その昔、近畿と東海、さらには北陸を結ぶ交通の要衝として多くの人や物資が行き交った滋賀県長浜は、今もなお人々で賑わい、街は活気に満ちています。そんな長浜のシンボルが「豊臣秀吉の出世城」としても知られる長浜城。小谷城の浅井長政を滅ぼした功により、主君織田信長から湖北三郡を拝領した秀吉は、本拠を小谷から琵琶湖沿岸の今浜に移し「長浜」と改名しました。江戸期には北国街道の宿場町や大通寺の門前町として栄え、その後は日本で5番目に施設された官営鉄道と日本初の鉄道連絡船を利用した商事都市としてその機能を変化させながら発展してきた長浜を長浜城の登城と共に歴史の香りが残る街中散歩に出かけます。
古来より淡海(近江)として親しまれ、かつては近畿と東海、北陸を結ぶ交通の要衡として栄えてきた長浜市は滋賀県の北東部に位置します。伊吹山系の横山岳等の山々と琵琶湖に囲まれ、姉川や高時川、余呉川などによって形成された豊かな湖北平野と湖岸風景が広がる、滋賀県有数の美しい自然景観を誇る町であり、また姉川古戦場や小谷城址、賎ヶ岳古戦場など数多くの戦国ゆかりの史跡が今も残る町です。
JR北陸本線長浜駅から長浜城下町と湖畔散歩は始まります。長浜駅の東口を出ると碁盤の目上に整備した城下町が広がります。駅前にの「秀吉・三成出会いの像」は、長浜で生まれた豊臣政権・五奉行の一人、石田三成が家臣になるきっかけとなった有名な「三献の茶」の様子が再現されています。米原にある伊富貴山 観音護国寺は、平安時代前期建立、鎌倉時代に現在地へ移築された古刹、通称 観音寺。豊臣秀吉が鷹狩りでこの寺に立ち寄った際に、寺の小僧だった石田佐吉(三成)を見出した「三献の茶」の舞台としても名高い寺で、正徳5年(1715)に再建の本堂は国の重要文化財に指定されている。いち早く三成の才を見抜いた秀吉の眼力、そして若き人材を積極的に重用した秀吉の戦略が見えるエピソードです。
長浜の名前は、羽柴(豊臣)秀吉が初めて一国一城の城主となってこの地に城を築いたことに由来します。天正元年(1573)小谷城攻めで、北近江を拠点とする浅井長政を滅ぼした功により、織田信長から浅井氏の旧領を譲り受けた秀吉は、今浜に城を築いて、信長の「長」の文字をとって地名を長浜に改めました。信長の全盛期には安土城、明智光秀の坂本城、織田信澄の大溝城を結ぶ湖上交通網の一角を担ったと考えられます。これが現在の長浜の原型となっていて、軍事よりも経済に主眼を置いた城下町は、現存する〝日本最古の城下町〟ともいわれ、近世城下町づくりの手本になったといいます。
この地は元々、室町期の“婆娑大名”こと佐々木道誉が出城を置いた場所で、秀吉は天正3年(1575)秋頃から天正10年(1582)まで居城しましたが、秀吉の後は清須会議を経て柴田勝家の甥柴田勝豊が入城し、半年後に降伏。その後山内一豊、徳川家康の異母弟内藤信成・信正父子が城主となるも豊臣家が滅亡後、徳川幕府による元和元年(1615)の一国一城令により長浜城は取り壊され、石垣や櫓材などの多くの材料が彦根城の建設のために使われ、一部は城下の長浜別院・大通寺台所門や知善院などに移されました。先ずは長浜のシンボル長浜城へ。
長浜駅西口を出るとすぐ目の前に長浜城の天守が見え、天守を目印に進んでいきます。現在の城跡は秀吉の名を冠した豊公園として整備され、日本さくら名所100選に選出されています。道のりの途中にある緑豊かな公園の中を清々しい気分で歩いていきます。
公園内の石段を上っていった先にある長浜城は、白雲のような城壁は空によく映え、その佇まいは後に天下人となる男の居城にふさわしく威風堂々としています。昭和58年(1983)に三層五階建てのコンクリート造りで建設され、内部は歴史博物館として公開されているが琵琶湖に臨み往時が偲ばれる。外観は低い石垣の上に鎮座した2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で、秀吉時代の風情が感じられる。天正期の城郭を想定し、唐破風がポイントの意匠は、犬山城がモデルとなっています。
豊公園の木立の中には、長浜城天守跡の碑があり、その脇には関白の姿を模した秀吉の銅像がひっそりと立っています。
琵琶湖畔には天正2年(1574)夏に秀吉が長浜城築城を開始した時に掘らせた太閤井戸跡があり、昭和4年(1929)、琵琶湖の水位が下がった時に偶然発見されたそうで、石垣の一部と共に数少ない長浜城遺構です。遠くに竹生島も見え渇水時には井戸跡近くまで行けます。
城下町の面影が残る長浜市街地は、碁盤の目のように通りが並び、各通りでは時代を受け継ぐ様々な物語に出会うことが出来る。まずは鉄道保存展示施設の「長浜鉄道スクエア」がある明治ステーション通りを歩く。明治15年(1882)北陸本線の始発駅とて建設された初代の長浜駅は、現存する日本最古の駅舎として神戸の鹿鳴館と同時期に琵琶湖畔の漁港に建設されたと伝えられている文明開化を象徴する近代化遺産です。イギリス人技師が設計した洋風2階建てで、当時は1階は駅事務所と待合室、2階は敦賀線を管理していた鉄道事務部門がありました。2代目駅舎が現在地に建てられてからは倉庫として使われたりもしましたが、昭和33年(1958)に鉄道記念物に指定され、スクエア内で保存されています。4代目となる現在の橋上駅舎は、2006年に初代駅舎の外観、デザインを取り入れて建てられたそうで、その姿はまさに「瓜二つ」と呼ぶにふさわしいものです。
駅舎内の煤けた白壁や飴色に鈍く光る柱が、歴史の長さを物語っています。また館内に展示されている駅長室や待合室、出札出入口など当時の駅舎が再現されていてその時代にタイムスリップしたかのような気持ちになります。改札口の札が掛かった出口から別の施設へ。まるで鉄道の世界へ出発するかのようで胸が高鳴る。「長浜鉄道文化館」では珍しい珍しい模型車両を数多く展示。「北陸電化記念館」では北陸本線を走っていた「ED70形」と「D51形蒸気機関車」の現物を目にすることができ、その迫力に驚く。
その向かいには明治20年(1887)、地元の豪商浅見又蔵氏が私財を投じて明治天皇が京都行幸の帰路での行在所として建設され当時の総理大臣・伊藤博文が「慶雲館」と命名した建物があり、25周年を記念して明治45年(1912年)、庭匠の七代目・小川治兵衛(植治)により庭園が増設されている。
JR北陸本線の線路を跨ぎさらに進むと長浜の地ビールが味わえる土蔵造りの長浜浪漫ビールを過ぎ、「北国街道」との交差点付近に舟の廃材を外壁に利用した舟坂塀が続く。左折して北国街道に入ると風景ががらりと変わる。そもそも「北国街道(東近江路)」は福井県南越前町今庄から江越国境の栃ノ木峠を越えて中河内(余呉町)を経由し、湖北・湖東を縦断し鳥居本宿(彦根市鳥居本町)の北方で中山道に合流する滋賀県の琵琶湖東岸を南北に進む南北路として発達した道です。安藤家や今重屋敷等、長浜の伝統的商家の軒並みは圧巻です。
北国街道と大手門通りの交差地点にあるのが約30館からなる総称「黒壁スクエア」が広がる。このあたりはガラスショップや郷土料理店等があつまり、新旧の文化に触れられる。中心にあるのは明治33年に建てられ黒壁銀行の愛称で親しまれてきた国立第百三十銀行長浜支店を再利用して造られた「黒壁ガラス館」です。現在は黒壁スクエアのランドマークとして人気を集めています。館内に入るとグラスやアクセサリー、オブジェなどをはじめ、さまざまなガラス作品がならび、1階は国内製の日用品、2階はチェコやトルコ、イタリアなど海外から取り寄せた嗜好品を中心移に展示販売しています。季節に応じてディスプレイを変えているとのことで、どれを手にしても透明感あふれる採光を放ち、涼しげなひとときを演出しています。
隣の「黒壁2號館 スタジオクロカベ」ではガラス職人の作業風景が見られるほか、数々の素晴らしい作品が購入できます。いざ黒壁スクエア散策に出発です。大手町通りを歩きます。
通り沿いには「曳山博物館」があります。京都の祇園祭、岐阜の高山祭と並び日本三大山車祭りのひとつに数えられる「長浜曳山まつり」は、男子誕生を喜んだ秀吉から砂金を振舞われた町人衆が、それを原資に曳山を作り八幡宮の祭礼で曳きまわしたのが始まりです。毎年4月に行われ、総漆塗り、金箔を贅沢に使った曳山は豪快そのもの。豪華絢爛な山車(曳山)の上で5歳から12歳くらいまでの男の子たちが演じる子供歌舞伎で有名なお祭り。 この祭りも、そもそもは領民たちの秀吉への思いから始められたものだという。その「長浜曳山祭り」の曳山が2基展示されています。
「長浜の御坊さん」とも呼ばれ、湖北の人々に愛されている京都東本願寺の別院として名高い「大通寺」に向かいます。「ながはま御坊表参道」を歩いていると、感嘆の声が自然と漏れるほど威厳に満ちた山門がつきあたりに姿を現します。
大通寺は天正時代、湖北三郡の僧俗が、織田信長と戦う大阪の石山本願寺を支援すべく、長浜に造った総会所が始まりで後に長浜城内に伽藍を構え大通寺となりました。総ケヤキ造りの山門は京都の東本願寺と同じものであり、伏見城の遺構と伝えられる本堂や大広間、長浜城の追手門を移築した脇門が眺められる。
広々とした境内に入り、本堂に続いて足を運んだのが本堂と同じく伏見城の遺構といわれる大広間。上段の間とそれを挟むようにして並ぶ床や帳台構、附書院などに花鳥図や人物画が描かれています。その圧倒的な存在感に驚かされるのはもちろんですが、なによりも日本美術の美しさ、繊細さに誰もが心を奪われるでしょう。その他にも建物内には円山応挙や狩野永岳、狩野山楽が筆をとったという襖絵などが鑑賞でき、まるで有名な美術館にでもいるかのような気分になります。また国の名勝にも指定されている「蘭亭庭園」「含山軒庭園」も一見の価値ありです。
祝町通りを歩き北国街道から黒壁ガラス館1號館に戻ってきますが途中には、和菓子の「叶匠寿庵」20號館や「ステンドガラス館」11號館、軒先から大きなひょうたんがぶら下がっている「太閤ひょうたん」12號館といった個性豊かなお店が点在しています。
黒壁ガラス館1號館の斜め向かいには街の統一カラーの黒い建物「札の辻本舗」5號館があります。懐かしい雰囲気の漂うお店では、日本独特の情緒と手作りの優しさがある和ガラスと長浜周辺の観光物産店から様々な名産品が集まり、珍しいお土産が満載です。
食事は北国街道が店の前を通る町筋にある「手打ち蕎麦 みたに」へ。長浜といえば「翼果楼8號館の焼鯖そうめん」や「鳥喜多本店の親子丼」(2013・9・15放映ドライブGO!GO!)「茂美志屋ののっぺいうどん」 といった名物があるが今日はお蕎麦をいただきます。店の造りはいたってシンプル。インテリアは、土と木の香りが醸し出す質感が漂っています。主人は「土山人」で3年の修行を経て2007年10月に店を構えました。
殻付きの玄そばを二度挽きする「粗挽き田舎」を注文。田舎そばは少し太めでモチっとした食感のところが多いのであまり好きでないのだが、ここの蕎麦は少し硬い感じはするが濃厚な風味は生きており細めなので咽越しも悪くない。最初の一口はそのままに、二口目は塩でいただく。利き酒ならぬ利きそばといったところです。そばがいっそう甘く感じる。三口目はわさびのみで、四口目でさっぱりとした辛口のつゆでいただいた。まるで名古屋の「ひつまぶし」のようで、あっというまに完食したのでした。
大手門通りをJR長浜駅方面に戻り、豊国神社へ。豊臣秀吉の3回忌にあたる慶長5年(1600)に、長浜町民たちの手によって建設されたその名が示す通り〝豊臣秀吉〟を祀る神社です。豊臣家滅亡後、 江戸時代には、豊臣家の復興を恐れる徳川家康によって参拝を禁じられていたため徳川幕府により全国の豊国神社が次々と解体される中、秀吉を慕う町民は、商売の神様である恵比須様を前立に、奥殿に秀吉像をひそかに祀り、カムフラージュを施して長い江戸時代を過ごします。幕府に逆らってでも信仰を守った 秀吉への思い、長浜で受け継がれてきた〝隠れ秀吉信仰〟の形が 明治31年(1898)の秀吉300回忌に社殿を造営、現在の豊国神社の形となりいました。
境内には出世稲荷社があり、究極の出世人・秀吉公に運にあやかります。
JR北陸本線を再びくぐり豊公園に隣接する和風料亭旅館「浜湖月」へ。秀吉の居城・長浜城跡から湧き出ることから、長浜太閤温泉として長年“子宝に恵まれる湯”として親しまれている。鉄分を多く含んだ炭酸総鉄イオン泉で芯から温まるため冬場でも湯冷めしにくいのが特徴です。
最上階にある展望大浴場には、信楽焼の露天風呂があり、琵琶湖を一望しながら寛げます。