銀雪をまとった朝日連峰を内陸に抱き、西側には荒波砕け散る日本海の海原がどこまでも広がっている山紫水明の地とも例えられる北越後の村上は、かつて村上藩の城下町として栄えました。新潟で最も古い城下町といわれ、城跡・武家町・町人町・寺町が残り、今も伝統的な家屋が住宅や商店として点在し、その面影を町の随所に残しています。また酒どころ新潟の中でも“酒飲み”にとって憧れの地であり、朝日連峰を源に日本海へと注ぐ清流・三面川が流れ、秋には鮭が遡上することでも知られる平安時代から続くサケの名産地でもす。酒と鮭は藩の重要な財源にもなっていて、現代においてもそれらは町の食文化として親しまれています。調べてみると、なんと“北限のお茶”と呼ばれる茶の産地でもあります。ゆったりとした刻が流れる「食」の城下町「村上」にでかけます。
JR羽越本線村上駅前の観光案内所で情報を得てスタートです。村上の城下町の特徴は、城跡を中心に武家屋敷、寺町、町家などが、それぞれはっきりと分かれつつ、徒歩圏内に現存していることです。
武家屋敷と寺町の間には江戸時代以来の古い商家が数多く残り、中心街に点在する風情ある街並みが今も残っています。町家を再生した店と住居を兼ねた商店が軒を連ね、名産の三面川のサケを使った食事処やサケ加工品を売る店も多い。秋になると産卵のため村上市内を流れる三面川に遡上してくる鮭を採捕する鮭漁(10月21日~11月30日)が有名で、サケの伝統魚法「居繰網漁」が見られます。江戸時代から続く伝統漁法で、3艘の木舟がひと組となって漁を行います。2艘は互いの間に網を沈め、1艘は竿で川面を叩いて網に鮭を追い込みます。
村上と鮭の歴史は古く、平安時代に京の都に楚割鮭という加工品が租税として献上されていた記録が残る千年もの歴史があります。鮭が遡上する三面川は、江戸中期に乱獲で取れなくなった鮭の収穫量を戻すため、村上藩の下級武士・青戸武平治がサケの母川回帰の習性に着目し、鮭の産卵場として整えた三面川の支流「種川」の鮭を禁漁として資源の回復を図った世界で初めて「種川の制」という鮭の増殖方法を成功させ、村上藩は鮭に救われました。そのため、村上の人々は鮭を尊び、その慈しむ心から頭や中骨など、どの部位も無駄にせず美味しく頂こうと100種類以上の鮭料理が生まれ、今なお受け継がれています。特に名高い「塩引き鮭」は、サケに塩をすり込んで水洗いしたあと軒下などに吊るし、北西の季節風と村上の地形といった村上の独特な気候風土で乾燥、発酵、熟成させて旨味を引き出す自慢の郷土食。塩鮭や新巻鮭には真似のできないここでしか生まれない旨味が特徴でぜひとも新潟米と一緒にいただきたい。
なかでもシンボル的な「千年鮭きっかわ」は、昭和30年代、村上伝統の鮭文化が失われかけていることに危機感をいだいた14代目が江戸時代の寛永年間から続く造り酒屋をやめ、村上で初めて鮭の焼き漬けやはらこ(いくら)のしょうゆ漬け、みそ漬けなど酒を余すところなく使ったさまざまな鮭料理を商品化したお店です。土間に残る仕込水の井戸や麹室はみな現役です。この麹室で手作りされる米麹が、村上の正月料理・鮭の飯寿司に欠かせません。JR東日本「大人の休日倶楽部」村上の鮭篇(秋)「食べきれるかしら」で、“100種類もの鮭料理が伝わる新潟の城下町村上。鮭で栄えた町はその恵を大切にする町でした。”と吉永小百合さんが鮭の暖簾の横で写っていました。
それらを作っているのが奥の作業場です。町屋の魅力は通り土間、高い天井、美しく太い梁や柱など伝統的なつくりが施された町屋造りと呼ばれる建築様式です。通り土間にざっと1000匹の塩引き鮭が天井からつるされている姿は圧巻で、1年間じっくり発酵させ11月頃熟成します。村上の塩引き鮭は下処理する際、腹はすべて開かず、腹びれ付近の身をわずかに繋いでおきます。止め腹といわれる伝統の開き方で腹を全開するのは切腹を連想させ、城下町の村上では禁忌とされました。尾を上にしてつるすのも、首つりさせないという思いを込めています。23年公開、浅田次郎原作の映画『大名倒産』は村上藩がモデルで、尾を吊るす村上の塩引き鮭が登場します。
通りを挟んだ向こう側には2023年5月にオープンしたばかりの茶館きっかわ嘉門亭。このあたりは村上きってのフォトスポットです。
鮭文化を味覚からと直営の「千年鮭 井筒屋」で鮭料理を味います。井筒屋が店を構えるこの小町は旅籠の町でした。大町の北に続き、中程でクランク状に折れて小町坂を下り、庄内町に接する「小町」。小町坂の部分を古くは下小町と呼んでいました。寛永12年(1635)の村上惣町並銘々軒付之帳によれば、家数は「小町」34、「下小町」13とあり、旅籠屋の多い町で、安政2年(1855)幕末の志士清川八郎も投宿し、城下の見聞を書き遺しています。元禄2年(1689)松尾芭蕉と弟子の曾良が「おくのほそ道」の道中で二泊した「宿久座衛門」は、安政2年(1855)に出版された江戸時代版のガイドブック「東講商人鑑」にも名を連ねています。その「宿久座衛門」の建物を利用しています。村上には絶妙な塩加減の塩引き鮭や珍味・鮭の酒びたしなど、百種類を超える鮭料理があるといいます。ここでその一端に触れ、鮭のうま味の奥深さをあらためて感じてみます。
鮭料理八品3025円から二十二品7843円まで5種類の鮭料理を提供。今回は鮭のきそがつく十三品を注文します。
写真「鮭料理十三品」で右上から下に、はらこ味噌漬、焼漬、かぶと煮、中上から下に昆布巻、鮭の生ハム、白子煮、左上から下にきそ、飯寿司、中骨煮の9品。「きそ」は塩辛のような鮭(き)を2年熟成させた珍品。「鮭の生ハム」は発酵させて低温熟成させたものです。
そして、1年間熟成させた塩引き鮭の薄切りで日本酒をかけて食すことから名が付いた鮭の酒びたし、白子の寒風干し、手まり寿司、村上名物鮭の塩引に土鍋炊きご飯・だし(村上茶+生揚醤油+鰹節)・薬味(三つ葉・海苔・お漬物)にひとくち甘酒がつきます。卓上コンロの上でこんがり焼いた塩引鮭を1膳目は村上産コシヒカリのご飯でシンプルに、塩鮭とは違う旨味と炊き立てご飯のハーモニー。2膳目は村上茶を使った出汁でお茶漬けで味わいます。日本人に生まれてよかった。
はらこ(いくらのこと)をたっぷりいただくなら村上駅前の「石田屋」へ。地元村上のお酒としょうゆを使用した特製だれで丸一日漬けられた「はらこ丼」が名物です。上品な味わいのはらこが惜しげもなく丼一面に盛り付けられています。。新線なうちに仕込んでいるのでプチプチとはじける食感を楽しめます。もちろん岩船産のコシヒカリの味も折り紙つきです。あさりの味噌汁とホタルイカの酢味噌のせもいいアクセントになっています。
小町通りから寺町に抜ける安善小路はかつて芭蕉も歩いたとされる城下町村上の風情を残す黒板塀が続きます。昔ながらの町家や景観の整備で復活した黒塀が続く美しい町並みは、町の人々の努力の結晶です。住民が企画した「黒塀プロジェクト」、ブロック塀に黒板を張って街並みに統一感を出しています。この小路は、江戸時代、松尾芭蕉が小町の井筒屋に二泊した際、通りを歩いて寺町の浄念寺に参拝した由緒ある小路です。
三藤山安善寺は明暦元年(1655)10月19日開基浄貞上人によって創立。楼門の建立は正徳2年(1712)で村上城下では他に類を見ない貴重な建造物です。境内に立つ高尾紅葉は樹齢もさることながら発色もよく村上市の天然記念物に指定され、また村上藩医でカラフト探検を行った窪田潜竜や相撲取りの羽黒嶽権五郎の墓所でもあります。
通りのある料亭「新多久」では独自の鮭料理が味わえます。サケのすり身をダシでのばし、ハラコと皮を入れて煮た村上伝統の子皮煮や、焼いた後にしょうゆベースのタレに漬け込んだ焼漬など繊細な料理が味わえます。
新多久の角を曲がり安善小路を抜けた先が、城下町の戦略上寺が集められた寺町になり、村上城主、本多・榊原・間部家の菩提寺である快楽山浄念寺があります。明応年間(1492~1501)の頃、行脚僧・浄念法師によって開基。天正年間(1573~1592)秀譽萬立上人により開山されました。間部越前守詮房の御霊屋があります。
この寺の文化15年(1818)再建された白壁土蔵造りの本堂は、日本一の大きさで、防火を考えて大壁の土蔵造りとし、屋根はこけら葺きです。本尊が丈六(5m)の阿弥陀如来座像であることから、これを安置するため、棟木の高さが35尺にもなり、それにふさわしく梁間9間・桁間11間、2階部分もそれぞれ6間・9間という大きさです。なおこの本堂は間部詮房の百回忌に合わせて江戸で設計され、村上の大工の手によって建築されました。
村上は茶の産地でもあります。江戸時代初期(1620年代)に村上藩の大年寄・徳光屋覚左衛門が宇治・伊勢の茶の実を買い入れ、村上藩と町方が一致協力して栽培が始まりました。冬の積雪に耐えるため樹形を低く仕立て、経済的に茶の栽培が成り立つ「日本最北の茶所」とされます。だからか緑茶店が多く、自家栽培の茶畑をもつ茶舗が町なかにあります。寒冷な気候で、年間の日照時間も短いため、渋みの成分がであるタンニンが少なく、まろやかで苦みが少ないのが特徴の村上茶は飲みやすく、土産物に最適です。そのひとつが浄念寺近くに店を構える文化文政年間創業の九重園です。安政6年(1859)から十数年間にわたり、遠路宇治より数名の茶師を連れて伝習に来た丹波生まれの柳田久兵衛と当主・瀧波重兵衛との冠字を取って九重園と名付けられました。
外観が甦りつつある村上の町家の底力は内側にあります。古い町家の店内にある町家cafe久兵衛庵は、茶の間の部分は築260年くらいたち、うなぎの寝床のように狭い間口、細長い通り土間、座敷の立派な仏壇、吹き抜けの天井の明かり採り窓や梁など、村上の町家の特徴がよくわかります。敷地は4000㎡で裏手には茶畑もあります。
中庭で保護猫が数匹、日向ぼっこをしているのを見ながら縁側のテーブル席で村上茶とお菓子を味わいます。
町家のぬくもりに満ちた部屋でお抹茶セットをいただけば、ゆるやかね時のながれの中で寛いだ一時がすごせます。
また明治元年創業の富士美園には、喫茶スペース日本茶専門カフェ「茶寮カネエイ」があります。店舗奥の大正期に建てられた元製茶工場(村上では茶小屋という)を改装して作られた、カウンター席が印象的な落ち着いた空間です。カウンター天板にはめ込まれた黒い板は、「選り葉板」というお茶の「葉」と「茎」を選別するための板を再利用しています。<お茶とお菓子セット>では、一煎目はお茶を堪能、二煎目はお茶とお菓子で味わい、三煎目以降、煎が進むごとの味の変化を愉しみます。
「鮭と鮭と人情(なさけ)の町」と県外の人に村上を紹介する際に使われるフレーズの酒も村上で造られています。幕末の頃には50を超える蔵元があったといいますが、その後昭和20年(1945)太平洋戦争の最中に、当時14軒あった地元の酒蔵が国家総動員法、企業整備令により合併。これが「大洋酒造」の始まりです。旧蔵元の中には寛永12年(1635)創業の蔵もあり、江戸時代、井原西鶴が著した「好色一代女(1686)」には、「村上のお大尽が京都の島原で廓遊びをしたとき、京都の酒はまずいからと村上の酒を持ち込んで飲んだ」という一節がある。越後の北端に位置する村上の酒造りは長く歴史に寄り添っています。「大洋盛」を醸す「大洋酒造」はそんな村上の二大酒蔵のひとつであり、村上の食に寄り添った淡麗な辛口を特徴としています。※もう一つは当初の14蔵から独立した「〆張鶴」の「宮尾酒造」。大洋酒造の歴史的資料の展示や商品を販売しているのが「和水蔵」。
入口横では磐梯朝日国立公園にある朝日連峰を水源とする地下水である自家井戸の仕込み水が汲めます。
当蔵は全国に先駆けて“吟醸酒”を市販した草分けとして知られ、昭和47年(1972)には「大吟醸大洋盛」を発売しています。大らかさ、豊かさをイメージする「大洋盛」の意味には、「ひたすらに酒造りを続けてきた細い流れも、合流することで大河となり、洋々として大海に向かう」という想いが込められています。村上に地元の米、水、人(技)にこだわり、土地の気候風土を生かして丹精込めて醸される極上の酒は本物の地酒、そして日本酒の文化を創造することでもあります。写真の「山廃特別純米 サケ×サケ大洋盛」は、字のごとく鮭料理に合う日本酒として造った純米酒。デザイン性の高いラベルも好評です。
新潟が誇る「食」景色を訪ねてみませんか。日本海沿いに点在する景勝地や名湯めぐりも加えて至福の旅を楽しみたいものです。
「続日本100名城・村上城。揚北の雄本庄氏の居城から近世城郭へ」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/14736