足利はときどき天下をとる!?ブラタモリをまねて足利を歩く

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室町幕府を創設した名門・足利氏発祥の地で鎌倉時代の面影を残す鑁阿寺、日本最古の学校といわれる“日本遺産”足利学校。古くから織物の町として栄え、現代では世界が認めた大藤棚のある歴史と文化を擁する足利市。足利が時々天下をとったゆかりの場所をブラタモリよろしく歩いてまわる、魅力たっぷりの足利エリアへの春のお散歩旅に出かけます。

足利市は室町幕府を開いた足利尊氏で知られる、足利将軍家発祥の地。とくに2代目足利義兼は、武勇にも優れ、奥州藤原氏の討伐などで活躍しました。京都で皇族の警護を任されていましたが、足利の堀の内(現在の鑁阿寺)に居を移します。また源頼朝のアプローチを得て、頼朝の妻、北条政子の妹・時子を娶り義兄弟の関係を結びます。足利市は南に渡良瀬川、東西や北に山があり守りに適した地形であり、また山が幾重にも重なっているのが地形の特徴で鎌倉から室町時代にかけ、攻め込まれることはありませんでした。

JR両毛線の足利駅から足利市の中心部へ風情ある石畳通りを歩くと先ずは室町幕府初代将軍足利尊氏像が出迎えてくれます。

その先には、幅7mほどの堀と土塁に囲まれた真言宗の古刹、鑁阿寺があります。堀沿いにひと回りするとほぼ800m、方形の敷地面積は約1万2300坪の広大な敷地を持つ。方形の土塁と堀は鎌倉時代の地方武士の典型的な館の姿です。寺名の「鑁阿」は珍しい表記でインドのサンスクリット語でご本尊の「大日如来」を意味しています。創建は建久7年(1196)2代義兼が邸宅内に建てた持仏堂が始まりで、当初は堀内御堂と呼ばれていましたが、義兼亡き後にその法名が寺名となりました。実際に堂塔伽藍を完成させ、足利氏の氏寺としたのは3代義氏の時代になります。

永禄7年(1564)に13代将軍足利義輝によって再建されたという楼門(山門)の両脇には桃山時代の作である仁王像が安置されています。山門から延びる石畳の奥には、木々に覆われて国宝大御堂(本堂)が静かに佇みます。

足利尊氏の父・貞氏によって正安元年(1299)に再建された本堂は、当時では日本に伝わったばかりの最新の禅宗様建築が採用された鎌倉時代の代表的な建築物です。大屋根を見上げると黄金の三つの紋章が輝いています。右が足利家の家紋「丸に二つ引」、左が真言宗醍醐寺の末寺となった名残の「五七の桐」、そして中央が「菊の御紋」です。花園帝の命で、この寺が玉体の安穏などを祈る勅願所とされたことにより足利貞氏が受けたものです。

また屋根には唐獅子の飾り瓦が載り目を引きます。

国宝の大御堂では、大きな鰐口を鳴らして参拝します。実は鑁阿寺は足利氏の居館であったことから日本100名城に選ばれていて御朱印ならぬ御城印が配布されています。徳川家康は、江戸の周囲30里(約120km)にある城の取り壊しを命じましたが、この鑁阿寺は平城様相はあるものの足利氏の氏寺と認め、その姿を残すことになりました。そして現在まで戦災にも合わず、約800年前の面影をのこしています。

足利義兼の創建と伝わる多宝塔。現在の建物は桂昌院が祖先供養のために再建したものです。

一切経堂には、江戸時代に、仏師の朝運とその弟子が制作した15体の「木造 足利歴代将軍座像」が並びます。

境内の太鼓橋を渡った参道の左手にある売店、大日茶屋で、足利シュウマイをいただきます。中身は玉ネギと片栗粉で肉なしのヘルシーシュウマイにたっぷりソースをかけていただきます。ソースが甘くなくてアツアツに蒸したシュウマイが合います。併せて栃木で食べれなかったじゃがいも入り焼きそばもいただきます。

石畳通りの入口にある日本最古の学校として知られる「史跡 足利学校」へ。茅葺き屋根の建物の周囲に堀を巡らせ、その威容は中世の城郭を思わせる佇まいです。これは足利義兼の居館の一部で、家政機関(政所)の跡地といわれていて、応仁元年(1467)上杉氏の家臣で足利荘代官の長尾景人が現在地に移したといいます。この東側の堀は邸宅の外堀の一部です。

足利学校の創建は、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説と諸説ありますが、歴史が明らかになるのは、永享11年(1439)関東管領で足利氏家臣の上杉憲実が荒廃していた学校を再興したころからです。一時は学徒三千を数え、天文18年(1549)にはフランシスコ・ザビエルがポルトガルに送った書簡により「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。平成27年(2009)には、水戸弘道館、備前閑谷学校、日田咸宜園とともに「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されました。

通りの面して立つ入徳門は、足利学校に入る最初に門です。天保2年(1831)鑁阿寺安養院の火災により類焼、その後修復されましたが腐朽し、明治42年(1909)に裏門を移築したものといわれます。入徳とは道徳心を習得する所すなわち学校に入るという意味です。扁額「入徳」は、天保11年(1840)に掲げられたもので紀伊徳川家第11代藩主徳川斉順の書です。

受付で参観料420円を払い入学証を受け取る。受付の向かいには孔子像が立ち入学者を迎えてくれています。

寛文8年(1668)に創建された学校門をくぐります。分け隔てなく万人に向けて開かれていた学問の扉で、足利学校のシンボルとして現代へ継承されています。

正面に見える建物は孔子廟(聖廟)。儒学の祖、孔子を祀る廟で、大成殿と杏壇門・築地塀からなります。寛文8年(1668)徳川幕府4代将軍家綱の時に造営されたもので、中国の聖廟を模したものです。杏壇門の杏壇とは孔子が弟子たちを教えたところに、杏の木が植えられていたことに由来します。

大成殿は正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。正面に孔子坐像、右側に木造 小野篁坐像を安置しています。

木造 孔子坐像は天文4年(1535)作。寄木造、玉眼入、像高78cmで、頭巾をかぶり儒服を着けた姿は「行教像」といわれます。像の内側に墨書きがあり、当時の足利荘代官、長尾憲実など造像に関わった人の名があり、日本最古の孔子の彫像です。

木造 小野篁坐像は永享3年(1746)作。寄木造、玉眼嵌入、像高71.5cmで、足利学校の創建者とする説があります。木造の制作にあたり小野篁の子孫がお金を足利学校に寄付した記述が『足利学校記録』にあります。

江戸時代中期の姿に復元された茅葺き屋根の方丈、庫裡は、学生の講義や学習、食事など日常生活の場に使われた建物です。

書院は庠主(校長)の書斎で、接客や学生に個人授業が行われたところです。通常は中に入れず、日曜論語素読体験や書写体験への参加で入場可になります。

方丈の縁側から静かな南庭園を望みます。足利学校には方丈の北と南それぞれに池のある築山泉水庭があります。南庭園は鶴がはばたくように見える湧水をたたえた池の入り組んだ水際と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。三つの峰を持つ築山は比較的高く、池に映えてよく調和しています。

書院から北庭園越しに孔子廟が望めます。奥の庭として南庭園より格が高く、大きく、形式は南庭園と同じく築山泉水庭です。池は湧き水をたくわえ亀の形の中島を置き、そこに弁天を祀る石祠があります。築山が4つの峰からなり、かつては鑁阿寺の森や遠く両崖山の峰が借景になっていたと思われます。

孔子廟の西隣には歴代の庠主の墓所があります。関東管領上杉憲実は、鎌倉円覚寺の僧快元を招き足利学校中興初代の庠主としました。庠主は廃校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続きました。庠主の石塔が17基あり、多くは無縫塔でそのうちの8基が判読されています。

足利学校は明治5(1872)年に廃校になりましたが、明治36年(1903)に遺蹟図書館が開設され、書物を継承し現在に引き継がれています。現在の建物は大正4年(1915)に建てられました。

織姫山の中腹に鎮座する足利織姫神社は機織りの神様を祀り、西城八十が作詞した足利音頭に『足利来るなら織姫様の 赤いお宮を目印に カラリコトントン カラリコトン 足利絵の街  機の街』と詠われた機織地・足利のシンボルです。

足利織物の歴史は古く、奈良時代(710-784)の初めに足利地方から「ふとぎぬ」を献進したというのに始まり、奈良の大仏開眼の時には東大寺の御料地として織物が送られています。1300年の歴史がある足利織物も守り神として、江戸時代の宝永2年(1705)機織を司る天御鉾命と織女である天八千々姫命の二柱の神を伊勢神宮所管より勧請され、明治12年(1879)現在の地に神社として建立されました。この二柱の神様は共同して織物(生地)を織って、天照大御神に献上したといわれています。

足利銘仙」は、江戸時代から続く足利産の絹を素材にした、先染めの平織物。足利織物の中でも手に入れやすい価格と美しく斬新なデザインで大正から昭和初期の女学生に大変な人気となり銘仙の中では人気を独占したといわれています。

社殿のある境内までは229段の石段を上がる男坂と七色の鳥居をくぐって上る女坂(縁結び坂)とがありますが、先ず参拝は男坂から上っていきます。

229段上れば願いが叶うとされる石段を上った高台に広がる境内は、玉砂利が敷き詰められ、正面には昭和12年(1937)に完成した平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれる朱塗りの社殿が厳かに鎮座されています。

織物は経糸と緯糸が織りあって織物となることことから男女二人の神様をご祭神とする縁結びの神様として知られるようになりました。一説には祭神の天八千々姫命を織姫、天御鉾命を彦星とし、七夕伝説にちなんで恋のパワースポットになったともいえあれています。平成26年(2014)には「恋人の聖地」にも認定されています。境内からは関東平野が一望できます。

帰りは女坂の七色の鳥居をくぐって下っていきます。七色は足利織姫神社の「七つのご神徳」よき【人(赤)・健康(黄)・知恵(緑)・人生(青)・学業'黄緑)・仕事(橙)・経営(紫)と縁結び】をひょうげんしています。

最後の天下とりは全国イルミネーションアワードで、2022年まで7年連続第1位を獲得し、アメリカCNN「世界の夢の旅行先10カ所」に日本で唯一選出された場所「あしかがフラワーパーク」です。

世界が認めた藤棚!春の足柄フラワーパークの大フジを楽しむ」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/10526

 

 

 

 

 

 

 

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