福井市の中心部から東南約10km離れた山中に忽然と現れる戦国期の居館と城下町で構成される「一乗谷朝倉氏遺跡」は、戦国大名の暮らしと風情を今に伝える全国でも稀有な戦国城下町遺跡。越前を治めた朝倉氏5代が、103年にわたって築いた京や堺に次ぐ繁栄を誇った巨大な中世都市です。天正元年(1573)織田信長により町は3日3晩焼き尽くされて灰じんに帰しましたが、約400年にわたり埋もれていたため城下町全体が良好に保存されていました。昭和42年(1967)から本格的に始まった発掘調査で町並みがほぼ完全な姿で発掘され、最盛期には1万人が住んだという京の都に匹敵する町だったことが明らかになりました。日本100名城に選出されている戦国大名・朝倉氏の栄華と衰退を物語る居館と城下町を訪れます。
「一乗谷朝倉氏遺跡」の訪問を兼ねて福井で北の庄城跡・福井城址とお城めぐりをする青春18きっぷでの鉄道旅を楽しみます。10:00大阪駅発で敦賀まで出るには、湖西線利用より東海道本線から米原経由で北陸本線に入り敦賀を目指すルートを駅員さんに推奨されました。13:15に敦賀に着き、13:40発福井行きに乗るため、大急ぎで改札をでた1Fにある駅弁売場で敦賀の有名駅弁の「鯛の舞」を購入します。製造元の塩荘は1903年創業。当時の敦賀町長からの要請で初代塩屋荘兵衛が駅弁事業を始めたといいます。昭和11年(1936)、3代目荘兵衛が試行錯誤の末に鯛鮨を完成させ、「元祖鯛鮨」として塩荘の看板駅弁となり、鯛の舞はその伝統の味を受け継いでいます。
長方形の杉の木箱のフタを開けると、寿司飯の上に小鯛の切り身が隙間なく敷き詰められています。白や銀色に輝く押しずしは気品があり、華やか。小鯛は若狭湾近海で獲れたレンコ鯛を3枚におろし、薄塩で〆てしっかりした身は食べ応えがある。福井県産のコシヒカリと華越前をブレンドし、自社の敷地で汲み上げた扇状地伏流水の地下水で焚き上げたご飯に、オリジナル調合の酢を合わせた寿司飯はほんのり甘く、レンコ鯛とよく合い上品な味です。杉箱のさわやかな香りもおいしさに一役買っています。
一乗谷に行くには、越美北線(九頭竜線)に乗り換えるため福井駅のひとつ手前越前花堂駅で乗り換え、越前大野行きに乗車します。越美北線(九頭竜線)は、越前花堂駅と九頭竜湖駅間の52.5kmを結ぶ非電化単線の盲腸線です。しばらく田畑広がる福井平野を東に走り4つめの「一乗谷駅」でおります。この時すでに15:10です。
一乗谷駅から一乗谷朝倉氏遺跡までは約1.5kmということで一乗谷川をさかのぼっていきながら歩いていきます。駅から徒歩5分の朝倉資料館前バス停から乗車5分で一乗谷朝倉氏遺跡にいくことができますが、下城戸を見学することができないのです。
一乗谷の朝倉氏は、但馬国朝倉(現在の兵庫県養父市)の豪族でしたが、南北朝時代に越前国守護の斯波高経の被官として朝倉広景がこの地に入ったといいます。応仁の乱などを経て朝倉孝景が越前の守護代から守護大名となり、一乗谷を拠点に越前支配を強めていきました。一乗谷に家臣を集めて城下町を造ったことに始まり、そして戦国大名と進化していくなか5代103年にわたって中世越前の中心として発展しました。
一乗谷は、北へ向かって流れる足羽川の支流である一乗谷川に沿って形成した北以外の三方を山に囲まれた長さ約1.7km、幅約500mの細長く延びている谷あいにあります。福井平野から山地に入ってすぐの好立地で、北には美濃街道が通り、南には府中守護所のある武生に通じる朝倉街道が整備されていました。一乗谷への両側の入り口には、谷の前後を遮断するように南端に上城戸、北端に下城戸と呼ばれる防御の塁を設け、二つの城戸に挟まれた城戸ノ内に、朝倉氏の居館や武家屋敷、町屋や寺院が区画整理されて広がっていました。住居部分の館の背後の東南の一乗城山(標高473m)には有数の畝上竪堀をもつ一乗谷城が控え、その周辺の山々にもいくつもの城砦を配置して、谷全体を守っている城塞都市で規模は約278haにも及んでいました。見所はたくさんありますが、中でも必見は“遠見遮断”と呼ばれる道路の構造です。通りの北端からは南端はすっきりと見通せるのに、南端から北端は見えません。侵入者には見えにくく、守る側からは見通しがよい造りになっています。天正元年(1573)織田信長の軍勢に焼き払われてから、約400年の時を経て地中から蘇ったのです。
駅から足羽川沿いに歩き、一乗谷川との合流から右折し、川沿いに歩いていくと、一乗谷の北、東西の山の間隔が約80mと最も谷幅が狭まるところにに築かれた「下城戸」にぶつかります。防御の工夫が感じられ、幅約10m、深さ約3mの水堀と幅約15m、高さ約4.5m、長さ38mの土塁が残り重さ40tを超す巨石を組んだ直角に折れ曲がる枡形虎口が作られた通路跡が残っています。
しばらく川沿いを歩くと右手にところどころ四角い跡地のようなところがある野原がみえます。当地は「一乗谷古絵図」によれば朝倉式部大輔景鏡の館があったところと推定されています、景鏡が朝倉家最後の城主義景の従兄弟にあたり、朝倉一族の中でも特に地位が高く、大野郡司も務めていました。屋敷の南北に外濠と土豪がめぐり、敷地の規模は5000㎡以上と朝倉義景館に次ぐ広さです。
さらに一乗谷川に沿って歩いていきます。
老舗料亭「開花亭」が手掛ける大人のレストラン、一乗谷レストラント前バス停の斜め前方は「平面復元地区」となっています。南北に走る幹線道路を中心にまちが形成された地区です。西の山際には多くの寺院跡があり、土塁、柿経、卒塔婆や墓地などが見つかっています。また道沿いには、大甕を並べた紺屋をはじめ、数珠屋、鋳物師、檜物師、刀研ぎ師などの職人の家や坪庭のある医者の家が建ち並んでいました。
小さな一乗谷川を挟んだ向かいには、代表的な撮影スポットとなっている一乗谷のシンボル「唐門」を備え、濠と土塁に囲まれた朝倉館跡があります。唐門は朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の山門であると伝えられ、現存するものは江戸時代に再建されたものと推定されます。
門表には豊臣家の五三の桐の紋と朝倉氏の三ッ盛木瓜の家紋が彫られています。
唐門を抜けたところが、朝倉氏5代目・朝倉義景が暮らした朝倉館跡で、京都の将軍邸とよく似た建物群の配置が特徴です。城下町のほぼ中心に建てられ、この館で政治などの諸事を行っていたと考えられます。三方を巾8m、深さ3mの水掘と厚いコの字形の土塁で厳重に守られ、唐門をくぐれば、16棟もの屋敷跡の礎石が整然と並んでいて、格式の高い屋敷が建っていたことを物語っています。南北2つの区画の分けられた朝倉館の敷地は約6500㎡もあり、主殿、会所、茶室、日本最古の花壇のほか台所、厩、蔵などが整然と配されていました。奥には花壇として日本最古の遺構といわれる「花壇跡」があります。
都に近く、戦乱で荒廃していた京都から公家、僧侶、文人たちが集まり、周防の大内、駿河の今川、そして越前の朝倉の戦国三大文化とも呼ばれる、文化水準の高い場所であったことがうかがえます。朝倉氏の館には飛鳥井雅康や宗祇など京や奈良から多くの文化人が訪れ、栄華を誇りました。主殿では後の15代将軍足利義昭が訪れたときに豪華な宴が繰り広げられたといわれています。
東の山際にある館跡庭園は、池庭、平庭、花壇から構成される庭園で、力強い滝石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との交流が偲ばれ、朝倉館の格式の高さを象徴しています。
朝倉館跡を見下ろす高台には、趣の異なる庭園に出会います。平らな石がほとんどんなく、まっすぐに立てた石を亀や鶴、三尊仏に見立てて数多く配置した「湯殿跡庭園」をはじめ「諏訪館跡」「南陽寺跡」「義景館跡」の発掘された4つの庭園が、室町時代末期の庭園の様式を伝える貴重な事例として国の特別名勝に指定されています。とりわけ「諏訪館跡庭園」のある諏訪館は朝倉義景の側室「小少将」の館で、その池泉回遊式庭園は遺跡の中でも最も規模の大きいものです。中心の4m余りの巨石は、滝石組をなしており、全体に水平感と垂直感を基本にして安定感のある構成になっていて戦国時代では第一級の豪華さです。
館の東南の隅に「朝倉義景墓所」がります。江戸時代の初め頃造られたと思われる石造りの墓です。義景の法名は松雲院殿大球宗光大居士といいます。
朝倉館の暮らしを感じたら、次は南北約200mの道を中心に、大小の武家屋敷や商家が軒を連ねる中世の町並みにタイムスリップです。発掘調査や参考資料などから得られた結果を基に、武家屋敷と職人等の町屋を復原したのが「復原町並」です。ここでは塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路をはさんで武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子がリアルに再現されています。地下に残されていた塀の石垣や礎石は発掘された当時のものを用い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づき忠実に復原されています。土塀が続く道を歩いていると、戦国時代に紛れ込んだような気になります。興味深いのが中・下級武士の屋敷にも茶室が備わっていることです。応仁の乱で荒廃した京都から公家や文化人を多数迎え入れた雅な文化がこんなところにも広く浸透していたことがうかがえます。職業や身分の異なる人々の営みを感じながら歩いてみます。
復原町並を出る時に思い出したのがソフトバンクのCMです。白い犬のお父さんの故郷が一乗谷という設定のためここで撮影されたのは2010年冬でした。
一乗谷駅近く、安波賀中島町の水田から足羽川に沿って存在した川湊の一角が、2022年10月に開館した福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館建設の事前発掘調査で2017年に見つかりました、この辺りには戦国時代に一乗谷の交易拠点であった、阿波賀という地区があり、それを示す大型の石敷遺構です。博物館1Fの遺構展示室で見られ、また朝倉館の一部が原寸で再現されています。
一乗谷駅に戻り福井駅行きを待ちますがその前「結の故郷 越前大野」行きが先にきました。
遺跡が物語るように栄華を誇った一乗谷は、織田信長によって焼き討ちに遭い、その後、越前国の中心は現在の福井市の中心部「北ノ庄」に移されたため、一乗谷は手付かずのままになりました。明日は北ノ庄城の変遷を見るお城探訪で福井駅に向かいます。「柴田勝家から越前松平氏へと。福井市で北ノ庄城の変遷を見る」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/313