
“太閤さん・秀吉の城”として親しまれている日本100名城・大阪城は実は3代目。初代は豊臣秀吉が築いた大坂城で天守は五重六階地下2階、黒漆塗の下見板張、金箔瓦の望楼型天守でした。2代目が慶長20年(1615)の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川秀忠の命により、秀吉の大阪城の城地に盛土をしてその上に築かれたまったく別の城。石垣も堀も現存する櫓もすべて徳川幕府によるもので、秀吉時代の大阪城は地下に眠っています。五重五階地下1階、白漆喰塗籠、瓦葺きの層塔型天守でした。現在の天守は昭和6年(1931)に初代をモデルにして建てられた復興天守です。豊臣と徳川、二人の天下人の城が共存する大阪城を舞台にした栄華盛衰を歩いて思い描きます。
室町時代、本願寺の8世蓮如が大坂上町台地に建立した石山御坊。これがのちに本願寺の本山となり、堀や土塁を備えて城郭化し、大坂城の基礎となります。織田信長は交通の要衝であったこの地に早々に目を付け、11世顕如に明け渡しを要求。これを機に始まったのが、浄土真宗本願寺派と信長による石山合戦です。和睦が成立したのが約11年後の天正8年(1580)で、本能寺の変を経て信長の後継者となった豊臣秀吉は、信長の構想を受け継いで本能寺の変の翌年、天正11年(1583)にこの地に大坂城を築きました。写真は豊国神社の鳥居前に立つ小田原合戦時をモデルにした豊臣秀吉公銅像。
秀吉は築城当時天下一とされた安土城を上回る城を目指し、堅固で壮麗な大坂城を築きました。金箔瓦を施した外観5層の大天守や千畳敷の御殿などが立ち並ぶ5つの郭と、城下町を外濠で囲む惣構えの壮大な城でした。が、栄華の象徴も慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家滅亡とともに焼失しました。
元和5年(1619)大坂を訪れた徳川二代将軍秀忠は、基本設計である縄張りを築城の名手・藤堂高虎に任せ、翌元和6年(1620)西国への備えとして大坂城の再構築に取り掛かります。天守・櫓・石垣すべて豊臣時代の倍増を目指せとの通達で、旧本丸を1m~10mほど大量の盛土で埋め、堀を広げるなど縄張りも大きく変更されました。現在の徳川大坂城も豊臣大坂城に劣らず見事で、江戸幕府の威信をかけた城だけのことはあり、スケールの大きさも技術の高さも群を抜いています。本丸や二の丸の配置や堀の石垣など、秀吉の大坂城を超える規模でした。天守は寛文5年(1665)に落雷により焼失しましたが、鳥羽伏見の戦いや太平洋戦争の戦火を逃れた大手門や千貫櫓など13棟が今も残っています。
特に見どころの一つは「天下普請」で築かれた最高峰の石垣です。六十三藩、そのほとんどが豊臣恩顧の外様大名で秀吉のもとで築城の技術を磨いた西国の大名が結集しました。石高に応じて分担する割普請で、総延長12km、高さ最大32mの石垣を築いています。『大坂築城丁場割図』にはどの大名がどの部分を担当したのかが詳細に記され、例えば加賀119万石・前田藩は、外堀の4ヵ所で計559間9尺(約1km)を割り当てられました。工期は第一期開始が元和6年(1620)3月1日で外堀(東・北・西)の石垣、第二期開始が元和9年(1623)8月で内堀の石垣、第三期が寛永5年(1628)南の外堀で、寛永6年(1629)大坂城は完成しました。
第一期工事では各大名が目立つことを優先し、巨石競争や、豊前小倉藩主・細川忠興のように『石垣のうち晴れがましき場所を所望する』と訴え、西の丸西北大隅を担当しました。この場所は、大坂城二の丸の西に位置する西外堀で、南が大手口、北東が京橋口です。石垣の総延長は約1.5km、堀の最大幅は約75mあります。幕府の命令によって動員された大名は29家。乾櫓が建ち、近くを通る京街道からの眺めがよい場所です。
第二期工事の内堀構築では、石材の規格を統一し、面三尺~二尺6寸(縦横78cm~90cm)、長さ9尺~8尺(2m40cm~2m70cm)とする石垣普請発令をだしています。第1期では角石の勾配はまちまち、形も乱雑で隙間がみられましたが、整った布積みが見られます。石垣で日本一の高さを誇る約32mの内堀に面した本丸東面の高石垣は芸術品のようです。動員された大名は59家で、総延長は2.7km、東側石垣の高さは水面から24mに達します。本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟、2層の櫓が2棟そびえていましたが、明治維新の大火で焼失しました。
大坂城の弱点となる南を守る南外堀は、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口です。石垣の総延長は約2㎞、堀の最大幅は約75mあり、寛永5年(1628)の第三期工事で動員された大名は57家。写真南外堀二の丸に積まれた石垣は手前の石垣から筑前福岡藩・黒田家、現存する六番櫓が建つ石垣が因幡鳥取藩・池田家、その奥が岡山藩・池田家、最奥が備前津山藩・森家の割普請ですが、各藩の角石は途中から立ち上がる反勾配まで全く同じで石垣に隙間もありません。かつては内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで7棟の隅櫓がずらりと並んでいましたが、現在は一番櫓と六番櫓だけが残っています。
南東の外堀にある一番櫓左手の58号壁は、左隅部から伊勢津・藤堂家、讃岐高松・生駒家、美濃八幡遠藤家、近江大溝分部家、大和高取本多家、豊後小倉・細川家の6家が築いた丁場で、各大名がバラバラに積むのではなく、歩調を合わせて一段ずつ積んだことが分かります。
地下鉄谷町線の谷町四丁から見事な高石垣と静かに水を湛える堀とに圧倒されながら大手門まで徒歩15分ほど。大手門は城の正門で、寛永5年(1628)創建の高麗門形式がみどころ。屋根は本瓦葺、扉や親柱は黒漆総鉄板張で間口部の幅は約5.5m、高さ約7.1mです。先ずはここからゴールデンルート(約3km)に沿って大坂城を楽しみます。
大手門の左に接続する大手門北方塀連なるのが千貫櫓(左)と多聞櫓(右)です。大手門北側の石垣は第1期工期で積まれたもので石の形や積み上げ方が不揃いで目地が横に真っ直ぐに通っていません。千貫櫓は大手口を北から防御する重要な役割を果たした二層の隅櫓で、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができました。創建は元和6年(1620)9月13日と部材に墨書があり、二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物で、いずれも工事責任者は小堀遠州です。
面積は1階が約217.26㎡、2階が約162.95㎡、高さは約13.5mです。火縄銃の銃口を出して敵の狙いをつける「銃眼」があります。名前の由来は織田信長がこの地にあった石山本願寺を攻めた際、一つの櫓からの横矢に悩まされ「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っています。写真は西外堀から北方向を望む。
大手口枡形の石垣の上に立つ巨大建造物・多聞櫓。大門の上をまたぐ渡櫓と、その石垣に直角に折れて接続する続櫓によって構成されます。寛永5年(1628)に創建されるも天明3年(1783)に焼失、嘉永元年(1848)の再建されました。高さ約14.7m、建築総面積約710.25㎡あり、渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋4室、続櫓内部には廊下のほか9畳、12畳、15畳の部屋が計6室あって多くの兵や武器を蓄えることができ枡形内部に多くの窓があり、また大門を通る敵に対して、上位から槍を落とす仕掛け「槍落とし」が設けられています。多聞櫓とは戦国時代の武将松永久秀が大和国の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来します。大坂城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓がありましたが、現存するのはここだけです。
大手口には枡形の防御施設が設けられ、城の威容を誇示する巨石が数多く使用されています。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石は、表面積が約29畳敷(47.98㎡)で城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷(37.90㎡)で第5位、右の大手三番石は約22畳敷(35.82㎡)で第8位で、大手見附石と大手二番石は一つの石を二つに分けたものと思われます。いずれも採石地瀬戸内海の小豆島と推定されています。この箇所は肥後熊本藩主加藤忠弘が築き、のちに築後久留米藩主有馬豊氏が改築しました。
多聞櫓をくぐり南側、二の丸跡へ。二の丸の西と南をの区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの場所に建っていたのが南仕切門です。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに寛永5年(1628)に創建されたと考えられます。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていました。ここには太鼓坊主と呼ばれる僧形の役人が交替で詰め、彼らは香を焚いて時刻を計り、城内勤務の旗本以下の招集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らしました。いずれも明治維新の大火で焼失。
二の丸には現在、豊臣秀吉、秀吉の子秀頼、弟秀長を祀る豊国神社が鎮座します。秀吉は慶長3年(1598)に死去すると神格化され「豊国大明神」となり各地に豊国社が建てられましたが豊臣家滅亡とともに姿を消しました。明治元年(1868)明治天皇が再興を命じ、大坂では京都の豊国神社の分社として創建され、昭和36年(1962)現在地に移転されました。

本丸を囲む内堀は東から北、さらに西にかけて水堀となっているのに対して二の丸との南とそれに続く西にかけての本丸の間は空堀となっています。寛永元年(1624)第二期工期中に築かれたもので、当初から空堀でした。これはたの堀より高い位置にあり、湧水層まで掘るためにはあと10m掘る必要があったためと推測されています。写真は南東角から見た桜門方向。
門の向こうに天守閣を望む本丸の正門にあたる桜門は、寛永3年(1626)の創建ですが現在の桜門は昭和44年の復元。桜門の名称は、豊臣秀吉の大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場と呼ばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられます。また門の両脇の巨石は龍虎石と呼ばれ、江戸時代には雨が降ると右に龍の姿、左に虎に姿が現れるといわれていました。
桜門の内側にも本丸の正面入口を守るため枡形の防御施設が設けられ、上部には多門櫓が建てられました。しかしながら上部の多聞櫓は慶応4年(1868)、明治維新の大火で焼失しました。この枡形は寛永元年(1624)の第二期工事で備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩が用いられています。正面の石は「蛸石」と呼ばれる城内第一位の巨石で、表面積が約36畳敷(59.43㎡)、重量は約108tと推定されます。向かって左手の巨石は振袖石と呼ばれ、表面積約33畳敷(53.85㎡)で城内第3位です。蛸石の由来は石の左端に蛸のような模様が見えます。
城の中心部本丸に入ります。大阪城の本丸には天守のほか政治を行うための御殿がありました。幕末には14代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど歴史の舞台となりましたが、明治維新の動乱の中で焼失、明治18年(1885)、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部(紀州御殿)がうつされましたが、昭和22年(1947)消失しました。昭和6年(1931)に紀州御殿の付属庭園として整備された日本庭園は、池の南側から天守閣を借景とする美しい景観が楽しめます。
現在の大阪城天守閣は、徳川大坂城の天守台の上に昭和6年(1931)に建造された鉄骨鉄筋コンクリート造の天守が復興されました。外観は、文献資料、絵画などを基に研究を重ね、安土桃山時代の秀吉の「大坂城」を再現しています。本丸から最上階の鯱までの高さは約54.8mです。最上階の壁面は黒く、金色で虎などが描かれています。江戸時代初期の屏風絵に描かれた豊臣大坂城の天守は、壁面はやはり黒く、黒漆塗りの壁に金の彫刻が施され、最上階には金箔で虎や白鷺が描かれていたようです。
3階・4階・5階では、秀吉ゆかりに品々や戦国武将たちの鎧・書状など本物の資料で歴史が実感できますし、豊臣秀吉が築いた大坂城と大坂夏の陣で落城した豊臣大坂城の上に築かれた徳川大坂城を精巧な模型で再現しています(※写真撮影禁止)。また5階では世紀の大傑作『大坂夏の陣図屏風』の世界を映像とミニチュアで紹介していて、7階をフロアをぐるりと回れば、秀吉の生涯と天下統一の秘密が明らかになります。
8階の展望台からは、金の鯱越しに本丸の地上50mから見渡す大阪市街と一周すれば360°の眺望、遠く生駒のや六甲の山々が一望できます。少しだけ秀吉の気持ちが分かったような気になります。
隣接して「大阪城豊臣石垣」が2025年4月1日オープンしました。昭和59年(1984)の発掘調査で姿を表した約400年間地中に眠っていた豊臣秀吉が築いた大坂城の石垣を、地中に降りて間近で見ることができる展示施設です。当時「詰ノ丸」と呼ばれた場所の南東の角の石垣で現在のミライザ大阪城の建物左後ろ角にあたります。
詰ノ丸は秀吉・おね夫妻や淀殿・秀頼母子が生活したプライベート空間で、本丸の中でも最重要の中心部です。豊臣大坂城の本丸は「詰ノ丸」・「中ノ段」・「下ノ段」の三段構造になっていて、徳川幕府は再築時、中ノ段レベルでは約6m、下ノ段レベルでは10m以上の盛り土を施し、豊臣石垣を埋め殺しました。特徴は転用石も利用した「野面積み」の技法で築かれ、隅部は「算木積み」の技法がとられていますが、その原初的な姿です。また大阪夏の陣の猛火をうけた痕跡が石垣の表面に見られます。
天守台の西側は石組によって南北が隔てられていて、通路となった箇所の門は仕切門と呼びました。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いとし、そのため門は東に向いていました。明治維新の大火により焼失。
本丸と山里丸を結ぶ通路には山里口出桝形が設けられていました。特にこの場所は本丸から山里丸側に付き出していることから出桝形といいます。南に本丸に通じる姫門、東の山里丸に通じる山里口門がありましたがいずれも明治維新の大火で焼失しました。写真は山里丸から天守に向かう姫門。
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側に一段低い区域を特に山里丸と呼びます。豊臣時代には、山里の風情を醸し出す松林や桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていましたが、徳川幕府によって全面的に築き直され、ここには一年交代で城を守衛する大名・山里加番の主従が生活する小屋が建てられていました。また慶長20年(1615)大坂夏の陣では、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと伝えられ、その碑が建てられています。
刻印石広場は、大坂築城400年を記念してその石垣を形成している刻印石を展示、紹介するため、新設したものです。
山里門跡
山里丸と二の丸を結ぶ橋が極楽橋です。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさす事から、戦国時代この地にあった石山本願寺以来の名称ではないかと考えられています。豊臣秀吉が天正11年(1583)に築城した際にこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した際にも架けなおされました。明治維新の大火後、昭和40年(1965)に再架橋され、現在の極楽橋は長さ約54m、幅約5.4mで橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造りとしつつも、上部は伝統的な擬宝珠高欄としています。
極楽橋に近い青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建っています。創建は元和6年(1620)ごろと考えられるも、明治維新、大坂空襲で大破し現在の門は昭和44年(1969)の再建。「青屋」については戦国時代この地にあった石山本願寺の寺内町「青屋町」に由来します。
枡形は外側に突き出す出枡形でさらにその外側は水堀となっていて橋が架かっていました。この橋は押し出し引き入れ自在の算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていました。青屋口からは大阪城ホールを抜けJR大阪環状線大阪城公園駅に戻れます。
極楽橋の北袂には、大阪城御座船の乗り場があり、高さ日本一の迫力満点の高石垣を目の前に望む約20分の内堀クルーズです。金色に輝く船での旅が楽しめます。
大坂城の西北の出入口が京橋口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられてていたことから「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれ、近くを京街道が通っています。昭和20年(1945)の空襲で京橋門も多聞櫓も焼失しました。
京橋口枡形のうち、京橋口正面に見えるのが、表面積約33畳敷(54.17㎡)にもなる城内第2位の巨石「肥後石」です。築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきましたが、実際再構築時にこの区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれました。肥後石の左手が京橋口二番石で表面積が約22畳敷(36.00㎡)の城内第7位の巨石です。
青屋門に向かって右手に内堀沿いに続く通路が雁木坂。大坂城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は北から南に向かって上り坂です。江戸時代ここは長い石段(雁木)だったことから呼ばれていました。
雁木坂を挟んで内堀の反対側は現在大阪城梅林ですが、この地は、豊臣秀頼後見人だった片桐東市正且元の屋敷があったと伝られることから「市正曲輪」と呼ばれます。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番・中小屋加番・雁木坂加番の小屋が北から順に置かれていました。
大坂城東南の出入口にあたるのが玉造口。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代、大手口や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多門櫓が建っていましたが、明治維新の大火や陸軍による撤去により現在では門の両脇の石組以外は旧観をとどめていません。
玉造口から森ノ宮噴水広場を抜ければJR大阪環状線森ノ宮駅です。大阪城公園はとても広いので歩くのが大変という方にロードトレインが噴水公園から発着しています。
噴水公園を囲むように児童向け遊具施設「ボールネンド・プレイヴィル」、ベーカリーショップ「R Baker」、カフェ「スタバ」、「ボタニカルショーケース」、「ローソン」が並び、なかでも朝のモーニングにお勧めなのが「R Baker」です。イートインのモーニングセットがトースト2枚、サラダ、ドリンク、ゆで卵で650円※トーストはセルフです。
今回は訪れませんでしたが春に西の丸庭園に行きたいです。