味大根のおろし汁に焼き味噌を溶いてつけつゆにする食べ方も伝えたといいます。三澤屋オリジナルの高遠そばは、箸と薬味を兼ねた長ネギが一本丸ごと付くのが特徴で、「細く長く、白髪の生えるまで」という意味を込めてネギが添えられ、これを箸の代わりにして食べるというユニークなそばです。
大内宿駐車場からすぐのところにあるカフェ「分家 玉屋」は、会津若松や会津美里の古民家、寺の古材を移築。器に会津本郷焼を使う他、地の食材をいかしたスイーツが充実しています。下郷のホオズキを使うケーキはフルーツトマトのように甘酸っぱく、福島市の加藤ファームの玄米粉で作るお米ロールはふんわり。会津若松の高橋庄作酒造店の酒と酒粕を使ったお酒ケーキも考案。