湯煙に漂う芭蕉の息吹。肌磨く1300年の古湯・那須湯本温泉

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噴煙を上げる活火山・茶臼岳を踏破したあとは、山麓の温泉へいざ。故深田久弥氏が著書『日本百名山』で記したように、那須七湯(湯本、北、弁天、大丸、高雄、板室、三斗小屋)は、まさにこの火山脈の賜物です。さらに同著にあるように、こうした温泉を拠点に山歩き楽しめるのが、まさに那須の魅力です。さっぱり汗を流し足の疲れをほぐして日帰りハイキングを締めくくるのは気分爽快ですが、もちろん一泊できれば、もっといいです。

那須湯本温泉は7世紀前半、約1380年ほど前の奈良時代、第34代舒明天皇の御世の開湯と伝わる那須で最も古い温泉で、日本屈指の古湯です。江戸時代にはすでにわが国を代表する温泉場であったことが、当時の温泉番付を見るとわかります。東の最高位である大関の草津に次いで、那須が関脇にランクされています。那須湯本温泉の源泉でもある共同浴場「鹿の湯」は、狩野三郎行広という者が山狩の際、射損じて逃げる白鹿を追って山奥に入ると、白鹿が傷ついた体を温泉で癒していました。そこで鹿によって発見されたことから名付けられました。

林羅山の弟子で水戸藩主にも講義をした人見卜幽輔の『那須山温泉記』によると、江戸前期にはすでに鹿の湯気源泉を中心に、百戸程の家屋と「六橋六槽」、山峡の湯町を流れる湯川の両岸に六槽、つまり六つの浴場とそれを結ぶ六つの橋がかけられていたといいます。ところが安政の洪水で湯川沿いの家屋は流出し、湯本の中心は温泉神社の参道であった高台に移転し、かつての渓谷の底の湯町は現在、民宿街になっています。

鹿が傷を癒したと伝わる自然湧出した那須発祥の湯、「鹿の湯」の白濁した単純酸性硫黄泉の力強い湯に名湯の名を実感します。江戸時代には多くの大名が湯治に訪れ、松尾芭蕉も立ち寄ったと言われています。

もうもうと煙を上げる湯川のほとりに那須温泉の元湯があり、硫黄の香りが、風に運ばれてツーンと鼻孔をくすぐり、まさに天然の霊泉らしい風情が漂っています。明治時代の建造というひなびた木造の建物は、はるか昔にタイムスリップしたかのような錯覚を起こさせるほどです。

浴場は板張りで、昔ながらの湯治場の風情が漂います。泉質は酸性・含硫黄・カルシウム・硫酸塩・塩化物泉で、湯は白濁し、湯口は湯の花で黄色に染まっています。素朴な浴室には78度という高温の源泉を41~48度まで1から2度ずつ調整した温度の違う湯船が6つ(女湯は5つ)あり、好みの湯船が選べます。カンフー映画「少林寺三十六房」のごとく次から次へと熱い湯に挑戦していきましたが、独特の入浴法が受け継がれていて、その名残が、温度差をつけた浴槽がいくつも並んでいる理由です。まず手拭いを被った頭に100回ほど湯をかぶり、次に2~3分の半身浴のあと休憩を取り、今度は全身浴で2~3分。これをワンセットとし、2~3度繰り返す。“短熱浴”と呼ばれる入浴法で、かぶり湯は専用の湯で、半身浴と全身浴は自分の体調にあった温度の湯船に繰り返し入る。時間を正確に計るためのマイ砂時計、かぶり湯用マイ手柄杓、水分補給のためのペットボトル持参の常連客も多いです。

この日はここちいい41度、ちょいあつめの42度、あつめの43度、あつあつの44度、そして最奥に鬼あつの46度と地獄の48度が待っていました。と本来ならの湯加減なのですが今日は台風の影響で湯温が下がり、48度の湯船が最適温度でした。

鹿の湯のある湯川の上流、道路を渡った先には、九尾の狐伝説にまつわる「殺生石」と硫黄臭漂う「賽の河原」史跡を覗いてみます。付近一帯は硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山性ガスが噴出し、鳥獣がこれに近づけばその命を奪うと、昔の人々が「生き物を殺す石」だと信じたことからその名があります。実は元禄2年(1689)に、俳聖松尾芭蕉は鹿の湯源泉で湯浴みをしています。『おくの細道』の旅で那須に二日滞在し、芭蕉と曾良は元湯(鹿の湯)の上手、佐阿弥の作といわれる謡曲「殺生石」舞台を訪れています。奥の細道にその様子が記され「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」と死の描写からもうかがえます。岩場の一角に芭蕉の「石の香や夏草赤く露あつし」の句碑がたっています。

伝説では鳥羽上皇が寵愛したという伝説の女性、玉藻前に化けて、多くの人々の命を奪い、人の世を終わらせようとしていた九尾の狐が、正体が妖狐の化身であることを陰陽師・阿部泰成に見破られ、逃げた先の那須の地で、三浦介義澄、上総介広常によって討伐されて石になったという逸話があります。しかし石は毒を発して人々や生き物の命を奪い続けたため「殺生石」と呼ばれるようになりました。至徳2年(1385)に泉渓寺の源翁和尚によって三つに打ち砕かれ、ひとつはここに残り、残り二つが備後と会津に飛散したといいます。

「殺生石」に行くまでも見どころがあります。途中おびただしい数のお地蔵様と出会います。「千体地蔵と呼ばれ約800体並んでいて、一人の石工職人によって作られたといいます。全員ごつくて大きい手で拝んでいるのが特徴で、親不幸の天罰でここで亡くなった教傳という小坊主を供養するために建立されたといいます。

その昔五左ヱ門という湯守が盲目の大蛇と出会い、冬を越すための小屋を作ってあげました。その後大蛇は見つからず、代わりに湯の花があったという伝説があり、村人は大蛇に感謝をして、蛇の首に似た石を「盲目蛇石」として大切にしていたそうです。

殺生石園地から横道を進んでいくと小高い丘の上にあり「那須温泉神社」の敷地の奥に着きます。敷地内には「九尾大明神」が祀られています。

表参道から鳥居をくぐって参拝すると正面に「那須温泉神社」が鎮座しています。創建は第34代舒明天皇2年(630)、茗荷沢の住人、狩野三郎行広が白鹿を追っていた最中、雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷に湧く温泉を見つけたことに由来します。昭和天皇のお手植えの五葉松や昭和天皇が那須岳(茶臼岳)のことを詠まれた歌碑があります。

約1万坪もの広大な境内を持つ那須温泉神社は『平家物語』で有名な那須与一が屋島の戦いの折、波間に揺れる扇の的めがけて弓の矢を放つ時、「那須の温泉大明神、願わくばあの扇の真中射させたばせ給え」と念じたというパワースポットとしても人気の場所です。松尾芭蕉も殺生石を一望する温泉神社に参拝し、「湯をむすぶ誓もおなじ石清水」と詠んでいます。

そんな鹿の湯の名湯かけ流ししで注がれているのが、「那須高原ホテルビューパレス」の露天風呂です。「鹿の湯」で温まった体が冷え切らないうちに宿の湯を楽しみます。白く濁り少しとろみのある単純酸性硫黄泉は、湯に入ると少しピリッとして、その後ヌルヌルとしてきます。殺菌力や解毒作用が高いとされ、様々な健康増進効果が期待できるほか、美肌効果も期待できます。決して広くありませんが木々の緑がせまる癒しのひと時を与えてくれます。

内湯は小さくかけ湯もしくは仕上げの湯という感じです。

その昔、湯治客は異なる泉質の温泉を渡り歩き、温泉の効能を余すことなく利用していました。そんあ「渡り湯治」ができるのも温泉大国である日本だからこそ、肌を整え、美食で胃袋を満たす、なんとも嬉しい那須の旅です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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