古代浪漫の里・飛鳥に残る謎の石造物を巡るサイクリング 

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古代ロマンの里」という枕詞とともに語られる飛鳥。今も変わらない青垣の山々、のどかな里山風景にこころ癒される飛鳥には、古墳、神秘的な石造物などが点在し、日本の古代から続く悠久の時の流れを感じます。万葉の人々が眺めていた同じ山や川を背景に、残されているのは古代の形見のような石。そんな石の不思議に触れてみたく、“石の都”飛鳥を便利なレンタサイクに乗って古代ロマン薫る風を感じながら巡ってみます。

謎と伝説の古代ロマンの地・飛鳥地方。1600万年前の古代へと、気軽にタイムスリップ気分を味わえるのが「古代ロマン飛鳥日帰りきっぷ」を使った旅です。関西の私鉄沿線から日帰りで飛鳥を自由に楽しめるので断然お得なきっぷです。近鉄に乗り継いで飛鳥を訪ねる往復乗車券に飛鳥周辺の奈良交通バス、レンタサイクル、施設・店舗の割引チケットがセットになって1850円(阪神版)です。チケット2枚の使い方は様々でいろいろ考えます。今回はレンタサイクルを使ってめぐるので2枚とも割引に使います。ハイキングの場合は行きは歩いて帰りはバスなら1枚はバスの乗車券に、もう一枚は物販・飲食の割引に、行きも帰りもバスなら2枚ともバスの乗車券に使えます。

近鉄吉野線で橿原神宮前まで特急で行き、各駅に乗り換えて近鉄「飛鳥駅」に到着です。まずは近鉄飛鳥駅で日帰りきっぷの特典を利用して駅前の明日香レンタサイクルへ。自転車を借りて飛鳥の旅を始めることにします。

昔から明日香村周辺は飛鳥と呼ばれていて、この周辺には謎に満ちたユニークな石造物が多くあります。村内に点在する石造物めぐりのスタートする前に古代ロマンの里に残る棚田が郷愁を誘う奥飛鳥へ。とりわけ明日香村南端の飛鳥川源流域にあたる、稲渕、栢森、入谷の三つの集落は、「にほんの里100選」や国の重要文化的景観にも選定されています。何があるわけではなくとも、日本人の心に染みる風景に出会えます。文武天皇陵を横目に道路を緩やかに上っていきます。途中で細い道を右に入ると、木立の中の峠道になる。しばらく上って風景が開けると、そこが朝風峠です。ベンチがあるので一休み。

そのまま道を下っていくと日本の棚田百選」に選ばれている明日香村の美しい棚田で知られる稲渕の棚田が見えてきます。稲渕は枕草子にも出てくる淵で、皇極天皇が雨乞いをしたところでもあり、吉野へ通じる古代の要路でした。中世(平安~室町時代)に開墾され、300枚あまりの水田と畑により形作られ、農村の原風景を色濃く残しています。西側の上斜面と眼下には寸土を惜しんで耕されてきた棚田はありが、はるか先にも棚田が広がっていて一面黄金色の絨毯のように見えます。

下には飛鳥川が流れていますが、万葉人にとって暮らしに欠かせない川であり、心の拠り所でもありました。道の端に立つ「飛び石」の道標を下ると、川の中に石を並べただけの石橋がある。川畔にはうずくまるように「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」という万葉集の歌碑は立ちます。

秋に棚田の畔や土手に咲く、彼岸花の県下有数の自生地でもあります。秋のお彼岸の頃に咲くのでこの名がある彼岸花、またの名を曼珠沙華という。これは梵語でズバリ「赤い花」を意味する言葉だそうです。それにしても、これほど強烈で刺激的な「赤い花」がほかにあるだろうか。あぜ道や川べりに群れ咲くさまは遠目にみてもドキッとするほどのインパクトです。細い花弁が放射状に広がる独特の形の花を咲かせ、茎の太い部分(鱗茎)には毒があり、田の畦や墓地など、地中を荒らす小動物を遠ざけるために植えられることが多く、奥明日香一帯でも秋の風物詩となっています。棚田の畦に真っ赤なヒガンバナが咲き誇り、たわわに実って頭を垂れる稲穂の黄色と美しいコントラストを魅せています。

稲渕から県道15号はゆるやかな下り、さわやかな風を感じながら自転車を走らせ飛鳥のシンボル石舞台古墳に向かう途中、国営飛鳥歴史公園祝戸地区にあるのが、明日香村の謎の石造物の一つ①「マラ石」です。

命の源である性器に特別な呪力があるとする信仰は各地にあり、豊かな収穫をもたらす田の神から集落に邪悪なものが入り込まないように道を守る道祖伸まで、陰陽石は私たちの祖先の身近にありました。明日香周辺にはその陰陽石が幾つかあります。祝戸マラ石は、古代性器信仰に関係するものか、何かの標石として使われたものか確証はないとのことですが、「男性器を模したもので、本来は真すぐに立っていたものともいわれている。地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と考えることもできよう。」と記されています。自然と一体になって暮らした古の人々のおおらかさを思い出し笑いをしてしまいそうです。

明日香村の象徴ともいえる②「石舞台古墳」は、大小約30個以上もの花崗岩の巨石を積み上げた古墳で、日本最大級の横穴式石室を持ちます。築造は7世紀の初め頃と推定され、元々は1辺約55mの方墳だったとされていますが、早い時期に古墳上部の盛土が失われ、現在は巨大な石室が露出した姿となっています。その形状から『石舞台』と呼ばれるようになったと言われれ、昔々狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や旅芸人がこの巨石を舞台に演じた話などが残っています。周辺には約60本ものソメイヨシノが植えられ3月下旬から4月上旬には見ごろを迎え、淡いピンク色の花々と古墳との共演が素晴らしい。

使われた石の総重量は約2300tと推定され、天井石は約77tにもなります。玄室は思った以上に広々とし、天井は見上げるほどで、高さは約4.7mあります。埋葬された人物は不明ですが、乙巳の変で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子の墓ではないかといわれています。国営飛鳥歴史公園石舞台地区のこの一帯は「島庄」といわれ強大な権力を持っていた蘇我氏の居住地でした。自然の中に邸宅があるのが一般的だった当時、馬子はわざわざ庭園を造りそれゆえ「島の大臣(おとど)」といわれたといいます。石室が露出しているのは、馬子の専横ぶりに反発した後世の人が封土をはがしたためと伝わります。

飛鳥という時代があった。飛鳥という謎が残った。                                     奈良県明日香村、飛鳥。大きな空に向き合うように、石舞台古墳は横たわっている。七世紀、飛鳥は国づくりの夢と野望の舞台だった。百年の歳月を通じて、日本という国の礎を築いた。そして多くの史跡は土に眠り、飛鳥は歴史に謎を残した。明日が香るという里で、古代が描いた物語を辿る旅。あなたはあなたの飛鳥に出会う。JR東海「うましうるわし奈良」より

さらに自転車をこいで2箇所の石造物を見に行きます。③「酒船石」④「亀型石造物」です。宿場町のような木造平屋が並ぶ細い路地を進み、奈良県立万葉文化館へと滑り込みます。南の丘の先を少し上ったところにある「酒船石」は明日香を代表する石造物のひとつ。長さ5.4m、最大幅2.3mの長方形に近い形の花崗岩でできており、平らに加工された表面には、円、隅丸方形、楕円の窪みが彫られ、それらを直線で溝が結ぶ不思議な模様がある。本居宣長の『菅笠日記』のも書かれているように昔から酒船と呼ばれていたそうです。酒造りに使用したとのいい伝えからこの名がついたといわれる。付近で石組溝や木樋が発掘されており、宮殿内への大導水施設の一部との説もあるらしい。

亀型石造物」には施設の維持費として300円を払って入場。斉明天皇の時代に造られたとされる、長さ2.3m幅約2mのユーモラスな亀の姿の石造物である。円形の甲羅には深さ約0.2メートルの水槽が彫り込まれており、丸い目を持つ頭が取水口となり、甲羅にたまった水が溝の刻まれた尻尾から流れ出るようになっていた。その南側には、この亀の頭部に水を供給する船形の貯水槽が、そのさらに南側にはレンガ状に加工された砂岩切石を積み上げた湧水施設が設けられており、この湧水施設から船形の貯水槽へ、貯水槽から亀形石造物へ水が流れる構造になっていた。

江戸時代、本居宣長や上田秋成も酒船石を訪れ不思議がっており、松本清張はゾロアスター教の施設と推理していました。が、2000年に見つかった亀形石造物を含む丘陵一帯に広がる遺跡は現在「酒船石遺跡」と呼ばれ、『日本書紀』にみられる斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)」ではないかと推定されています。この場所で何らかの祭祀が行われたものと考えられています。

さらに飛鳥寺を左手に北上して突き当たりを右に曲がるとその突き当たりが「飛鳥坐神社」で、段を上った先、小高い丘の上に本殿があります。大国主命の第一子で八十万の神々を率いて飛鳥に鎮まったと『古事記』に記されているパワフルな神様、八重事代主神を祀る古社で、日本書紀に朱鳥元年(686)に天武天皇の病気平癒を願って奉幣がなされた記述がある。飛鳥浄御原宮の守護神として奉祀されていたが神託を受け、天長6年(829)神奈備山(雷山)から現在地に移転しました。この神様に縁結びをお願いすると、その八十万の神々の中から祈願者に最もふさわしい守護神を選んでくださり、良縁を授けていただけるとか。ちなみに延喜式内の古社で、崇神天皇の時代から一族でこの神社の宮司を受け継ぐ家系の名字は「飛鳥」さんです。

本殿にお参りし、奥の院に進もうと歩き出すとすぐに、むすひの神石」という標識に気が付きます。しめ縄で囲まれた中にある二つの石は、男性と女性の性器に似た自然石、いわゆる陰陽石が置かれ、縁結びや子授けの神として信仰されています。また毎年2月第1日曜日に行われるセクシャルな神事「おんだ祭」は、天狗とお多福演ずる夫婦和合の所作が笑いを誘う。子宝、安産、縁結びに御利益があると言われており、たくさんの方が参られます。これも神を迎える「御田植神事」の一つです。

飛鳥寺を回り込むように西側に出ると、左手にかつて麓に蘇我蝦夷・入鹿父子がそろって広大な邸宅を構えていたという飛鳥の要衡である標高148mの緩やかな小高い丘・「甘樫丘」のある国営飛鳥歴史公園を見ながら飛鳥川沿いの“飛鳥葛城自転車道”を3km程走ります。県道155号に出れば左折して橘寺に向かいます。「橘寺」は厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、かつてこの地に「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり572年厩戸皇子(聖徳太子)はここで誕生したとされています。聖徳太子建立の七ヶ寺の一つで、かつては堂宇66を数える大寺でしたが、今はひそやかな寺。

この橘寺の境内にあるのが、謎の石造物のひとつ⑤「二面石」という善面と悪面2つの顔をもつ石造物です。その姿形から猿石と同じ場所から掘り出されたと考えられていています。高さ1mほどの石の左右に男女の顔が彫られており、無垢な顔つきの善面と、大きくゆがめられた悪面の対比が目を引きます。

県道155号を戻り中央公民館の裏から細道を走る。まずはのどかな田園の一角にある⑥「石」に到着。微笑んだような表情が愛らしい明日香を代表する謎の石造物のひとつ。長さ4m、幅2m、高さ2mの巨大な花崗岩に亀のような動物が彫られている。言い伝えでは、昔、大和の国中が湖であった頃、湖の対岸当麻と川原の間に喧嘩が起こり、川原が負けて湖の水は当麻の蛇に取られ、住んでいた亀が干上がって死滅してしまった。後に村人が亀の霊を慰めるために建てたのが亀石だといいます。

元は北向きだったものが現在の南西へと向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという怖い伝説も残されています。

県道209号線から脇道に入って飛鳥駅方向に向かって走ると現れるのが⑦「鬼の雪隠」と少し上った所には⑧「鬼の俎板」と呼ばれるこれもまた不思議な石造物があります。御所市から多武峰に通じる街道にあたる野の道に沿って残っています。その形から、昔からこの周辺は霧ヶ峰と呼ばれていて、鬼が住み、付近を通る旅人に霧を降らせ迷ったところを捕えて俎板の上で料理して、雪隠で用を足したという伝説があります。鬼の雪隠は、その伝説と相まって鬼の顔のように見えます。

謎の石造物のように見えますが、実は墳丘土を失った飛鳥時代古墳の石室の一部だといいます。底石・蓋石・扉石を組み合わせた古墳の一部で、鬼の雪隠は蓋石で、底石にあたる鬼の俎から横転して現在の状態になったと考えられます。

最後に明日香村内最大の前方後円墳で墳丘の緑と濠が美しい「欽明天皇稜」に向かってサイクリングにも最適な田畑に囲まれた飛鳥の周遊歩道を走り、さらに下って行きます。570年に死去した欽明天皇と、后で蘇我馬子の妹の堅塩姫を合葬した檜隈坂合陵とされています。その入口西横の小さな森に天智天武の祖母で皇極天皇の母にあたる「吉備姫王墓」があります。

墓域内には年代や制作理由も不明の、猿を思わせる顔の石造物⑨「猿石」があります。元々は欽明天皇陵南の水田から掘り出されたものでしたが、その後吉備姫王墓前、檜隅墓の柵内に移されました。特徴から僧、男性、女性、山王権現の名前がついており、それぞれ高さは1メートル前後で、4体の内、3体には裏にも顔があり、それぞれとてもユーモラスで思わず親近感を抱いてしまう顔立ちをしています。猿石は宮殿と王家の墓との境界線・結界の役目があったと推測されています。写真の山王権現は、江戸時代の文書「大和名所図会」によると元禄年間に4体を発掘、猿面のものを山王権現と呼んだとあります。

古代の人々が技術と情熱を傾けて築いた古墳やユーモラスで大らかな不思議な石造物は謎と驚きに満ちています。飛鳥地方には数多くの特異で不思議な石造物が残されています。今日はここまでですが、益田岩船も訪れたい石造物です。

 

 

 

 

 

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