江戸時代初期に蘆名盛重(義勝)が築き、蘆名氏断絶後、佐竹氏一門の北家佐竹義隣が治めた角館は、四季折々の姿を見せる桜の城下町です。角館の桜は枝垂れ桜、公卿の孫娘で2代佐竹義明の正室が輿入れの際に持参した京都の桜が始まりといいます。まさに「みちのくの小京都」。武家屋敷が立ち並ぶ内町と町人・商人が住む外町に区分された町割りが残り、江戸時代の面影を偲びながら歩いてみます。
春は雅な桜花、夏は目にも鮮やかな緑の桜、秋にはオレンジ色に色づく紅葉桜に冬の雪桜と角館では武家屋敷をはじめとする辻のあちこちに枝垂れ桜が植えられています。今から約360年前の江戸時代初期、角館を治めていた佐竹北家の初代当主佐竹義隣が京都生まれで、高倉大納言家から養子になったこと。2代義明の正室に京都三条西家・三条実号から輿入れがあったこと。その際に京都の枝垂れ桜の苗木を3本を嫁入り道具として持ち込み、それが武家屋敷の桜として受け継がれ。今では400本以上になり桜の名所としての角館があります。“みちのくの小京都”と称される角館が、他の城下町と異なる、たおやかな雰囲気を醸し出している所以でもあります。
深い木立と、重厚な屋敷構えで知られる角館町は、元和6年(1620)蘆名義勝によって造られました。三方を山に囲まれ、南の玉川筋によって仙北平野に開いている地形は城下町を形成するには最も適している場所でした。町を造るには現在の古城山(ふるしろやま)を北端として、南に向けて三本の道路を設定し、これを中心に造ったと言われます。それ以前は、この古城山の北側、つまり現在の町と山を挟んで反対側にありましたが、地の利、広さを考え、さらに水害や火災というアクシデントもあり、新しい町づくりをしたものです。
古城山には角館城、別名小松山城があり、仙北の雄、戸沢氏の居城でした。戸沢氏13代家盛が応永31年(1424)、この地に移り住み、慶長7年(1602)関ヶ原の戦いの後21代正盛が常陸に移るまで居城としました。戸沢氏の代わり蘆名義勝が角館城主になりました。明暦2年(1656)蘆名氏断絶後は佐竹北家となる佐竹義隣が城主となり、明治に至るまで続きました。現在本丸であった山頂には、石碑と樹齢400年の姥桜があるのみで、当時の遺構を垣間見ることはできません。
町の中央部、市役所角館庁のある広場火除けと呼ばれる場所で、幅25m、東の花場山の麓から西を流れる桧木内川まで、町のもっとも狭い部分を分断する形で設けられています。ここで武家町(内町)と町人町(外町)を区分する場所(横町)となっています。
今宵宿泊する「町家ホテル角館」はJR角館駅から約1km、この分断された横町の南、七日町にあり、武家町(内町)と町人町(外町)両方にアクセスしやすい立地にあります。
北側に位置する武家町は、深い木立ちが覆い、南の町人町は町並みがぶっしりと埋めて対象をなしています。まちが造られた当時の元和6年(1620)には武家屋敷250戸、町家420戸と数えれ、蘆名氏断絶の後をうけ、佐竹北家が入部し秋田藩としては一門筆頭の城下町を形成していました。以来400年余、町の形は大きく変わってなく、特に内町という武家町は、道路の幅から曲り角一つまで、そのまま残っています。まさに角館は歴史の生きている町でもあります。日本の道100選に選出されています。
火除けから町の北側、武家屋敷通りの両側に大威徳石に黒板塀が続き、小田野家(無料)、河原田家(有料)、岩橋家(無料)といった中級武士の屋敷が一般公開されています。写真は小田野家前です。
一筋西側に通りをずれると、下級武士の住居が立ち並んでいたという小人町がある。老朽化して解体されるものが多いなか、かろうじて現存するのが松本家です。『烏帽子於也』の著者として知られる須藤半五郎を出した商学の家。茅葺きの粗末な造りで、下屋を下ろした入口を入ると、右手に座敷兼仏間があり、裏側が水屋という、典型的な下級武士の住まいです。映画『たそがれ清兵衛』のロケ地となりました。
通りがカギ型に曲がった先は上級武士の屋敷になり、格式を感じさせる黒板塀が続きます。人力車で巡ると、より雅な趣を感じます。
道路に面してのぞき窓のついた黒塗りの「簓子塀」が続き、八双金具の付いた重厚な薬医門を構える角館歴史村・青柳家は、もともとは天正8年(1580)常陸国青柳和泉守より続く蘆名氏譜代の武士でしたが蘆名氏断絶後佐竹北家の家来となった家柄です。
3000坪の敷地は植物園のように火や風除けに植樹した草木に覆われ、武器蔵、武家道具館などの6つの展示室、食事処、土産物店があります。万延元年(1860)建立の薬医門から入場し安永二年(1773)建造の母屋を通って古の風情に浸りながらのんびりするのにうってつけです。門の傍らには、馬乗石、馬つなぎ石が残っています。
武家屋敷通りの北端に位置する石黒家は、武家の格式を示す佇まいを残す角館で現存最古の武家屋敷です。屋敷を柿渋を塗った黒板塀がめぐり、屋敷から外を覗けるように「のぞき窓」をともなっています。文化6年(1809)建立の格調高い薬医門と茅葺き屋根の母屋には身分の高い武士の証である正玄関と脇玄関の二つの玄関を持ちます。
石黒家は、佐竹氏の家臣で、蘆名氏断絶の後を受け、佐竹義隣に従って移住してきました。役職は財政を担当する財用役や勘定役でした。藩政期には武家屋敷群の西側にあたる川原町に住居がありましたが、嘉永6年(1853)に蓮沼七左衛門から買い受け現在地に居を移しました。武家屋敷の中で唯一、今も直系子孫が母屋で暮らしています。
母屋の座敷に入って見学でき、歴史や生活様式についての説明を聞くことができ、座敷の欄間の透かしに光が当たるとこの亀の影が反対側の壁に映ってみえる工夫や特徴的な畳敷きなど実見できます。
奥座敷で、北西にある庭には築山や巨石が置かれています。江戸末期にはここで家塾「紅翠亭」を開き、学問の普及に努めたと言われています。
雪国の武家屋敷らしく、土縁造りという庇を延ばした土間が設けられ、明治25年の文庫蔵と大正8年に建てられた味噌蔵とがあり、増築された蔵には、歴代の武具や甲冑、古文書などが展示されています。特に文庫蔵は重厚な黒漆喰の壁に白漆喰の鏝絵が映える土蔵造りになっています。
斜め向かいに旧石黒(恵)家があります。昭和10年(1935)に設計・建築された武家屋敷石黒家の分家にあたります。在来の和風住宅に洋風を加味した西洋間を加えた住宅の洋館附加住宅です。
武家屋敷通りの最北に位置するのが小野崎家です。その屋敷の形態からも当時の上級武士であったことが明らかになっています。子孫の所有する屋敷間取り図をもとに平成12年に復元され、現在は公民館、武道館として活用されています。
角館には武家屋敷通りが二カ所あります。内町に住む武士団と外町の東側、田町山の麓、田町を居住エリアとする秋田藩主佐竹一門の家老職だった今宮家です。佐竹氏が二つの武士団を存在させたのは、互い同士を監視させ、反乱を防ぐ目的があったといいます。大火のため現存する武家屋敷はなく、建物は明治以降のものが多いが、今でも武家の末裔がたくさん住み、高い樹木が鬱蒼と茂り、薬医門や棟門、冠木門などいろいろな種類の門が見られ、かつての武家屋敷があった雰囲気を十分に味わえる「田町武家屋敷通り」です。
なかでも北端の西宮家は秋田佐竹本家の直臣であった今宮家支配(80戸ほど)の家柄で30石程度でしたが、幕末から経済的に力をつけ、明治から大正時代にかけて150町もの土地をもち初代町長が出た角館を代表する大地主になりました。現在蔵が5棟残っており、その堂々たる構造は往時の盛況ぶりを偲ばせ、現在はこれらの蔵はレストランや資料館、ホテル、物産の販売などに利用されています。
横町の火除けから町の南側は、町人町で商家などの町並みが続き、古い建物や土蔵が多く残され歴史を感じさせる外町です。
南端の一筋西側に通りをずれると、新町で、明治44年(1911)から大正7年(1918)まで操業していた角館製糸工場の建物が残っています。木造平屋建て、面積236.7㎡洋風工場建築です。流れ作業がしやすいように細長く造られ、天辺の小さな屋根の窓(越し屋根)、壁の上の方の窓(高窓)は明かり採りと通風のために設えました。角館の製糸業は明治7年(1874)に始まったとされ、明治31年(1898)に太田蔵之介が角館製糸合資会社を設立し、明治44年の角館製糸所設立へと推移しました。糸を作り、布を織るための女工さんが大勢働いていたそうです。大正7年からは太田家の米蔵として使用されていました。製糸工場の隣には太田家の蔵があり、大きな木造の建物の中には蔵が二棟納められています。
向かいの安藤家は嘉永6年(1853)創業の味噌醤油の醸造元です。明治15年(1882)の外町大火で全焼し、その後再建。火災に強い煉瓦造りの蔵は、明治24年(1891)築で、内部が御座敷になっていて土蔵の外側を煉瓦で囲んでいます。角館は東に玉川、西に桧木内川が流れ、良質で豊富な地下水(伏流水)に恵まれています。さらに三方を山に囲まれ南に開けた京都によく似た盆地の地形は、冬は寒く夏に暑い醸造業に最も適した気候風土でもあります。
店の前には仕込み用水の水飲み場があり角館の水を味わえる。創業以来、味噌・醤油の醸造に使用している安藤家の井戸水です。安藤醸造はこの仕込水と仙北平野からもたらされる豊穣な大地の恵みを原料に天然醸造の味噌・醤油を造り続けています。安藤醸造では築120年の蔵を改修した店舗マルヨ蔵 麹くらぶで、自社の「寒こうじ」をなどの調味料を使ったメニューが味わえます。
まだまだ見所の多い「みちのくの小京都 角館」。ぜひ春の桜のシーズンに訪れたいものです。
今宵は「大曲の花火」ー秋の章ーが行われることからJR角館駅からJR大曲駅に向かいます。「大曲の花火」は明治43年(1910)に諏訪神社の祭典として開催された「奥羽六県煙火共進会」から始まり100年以上の歴史を誇ります。雄物川河川敷において行われる日本三大花火かつ日本三大競技花火大会のひとつとされる夏の全国花火競技大会を核として季節ごとに異なるテーマで花火大会を展開しています。
秋の章は挑戦・斬新をテーマにこだわりのある演出による劇場型花火ショーを催しています。