もち食は古くから続く日本の大事な食文化の一つです。しかし、近年では、もちを食べるのは正月ぐらいという方が多くなってきたのではないでしょうか。そんななか岩手県南部の一関市周辺では昔から冠婚葬祭や農作業の節目に、もちを食べる習慣があります。日本料理の正式な膳立てである本膳料理は、室町時代に武家の下で確立されました。それが江戸時代の伊達藩で独自に進化し、もち中心の食文化の基礎を築き、江戸末期に農家に「もち本膳」という、武家の作法にのっとったもちの食べ方が広がりました。以来もちがごちそうで、その味のバリエーションは数えきれないほどあり、食べ方も多彩です。今も人々はよく餅を食べ、必ず餅に出会えるもち食文化の里「もちのくに」一関を探訪します。
一年を通して、餅を食べる機会が多い一関・平泉とその周辺。餅に関する行事の日を記した『もち膳』『もちの歳時記』もあり、年間60日以上ももちを食べる日が記されていますし、この地域で伝承される餅文化の代表格「もち食儀礼」も忘れてはなりません。冠婚葬祭の席で「もち本膳」をふるまうというもので、あんこ餅、雑煮、甘辛いあんかけのしょうが餅、大根おろし、たくあんなどがお膳に並び、食べる順番やおかわりに決まりがあり(大根おろしで消化を助けながらすべての椀をたいらげ、雑煮が最後)、食べ方にも独特の作法がある(最後はたくあんで椀をぬぐって終了)のがおもしろい。
しかし、あまりに餅だらけでは飽きそうで、その食べ方や味のバリエーションが半端ない。エダマエをすり潰した「ずんだ」を絡めた餅、甘いゴマダレに入った餅やクルミ、きな粉、納豆、沼エビ・・・この地に伝わる餅料理は約300種ともいわれ、その多彩さは日本一と評判です。
こんなに餅が愛されるようになったルーツは江戸時代に遡ります。寒さが厳しい東北でもこの一帯は比較的温暖で米作りが盛んでした。この地方が伊達藩の領地であった当時、藩命により農家は、毎月1日と15日に平安息災を祈願し、神様に餅を供えなければなりませんでした。しかし農家の実情は年貢で精いっぱいでお供えの分だけはなんとか白い餅を作ったものの、自分たちはくず米や青米の粉と雑穀を練り混ぜた「しな餅」を食べて飢えをしのぎました。それでこの「しな餅」をどうにかおいしく食べようと工夫したことが、数々の餅料理を編み出す結果となったのです。現在ではこの地方一帯で雑味のない高品質のもち米「黄金餅」が盛んに生産され、餅そのものもぐんとおいしくなっています。
ということで一関市にある世喜の一酒造「蔵元レストラン せきのいち」で『果報餅膳』をいただきます。江戸時代から続く酒蔵を初代が譲り受け、大正7年(1918)に創業以来、奥羽山脈から湧く地下水と厳選された酒米を用い、岩手県の杜氏集団・南部杜氏の技術で日本酒を醸してきた世喜の一酒造。平泉の中尊寺にも献上される、丁寧な酒造りに評判が高い。屋号には「世の人々が嬉しくなる一番の酒造りを目指す」という思いが込められています。
そんな世喜の一酒造の酒を一関ならではの味とともに楽しめるのが、東京駅の設計で知られる辰野金吾の門下生、小原友輔が設計、改築に携わったかつての仕込み蔵を改装した蔵元レストラン せきのいちです。
レンガ造りに往時の雰囲気が漂うレストランの入り口を入れば、元、窯場を改装したレストランホールは和風モダンに改装され、広い酒蔵内に驚かされます。
和風カウンターや座敷もあります。
果報もち膳は、9種類のもちだれとお雑煮がセットのなった膳で、一関地方の伝統的な遊び、縁起を担ぐ萩の小枝探しも楽しめます。8種類のお餅の内、一つのお餅の下に萩の小枝が入っていて、そのお餅を何番目に引き当てるかで、幸運が来る日がわかるというものです。1番目に引き当てたら今日が幸せの日、2番目だち明日、3番目だと明後日、と幸せが訪れるのは何日後なのだろう?
今日の果報餅膳は真ん中に箸休め、お口直しにお餅の消化を助ける“甘酢大根”を置き、真ん中上から時計回りに、シノ科のえごまを「十根」又は「寿念」といい、地元産を炒って摺った“じゅうね”、濃厚な黒ごまの“ごま”、“くるみ”、辛味餅の“おろし”、もち本膳では一番最初に食べる“あんこ”、“納豆”、“ずんだ”、ゆでた沼えびを空炒りし、お酒と醤油で味付けした“沼えび”の8種類とお雑煮の箸休めの小鉢が3種付きます。
元精米蔵の石蔵を生かしたいわて蔵ビールが入る石蔵ホール
酒の直売所 せきの市では世喜の一酒造の酒やいわて蔵ビールなどがそろいます。
祝い事に限らず、悲しい時にも一関の人々はもちをつきます。人が亡くなった時につくもちは“耳ふさぎもち”といい、もちをつき故人を悼むのです。折々にもちをつき、もちでもてなす。一関のもちは、それを供する人々と同じように温かく、柔らかく、そして味わい深いものでした。