平安時代後期、奥州藤原氏によって統一された奥州、その中心都市が平泉でした。仏教寺院が数多く建立され、華やかな仏教文化と黄金文化を生み出しました。奥州藤原3代が極楽浄土を築き、義経の悲劇とともに栄華が終わった平泉は、平成23年(2011)、中尊寺や毛越寺を含む「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ー」が世界遺産に登録されました。北方の王者と謳われた奥州藤原氏が現世につくり出そうとした極楽浄土の楽園世界、その面影を伝える世界遺産・平泉を旅します。
JR東日本「大人の休日倶楽部」平泉編で“敵も味方も小さな命も すべてのものに平和を 世界が認めたのは仏像や遺跡だけでなく何より美しい その理想でした”と吉永小百合さんは世界遺産平泉中尊寺の月見坂を歩き、毛越寺の本堂と浄土庭園を散策しています。
平泉は今から900年ほど前の平安時代末期、奥州藤原氏によって仏教文化が花開いて東北の中心となった場所で、100年足らずの短さでしたが、平安京に次ぐ日本第2の都市として栄華をきわめたといいます。平泉に居を構えた最初の奥州藤原氏は初代清衡です。彼は幼い頃から前九年の役で父・藤原経清を亡くし、後三年の役で異父弟に妻子を殺されたりといったつらい体験を経て東北を統一しました。やっと平和が訪れた時、亡くなった敵味方の供養と恒久平和を祈って、この世に争いにない極楽浄土の世界を造ろうと清衡が決心したその場所が平泉でした。
平泉はぴったり北緯39度。2度南の37度にはみちのくの入口、勿来の関。2度北の41度は十三湊、北方世界への起点港。平泉は正にみちのくの中央です。平泉の東を流れる北上川は。牡鹿湊(石巻市)から太平洋に繋がる海の道。その北上川と奥州を北に抜ける陸の道「奥大道」が交差する平泉は、勿来関から十三湊に至る奥大道のほぼ中央に位置し、水陸交通の要衝でした。
藤原清衡はみちのく支配を確立するや縦貫道「奥大道」の整備に着手、一町(約109m)ごとに金色の阿弥陀如来像を描いた笠卒塔婆を立て並べ、中央を計って中尊寺を建立したといいます。その山号は「関山」、名の通りかつて関所(衣河関)が置かれ、ここから北は「奥」と呼ばれ「蝦夷」の地とされていた平泉は、みちのくのほぼ中央にして内なる境なのです。
清衡は当時京都で流行っていた浄土思想に影響を受けたのかもしれません。清衡がはじめた伽藍造営は、2代基衡、3代秀衡へと受け継がれていきました。中尊寺をはじめ、毛越寺、観自在王院などが次々と建てられていきました。宇治の平等院鳳凰堂を模した無量光院や浄土庭園も造られました。しかし、都の模倣の終わらず、比類なき光の聖堂・金色堂やわが国唯一の「金銀宇一切経」など、平泉の文化は独自性、先進性、自由性に富んでいます。
また平泉は産出する豊富な金を使った外国との交易も盛んで、最先端の技術や珍しい品物がふんだんに持ち込まれました。金箔をまとった金色堂には、中国経由で輸入された、遠く東南アジアやアフリカから運ばれた貝や象牙の珍しい装飾があります。ちなみにマルコ・ポーロの『東方見聞録』によってヨーロッパに広まった日本の黄金の国伝説はこの頃の平泉がモデルになったともいわれています。
世界遺産平泉の重要スポット巡りには巡回バス「るんるん」(乗車一回200円/一日フリー乗車券550円)があり、JR平泉駅を起点に一周約20分で町内の主要観光地を巡ります。平泉の観光スポットは、バスで回るほどの距離ではありませんが、歩くとなると10km程度の距離になってしまいます。そこで便利なのが小回りのきくレンタサイクルをおすすめします。平泉駅前にあり、これを使えば、らくちんです。
まずはJR平泉駅から中尊寺に向かう旧道に入り、線路を越えて右に行くと「おくのほそ道」でいう秀衡が跡、3代秀衡と4代泰衡の住まいとされる伽羅御所跡がある。さらにその北、奥州藤原氏が政治を行ったという「平泉館」跡の柳之御所史跡公園があります。「柳之御所」は古くからの言い伝えによって初代清衡と二代基衡の居館を指すといわれてきましたが、昭和44年(1969)の発掘調査により平泉駅の北約600m、北上川西岸に接した河岸段丘の台地上に見つかりました。最大725m、最大幅212mにも及ぶ細長い遺跡は、幅約10mの深く大きな堀が周りをめぐり、“堀内部”と“堀外部”に分けられていたことが判明しています。それはかつて奥六郡の主といわれた安倍氏の厨河の城柵の造りと一致するといわれます。公園内には現在世界遺産「平泉」周遊の出発点となるガイダンス施設「岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター」があります。ここで世界遺産の価値をわかりやすく伝えていますので少し知識を入れておくとよいでしょう。
もとの旧道を100mほど行くと左手に三代秀衡が造営した無量光院跡があります。極楽西方浄土を再現した12世紀(平安時代)の仏教寺院の貴重な例で、浄土庭園の最高傑作と評価されています。13世紀(鎌倉時代)の歴史書『吾妻鏡』には、無量光院の伽藍は京都の平等院を模したもので、その堂内の四壁の扉に秀衡が描いた狩猟の様子の絵があったとと記されています。またその規模は鳳凰堂を上回るものでした。
新御堂とも号された無量光院の境内は、周囲を土塁と、3つの島をもつ広大な苑池で構成されています。池の中のもっとも大きな中島に、かつて宇治の平等院鳳凰堂を模して建立した翼廊を備えた阿弥陀堂が極楽浄土は西方にありとする仏教の世界観を表すため東向きに建てられていました。現在は池跡、中島、礎石のみが残り、伽藍の中心線の延長上にきれいな三角形の山・金鶏山があり、本堂の背景に見えるように設計されていました。
さらに500m行くと4代泰衡に襲われた源義経が妻子と自害した終焉の地・高館があります。判官館ともいい、北上川に面した丘陵でその向こうにかつて安倍頼時が桜の木を一万本植えたといわれる秀峯・束稲山などを一望できる場所です。現在では、その半ばを北上川に浸食され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡の時代から、要害地とされていました。兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経は、藤原三代秀衡の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。
文治5年(1189)4月、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝わります。天和3年(1683)仙台藩主第4代伊達綱村が源義経を偲んで建立したのが「高館義経堂」です。堂内には甲冑姿の凛々しい義経公の木像を祀っています。
義経堂創建時に制作された木造の源義経公像は、凛々しい武者姿の像で、極めて綿密に作られています。特徴として、頭部と兜が別作りであること、髻が付いていること、鎧の上に衣を装っていることなど、その技法には、制作した時代より古い時代のものも見ることができます。
元禄2年(1689)旧暦5月13日平泉に着いた芭蕉は真っ先に源義経の居館跡の高館に登るが、そこには眼下に悠々たる北上川の流れが見えるだけでした。おくのほそ道には『三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。』と刻まれた「夏草や 兵共が 夢の跡」そのままに、今も周囲は静けさに満ちています。
実際、高館から北東の方角を望むと北上川がとうとうと流れる右手、束稲連山の向こうには広大な北上山地が連なっています。
北上川を見下ろす境内の一角には、松尾芭蕉の句碑がひっそりと佇んでいます。
高館からJR線の踏切を渡り右折、中尊寺に到着です。駐輪場近くに「伝武蔵坊弁慶の墓」があります。文治5年(1189)義経の居城高館焼討されるや弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて往生します。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられました。『色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊』
中尊寺は嘉永3年(850)、比叡山延暦寺の高僧・慈覚大師円仁(794~864)が開山したと伝えられ、当初は弘台寿院と称しましたが、貞観元年(859)に清和天皇より中尊寺の号を賜ったといいます。その後、藤原清衡が前九年・後三年合戦の犠牲者を弔うため、長治2年(1105)から21年の歳月をかけ、多くの堂塔伽藍を造営しました。『吾妻鏡』には、「堂宇四十余宇、禅房三百余宇」との記述があり、堂々たる大伽藍であったことが分かります。建武4年(1337)の火災で焼失し、現在当時の建物で残っているのは天治元年(1124)に完成した金色堂のみです。境内の奥まで高低差約52mあり、軽い登山です。
中尊寺本堂に至る老杉の大木が立ち並ぶ約800mの表参道、月見坂の荘厳な雰囲気のなかを上って行く。左右には、見上げるような高さの杉の大木。周囲に茂るこの樹齢300年を超える老杉は江戸時代に伊達藩によって植樹されたものですが、道そのものは清衡の時代から大きな違いはないといいます。空気はしっとりと冷たく、辺りには静けさが漂います。
森閑とした森林沿いに、小さなお堂が点々と立ち現れますがなかでも弁慶堂は、文政9年(1826)に再建された総檜造りのお堂です。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り、愛宕宮と称した傍に甲冑姿の義経と弁慶の木像を安置しています。
正式名は愛宕宮ですが、堂内に安置されている仁王立ちの弁慶像から弁慶堂と呼ばれています。弁慶像は文治5年4月高館落城と共に主君のため最後まで奮戦し衣川中の瀬に立ち往生した悲憤の姿です。更に宝物を陳列、国宝の磐及び安宅関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫です。
林の参道を抜けると、右手に本堂が現れます。
中尊寺の中心となる堂塔のひとつで現在の建物は明治42年(1909)の建築で、入母屋の大屋根が特徴です。平成25年には清衡にならい「丈六仏」という一丈六尺の多くな釈迦如来像を安置し本尊としています。堂内の灯籠には比叡山延暦寺から分火された不滅の法灯が灯ります。
本堂裏門から出てすぐ、堂前に池がある「峯薬師堂」は目の病にご利益があります。元は経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間に荒廃、のち元禄2年(1689)現在の地に再建されました。堂の面積は32.5坪、型式は桁行3間、梁行3間の瓦葺の単層宝形造りで、ご本尊は丈六(約2.7m)の薬師如来座像で金色に漆を塗り金箔をおいたもので藤原末期の作です。目の絵馬がおもしろい。
現在の御堂は昭和57年(1982)の改築で、ご本尊も薬師如来像を中心に日光菩薩・月光菩薩の三尊を祀ります。
さらに進むと縁結びにご利益があるという阿弥陀堂には、本尊の阿弥陀如来、左右に蔵王権現と大黒天が安置されています。
向かい側に金色堂のある新覆堂にたどり着きます。中尊寺に残る、創建当時の建物。往時の栄華を伝える貴重な遺構で国宝に指定されていて、昭和41年(1966)竣工の新覆堂が金色堂を保護しています。
天治元年(1124)初代藤原清衡によって建てられた三間四方の東を正面にした堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂。内部には3つの須弥壇が設けられ、中央須弥壇の中には初代・藤原清衡の遺体が、脇壇の向かって左に二代基衡、右に三代秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。中央壇は幅233cm、奥行き166cmとほかの2壇よりひと回り大きくなっています。それぞれの壇上には、平泉独自の配置で、三基の須弥壇の上にそれぞれ阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、両脇に観音菩薩・勢至菩薩)、その左右に持国天・増長天の二天王立像。その両側に左右3体ずつ、6体の地蔵菩薩が安置される内陣は、3つの須弥壇の合計32体(西南壇は1体欠如)の仏像がびっしりと並びます。金色に輝く諸仏の高さは80cm未満ですが、それがかえって凝縮された極楽浄土の仏の様子を表現しているかのようです。
仏像が乗る須弥壇はもちろんのこと、内陣の4本の巻柱、長押などは蜜に蒔絵した漆地に、高価な南洋産の夜光貝を文様に切り抜いた螺鈿を埋め込む、沃懸地螺鈿という技法などが用いられています。これを一例に内陣は隅々まで、当時の漆工芸・金工技術の極致を駆使した透かし彫りの金具、漆の蒔絵などいたるところに平安後期の美術工芸の粋を集めた絶妙な意匠の限りが尽くされています。この世のものとは思われない金色堂の美しさは、単に権勢を示すためのものではなく、極楽浄土と平和とを願う清衡の想いに満ちています。※金色堂内は写真撮影禁止です。
中央須弥壇を囲む4本の巻柱には、蒔絵の菩薩像と螺鈿の宝相華唐草文が配され、須弥壇の側面には、金銅板を打ち出して作ったクジャクや草花の彫刻があります。孔雀は仏教のシンボルの一つです。
芭蕉が涙を流した高館から杉木立の月見坂を上り、芭蕉も金色堂を拝観しました。『兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪の朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。』この時の中尊寺は、建武4年(1337)の火災のために一面廃墟となっていて、経堂(経蔵)と光堂だけが残っていました。
新覆堂に隣接する経蔵は経典を収納する建物で『おくのほそ道』には「経堂は三将の像をのこし」という記述があり、経堂と書かれています。創建時の古材を用いて再建されたもので、堂内には平安時代の彩色模様が確認できます。国内最古の保安3年(1122)棟札が伝えられる。本尊の騎師文殊菩薩と四眷属像、堂内具、紺紙金宇一切経等の経典類は現在讃衝蔵に安置・保管されています。
経堂脇には芭蕉が「五月雨の 降り残してや 光堂」と詠んだ句碑が建っています。
旧覆堂は芭蕉が見た当時の金色堂の外観。正応元年(1288)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきました。近年の調査では、金色堂建立後50年ほどで金色堂を風雪から守るため、簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったものとみなされています。昭和38年(1963)の新覆堂の建築に伴い、昭和40年(1965)に現在の場所に移築されました。
堂内には3代秀衡と源義経の対面の様子を描いた絵が書けられています。
釈迦堂
弁財天堂
2社の間の参道を抜けて中尊寺境内の一番奥に座するのが、中尊寺鎮守の白山神社です。円仁が加賀の白山をこの地に勧請したのが始まりとされます。
境内にある白山神社能舞台は、嘉永6年(1853)に伊達藩によって再建。舞台と楽屋の北側に橋掛、鏡の間があります。構成の完備した近世能舞台遺構では東日本一といいます。舞台の背景には“鏡の松”が描かれています。
帰路は月見坂より八幡堂のある脇道を通ります。天喜5年(1057)鎮守府将軍源頼義・義家、安倍氏追悼のためこの地に至り、ここ月見坂で戦勝をを祈願しました。いわゆる前九年の戦です。かくて長い戦いを収め、勝利の記念に京都石清水八幡宮より勧請したのが鎌倉の八幡宮です。『吾妻鏡』のなかに「中尊寺年中恒例の法会」として「八月放生会」と見え、当社八幡神においてもその神威の主要なることがうかがえます。
真っ直ぐに表参道入口まで下っていきます。
中尊寺から南へ線路沿いに500m走り、歩行者用信号機の右の急坂を上ると毛越寺への近道です。秀衡が一晩で築いたともいわれる金鶏山を右手奥に見ながら毛越寺を目指します。埋蔵金や平泉鎮護のため一対の黄金の鶏を埋めて造ったとなど興味深い伝説があります。標高約98.6mの円錐形の山で、平泉文化センターの近くに登山口があり、金鶏山登り口にある五輪塔は、義経と最後をともにした22歳の正室・北の方(郷御前)と4歳の娘の墓と伝わります。山頂には経典を埋納した経塚があります。毛越寺や観自在王院、無量光院の庭園はこの山に焦点を合わせて設計されています。
平泉が都市としての偉容を整え始めたのは二代基衡の時代に入ってからのことです。基衡は「奥大道」から平泉への南の入り口にあたる地に、中尊寺を上回る規模の毛越寺を建立し、妻の建立になる観自在王院が並ぶその周辺に市街地を配して、都市化を進めました。
坂を下った先が正面は金鶏山を借景とした「観自在王院跡」です。2代基衡の死後、夫人が毛越寺の隣に建立した寺院跡。1573に焼失し、当時の建物は残っていませんが、舞鶴ヶ池の北側に大小2つの阿弥陀堂を含む複数の建物を有し、四隅が丸みを帯びた方形の苑池には石組・州浜・中島など浄土庭園の遺構などが確認されています。平安時代の作庭方法に基づき復元された舞鶴が池を中心に浄土式庭園が広がります。毛越寺との境にある玉石の敷地は車宿であったといいます。
隣接する「毛越寺」は慈覚大師円仁が嘉祥3年(850)に堂宇を立て開山、平安後期に2代基衡が伽藍の建立に着手し、3代秀衡によって完成されました。『吾妻鏡』では「吾朝無双」とうたわれ、最盛期には清衡が建てた山上の中尊寺をはるかにしのぐ臨池式の大伽藍で堂塔40余宇、僧坊500余宇あったといわれます。中心になる金堂は円隆寺と号し、金銀をちりばめ、万宝を尽くしたものであったといいます。毛越寺には白鹿伝説があり、寺伝によると円仁がこの地にやってくると、一面の霧の覆われて前に進めなくなり、足元に点々と落ちている白い毛をたどっていくと、先のほうに白い鹿がうずくまっていました。近づくと白い鹿は姿を消し、忽然と白髪の老人が現れ「この地に堂宇を建立し霊場とせよ」と告げました。この老人を薬師如来の化身と感じた円仁がここに一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号したのが毛越寺の起こりだといいます。
表門の山門から境内に入って、南大門まで進むと、右手に現れるのが毛越寺庭園です。東西約180m、南北約90mの大泉が池を配した、日本最古の作庭書『作庭記』の思想や技法に沿った平安期の浄土式庭園の典型的な造り。大泉が池を中心に池の周辺に石組みや築山を配した風流で優美な「浄土庭園」が復元され保存されています。細流が大河となり、大海にそそぐ。荒磯の出島あり、立石あり、やわらかな州浜がある。木々が茂り、鳥が鳴き、まさに森羅万象がここにある。辺りにたたずめば人は癒される、ほっとする。だからこそ浄土庭園なのだといいます。かつては池の中央にある中島から南大門側と金堂側に池を横切るように橋が架けられていました。かつてあった金堂は、『吾妻鏡』に「金銀を散りばめ、紫檀、赤木でつぎ、万宝を尽くす」豪華な造りだと書かれています。ほぼ完全に残っている平安時代の伽藍の遺構とともに往時を偲びながら池の周囲を散策します。
池は海を表現していて、汀には東側から大きく突き出た州浜は、ひろびろとした海岸の砂州を表現していて、柔らかい曲線で入り江を形作り、水位の昇降に応じてその姿を変化させる。水面は風を受けてさざなみが立ち、周囲の木々を映して、静かに佇む。
池の東南の位置には出島が造られています。その先端の飛島には約2.5mの景石が立てられ、周辺には中小の石を荒々しく散らし玉石を敷き詰めています。出島と池中立石で荒磯の風情を表現し、州浜と対照させた海浜の景趣が配されています。飛島の毛越寺庭園を象徴する景趣です。
本堂は昭和64年(1989)に創建当時の平安様式で再建され、朱塗りの柱や大屋根が特徴です。
本尊は平安期の薬師如来を安置しています。
あやめ園の前にある木造瓦葺きの建物は開山堂で、毛越寺を開山したと伝わる慈覚大師円仁(794~864)の像を祀っています。もともとは資料を収蔵する霊宝館として、大正12年(1923)に建立されたものです。在唐九年間の紀行『入唐求法巡礼紀行』はマルコポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『西遊記』とともに、三大旅行記として高く評価されています。
開山堂の北側には、嘉祥寺跡、さらに池の北側に金堂円隆寺跡と杉の木に囲まれて大きな礎石が並ぶ建築跡が保存されています。嘉祥寺は『吾妻鏡』によると二代基衡が工を始め三代秀衡が完成させた御堂で、寺名は開山時の年号に由来します。本尊は丈六の薬師如来。建物の規模は、正面7間、側面6間で左右に廊があり、金堂円隆寺とほぼ同じです。堂内の壁や扉には法華経の教えが描かれていたといいます。
常行堂の手前、池の北東に流れる遣水は、池に水を取り込む水路で平安時代に遺構としては唯一のもの。玉石を底に敷き詰め、流れには水越し、水切りの石、その他水の曲がり角や池への注ぎ口に石組を配するなど平安時代の指導書「作庭記」の様式を余すところなく伝えています。その美しい流れとせせらぎは浄土庭園に風雅な趣を添えており、「曲水の宴」の舞台ともなっています。水源が円仁の独鈷水だという言い伝えがあります。
東大門跡近くにある常行堂は仙台5代藩主。伊達吉村の武運長久を願い享保17年(1732)に再建。毎年正月二十日に古式常行三昧という天台宗の修法が行われる修行道場です。本尊は宝冠阿弥陀如来像で、奥殿には円仁が伝えた秘仏・摩多羅神が祀られ33年に一度の開帳されます。
往時は築地塀が境内の東端、南端を囲んでいて、東門から境内を出ると観自在王院や車宿(牛車の駐車場)のある街路が現れました。この東門跡から敷石道が圓隆寺と鐘楼を結ぶ東翼廊に続いていました。
東にまっすぐ700mでJR平泉駅に戻ります。
お昼のランチは一足延ばして一関で餅料理をいただきます。「みちのく餅の国一関。大正時代の酒蔵でいただく「果報餅膳」」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/13445