柴田勝家から越前松平氏へ。越前福井で北ノ庄城の変遷を見る

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戦国時代、天下統一を目指す織田信長の下、北陸方面軍の司令官として北陸の平定と統治を委ねられた柴田勝家。織田家の重臣として武功を重ね、越前の戦国大名・朝倉氏を一乗谷に滅ぼした後、北の庄(現福井市)に城を築き、国造りに力をいれました。福井市の礎を築いた柴田勝家の足跡を辿りながらとその後の越前松平家の福井城へとタイムスリップする旅に出かけます。

福井市内の足替わりになるのが福井鉄道福武線で、福井市の田原駅と越前市のたけふ新駅を結んでいます。鉄道区間と路面電車区間にまたがって走行している全国的にも珍しい路線です。路面電車区間は福井市中心部を通っていて郊外を走る電車がメインストリートの真中に乗り入れています。

福井駅周辺の中央大通りを横切り、ガレリア元町アーケードを過ぎると現れるのが「北の庄城址・柴田公園」です。平成5年からの発掘調査によって朝倉氏滅亡後織田信長から越前8郡49万石を拝領した柴田勝家が、越後の上杉謙信に対抗するのが目的で、天正3年(1575)に築城を始めた新城は、経済発展の観点からも山間の一乗谷ではなく、足羽川と吉野川(のちの百閒堀)の合流地点を背にした場所に自ら縄張りをして築城されました。これが足羽庄という荘園がある足羽川の北にあったことから北ノ庄という地名から名付けられた北ノ庄城で織田家の北国支配の拠点となりその遺構の上に整備された公園です。

天守閣は7層または9層あったとされるほど巨大な近世城郭で、屋根は総石葺で笏谷石の青緑色だったといいます。笏谷石は緑色凝灰岩で、その美しい色合いから越前青石との呼ばれ、柔らかい石質のため加工しやすくこの地域では古くから使われる伝統的な石です。北陸唯一の現存天守が建つ丸岡城や福井城でも笏谷石が用いられています。また発掘された石垣石も地元の福井市の足羽山一帯で採れる笏谷石が使われていています。

園内には堀跡や石垣の一部が復元され、石列も見られます。堀跡の堀は2段に掘り込まれる構造で、上段のみに石垣が築かれていました。

公園内の正面には勇壮な姿の田勝家の銅像があります。銅像前には、発掘で発見された石垣の根石が保存されていて、足羽川に近いところに城があったようです。また2段に組まれた台座の石垣は、福井城本丸の地中から発掘されたものを利用して積み直した石垣です。

天正11年(1583)4月勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、妻・お市とともに自害し落城しました。公園に隣接して建つ柴田神社は、北の庄城落城後、石の祠に勝家の霊を祀ったのが始まりといわれ、明治時代その石祠の場所に旧福井藩主・藩士らが中心となって柴田神社を造営し、勝家とお市が祀られています。本殿は北の庄城の天守があった場所とされています。

柴田神社の奥には「三姉妹神社」があり、浅井長政とお市との娘、茶々、初、江の三姉妹が祀られています。茶々は後に豊臣秀吉の側室となり秀頼を生んだ淀の方であり、初は京極高次(若狭国小浜初代藩主)に、そして江は徳川二代将軍秀忠に嫁いでいます。

また参道の向かいには、お市と三姉妹の銅像が建てらています。奥にお市の銅像がありますが、左から茶々、江、初とい並んでいます。

公園脇には朝倉時代にもあった九十九橋を柴田勝家が半石半木の橋として北陸道と足羽川が交わる地に架けたと伝わり、勝家公の事績として復元されています。江戸時代前期の貞淳2年(1685)の『越前国地理指南』では「大橋 長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋四拾一間」と記載されています。また半石半木の珍しい橋として全国的にも知られていました。欄干部分は往時から残されていた旧石材が使用されています。

この地の北、現在県庁が建つ場所に福井城址があります。江戸時代に福井藩庁だった福井城の本丸は福井県庁となり、今も行政の中心地です。いざ登城ならぬ出勤です。徳川時代に結城秀康が造営した福井城は北ノ庄城の遺構を改変して造営されていて、続日本100名城に選ばれています。

徳川家康の次男結城秀康は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦後に越前北ノ庄に68万石で初代福井藩主となり、翌慶長6年(1601)に下総・結城城から越前に入国しました。

同年から68万石にふさわしい城にと天下普請による6年がかりで、かつての北の庄城の大修築を行い、慶長11年(1606)に福井城が完成しました。大修築後の福井城は、南側を流れる足羽川を外堀として、最大幅が100mにも及ぶ百閒堀(外堀)をはじめ、2km四方に及ぶ四重、五重の水堀に囲まれた広大な環郭式平城で、天守台を含めると高さが約37m、四層五階の天守がそびえていました。三層櫓が2基、二層櫓が1基、他にも櫓門(瓦門)と多聞櫓があったといい、その石垣には北の庄城の石垣石が転用されたといいます。写真は本丸南側の石垣と水堀です。

寛文9年(1669)に発生した大火により多くの櫓や城門とともに天守も消失してしまいましたが、一帯には今も天守台などの遺構が残ります。本丸内には、政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積1千坪を超える御殿がありました。歴代藩主の内、昌親(のち吉品)・重富・治好・慶永(春嶽)・茂昭の5代の時代は、藩主の住居であった御座所が西三之丸にあった時代で、藩主が御座所から政庁のある本丸へ渡った西側のお堀に架かる藩主専用の橋「御廊下橋」が2017年に復元されています。内堀にかかる屋根付きの橋が印象的で、本丸への重要な通用口だったことが想像できます。

本丸の西側にあった西二ノ丸(山里丸)から御廊下橋を渡った入口に設けられた城門が「山里口御門」です。福井城本丸の西側を守る門として築城当時からあり、「廊下橋御門」や「天守台下門」とも呼ばれていました。山里丸と呼ばれた西二の丸と本丸をつなぐ門として築城時に建てられました。寛文9年(1669)の大火で天守もろとも焼失してしまいますが、再建されてからは明治維新まで存在していたとのことです。

かつて藩主の住居である御座所は本丸にありましたが延宝3年(1675)5代藩主・松平昌親が本丸西側の内堀を隔てた西三の丸(現中央公園)に移しました。文政13年(1830)14代・斉承が本丸に御座所を戻しましたが、16代・慶永(春嶽)が再び西三の丸に移しています。松平春嶽の頃には御廊下橋を渡って里山口御門をくぐり本丸へ向かっていたと考えられ、藩主が通った登城道が再現されて通ることができます。

山里口御門はその構造と向きの異なる約3.5mの高さの棟門と二階建で約8mの高さの櫓門とで構成され、棟門を通過したところに方形の枡形という空間を作り、その先に櫓門を構えた枡形門形式を成しています。枡形門を更に石垣と土塀が囲む厳重な構造です。

棟門は枡形に入る最初の門で2本の柱とその上部を連結する冠木で切妻造りの屋根を支える構えをしています。門扉や門を支える柱などには欅材を用いています。土塀の屋根には瓦が葺かれ、腰板石が張られていました。櫓門は高石垣に挟まれた場所に建っていて、門の上に櫓を設けた木造二階建て切妻造、本瓦葺、上階の外壁は漆喰で仕上がられています。桁行10.46m、梁間5.46m、高さは8.41mに及ぶ大きな構えをしています。写真は山里口御門の枡形内です。

櫓門の屋根に葺かれているのが北の庄城でも見られた笏谷石製の瓦です。城内の石垣も、笏谷石が使用されていて、どこか青緑色の趣ある色合いをしています。

福井城の石垣の積み方は、堀に面した石垣に見られる四角く成型した打込接と、瓦御門周辺などにある、精密に削り込み隙間なく積み上げた切込接の2種類で、いずれも横に目地を通した布積みが特徴です。天守台の石垣も美しく加工された切込接になっています。写真は天守台の虎口です。

天守跡には、慶長11年(1606)に完成したとみられる、68万石、御家門という福井藩の権威を象徴する、四階五層の天守(高さ約30m)が建っていました。1669の大火で焼失し財政難もあり再建されることなく現在も大きな礎石が残っています。

天守台に隣接する小天守台が大きく崩れているのは昭和23年(1948)の福井地震によるものです。小天守台の脇にある井戸は「福の井」といわれ、築城当時から現在の場所にあったと考えられ、城外へ逃げるための抜け道があるとの言い伝えがあった城内の特別な井戸として扱われてきました。これが「福井」の地名の由来となったといいます。またもとの「北ノ庄」という地名が敗北を連想するものとして嫌われ、寛永元年(1624)3代藩主・松平忠昌が縁起のよい「福の居る場所(=福居)」に改めたという説もあります。

福井市内の城郭めぐりも終わり福井駅に戻り駅弁といえば「かにめし」を買って電車に乗り込みます。

 

 

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