
鳥取県米子市の中心市街地、標高約90mの湊山に築かれた米子城は、別名「久米城」とも呼ばれ、安土桃山時代に築かれはじめた、山陰で最初の本格的近世城郭です。山頂に五重の天守と四重の副天守の大小二つの天守を持つ壮麗な城で、周囲には中海の水を引き込んだ二重の堀が巡らされていました。城内の建物は全て失われてしまいましたが、石垣や礎石などは当時の形態をよくとどめていて続日本100名城に選定されています。また2022年NHK日本最強の城スペシャル第10弾~一度は行きたい絶景の城~」において最強の城に選ばれました。現在、米子城跡周辺は「湊山公園」として利用され、大山や中海を一望できる天守台からの眺望が絶景の城として人気急上昇です。※吉川広家が天守台建造中、石垣は崩れて人柱を立てることになり、城下に住む美人の「お久米」を人柱にしたという伝説で久米城とも呼ばれる。
米子城は、応仁の乱から文明年間(1467~1487)に、山名宗之によって砦として飯山(湊山の隣)に築かれたのが始まりと伝えられています。現在城山と呼ばれている湊山の近世城郭は、豊臣秀吉より東出雲・西伯耆・隠岐14万石の領主となった吉川広家(毛利の両川:吉川元春の三男)が、天正19年(1591)に築城を開始したものと言われています。入部当初は月山富田城に入城し整備を行いましたが、交通・経済の利便性の高い米子城の築城も平行して行われました。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた吉川氏は完成した城を見ることなく周防国岩国へ国替となり、代わって駿河国から中村一忠が伯耆国18万石の領主として入国し、慶長7年(1602)米子城が完成しました。
一忠の急死により中村氏が断絶すると、その後は、元和3年(1617)幼少を理由に姫路42万石から因幡鳥取32万5千石に転封となった池田光政が入国した鳥取藩池田家の重要な支城となり、元和元年(1614)の一国一城令後も特例として認められました。出雲・伯耆の国境という立地から、江戸時代を通じて国境警備の城としたためです。寛永9年(1632)には、光政と岡山藩の池田光仲(3歳)とが領地替えとなり、米子城には光仲の筆頭家老・荒尾成利が1万5千石で配され、米子城預かりとなり、以降11代に亘って城主として明治を迎えます。
米子城は戦国期に飯山の頂上に、南北約85m、東西約35mの郭を構えていましたが、江戸期には、中海に張り出した標高約90.5mの湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、峰続きの丸山(内膳丸)と戦国期に米子城の主郭であった東の飯山を出丸としていました。南側裏手、中海側の深浦には水軍用の御船手郭を築き、水軍関係の施設を置いていました。
三ノ丸は発掘調査の結果、江戸時代に米蔵が十数棟も建ち、作事小屋、厩舎、資材小屋、番人詰所などが並んでいたといい、現在は駐車場兼三ノ丸番所として活用されています。外周には中海から水を引き込んだ二重の内堀を廻らせ、大手門、搦手門、鈴の門で守られていました。写真は三ノ丸駐車場から見た湊山。吉川広家が積ませたとみられる表中御門枡形東面の石垣がよく見えます。
湊山北すそにある二の丸は高石垣で囲った2段の郭と枡形入口、虎口で構成されます。枡形入口は東西25.44m、南北22.72mの枡形虎口になっています。枡形は、入口を二重にして門への見通しを防ぐために作られた広場で城主の行列の倶揃いや、武士を寄せ集める時の集合場所に使われました。枡形入口側の表門に冠木門と二重櫓を配していました。
枡形の奥に表中御門があります。石垣の積み方から中村一忠により、正門を裏中御門から表中御門に変更した際に出入口の防御を強化するため増設したと考えられています。
写真は表中御門から見た枡形ですが、巨大な平面積に対して石垣が低く、大きさと広さがアンバランスな枡形に見えますが、実際枡形の石垣は2間(約4m)あり、現在の地表からは2.5mほどしか見えていないことから、最大で1.5mの石垣が埋もれていることが発掘調査で明らかになりました。
二の丸上段の郭には城主の御殿や藩の役所が置かれていました。慶長8年(1603)家老横田内膳正村詮は二の丸の建物打内で暗殺されました。現在、裏門にあたる太鼓御門跡や御殿御用井戸が残るほか、昭和28年(1953)に移築された米子市で唯一の武家屋敷の建物、小原家の表長屋門が置かれ、テニスコートとなっているところもあります。小原家は鳥取藩の米子預かりであった主席家老、荒尾氏の家臣で禄高120石でした。長屋門とは家臣などを住まわせるため、武家屋敷の前面に長屋を設け、その一部を開けて門とした建物です。この長屋門は江戸中期の建物で、桁行20.38m、梁間4.03m、木造瓦葺平屋建て入母屋造りで、床面積84㎡余でした。入口正面大扉に向かって右側に1室、左側に2室あり、左側奥に物置用に造られたと思われる屋根裏の中2階があります。窓の部分は出窓つくりの古い造りが残っています。
湊山山頂に位置する本丸には、登城道を上り切った左手(西側)が番所跡でここから北東麓の虎口に向かって巨大な竪堀がのびています。長さは約63mあり、番所跡直下は切岸、竪堀の南側には全長68mの堅土塁が設けられていました。右側(東側)は天守台です。
米子城の代表的撮影スポットが番所跡から見上げる天守台と副天守台です。異なる時代の積み方が一目瞭然の石垣鑑賞スポットです。手前の控え石段が階段状に築かれ、昭和、平成と順に改修され、最上の天守台は吉川広家時代に積まれた古い慶長時代の石垣と思われ、不揃いの石材が荒々しく積み上げられています。一方副天守は天守台と比べて石材の表面が平らに加工されていて、算木積みも正確で幕末の改修です。控え石垣の南側は副天守台に接続しています。天守台は城下に向かて祖聳え、副天守台は本丸の正門である鉄御門を見下ろすように突き出ています。本丸北西側にあたり城下から2基の天守が聳える勇壮な御城の姿が眺められたことでしょう。
当時の米子城は五重の天守閣と四重の副天守閣を持ち、『山陰随一の名城』とも称される壮麗な城であったといわれます。大天守は慶長5年(1600に城主となった中村一忠が吉川広家の建てた独立式望楼型3重4階の天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守です。初重平面は10間×8間、2重目も同じで3重目が7間×6間、4重目と5重目が3間×2間半、高さは21mあり本城の鳥取城の天守や三階櫓をも凌いでいました。外観は2重目に大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、3重目には入母屋破風と十鳥破風、最上階には軒唐破風がありました。5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったとみられる板庇がある。写真右側が天守台
副天守(四重櫓)は天正19年(1591)に城主となった吉川広家が建てた初代天守といわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に4重櫓と呼んで存続させたといいます。独立望楼型3重4階の大型櫓で初重平面は不整形で石落しや出張があり、天守と同じく外廻り縁高欄を覆ったとみられる板庇がある。写真は四重櫓付近
副天守台は方形の築石を斜めに積み、下の石との間に生じる谷に石をはめていく谷積み(落し積み)で、築石間の隙間が小さく切込接に近く、嘉永5年(1852)に修理されているとのこと。
鉄御門手前には算木積みが成立していない吉川時代の初期の石垣(写真左)が残っています。
副天守台の南側下の枡形が鉄御門で、御天守の入口を厳重に固める鉄張りの堅固な門がつくられていました。間口12.72m、奥行4.5m、左側に二重櫓がにらみを利かせていました。
本丸からは、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、隠岐、中国山地が一望できます。かつて湊山の西・南・北面が中海に面し、城の半分が中海に突き出していたことから米子城は中海に臨む「海城」でした。海城は敵が侵攻しやすくリスクが高いので戦国時代の城は海から少し離れた場所に築くのが一般的ですが、米子城が築かれた天正19年(1591)は豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まる前年であり、出兵に備え、軍港を持つ海上交通の拠点が必要との秀吉の意向をくんだのではないかと考えられています。実際毛利本家の輝元が広島城、小早川隆景も三原城に移っています。
天守台から見た副天守台。東麓には出雲街道が通ります。
本丸北側から下ります
本丸北側には一段下がって、内膳丸との間を登り石垣で結んだ遠見櫓があり、ここには二重櫓が建っていました。
本丸西側の一段下は水手御門下曲輪で、虎口の左右の石垣の積み方が違うのが分かります。おそらく左手が改修されたものと考えられます。
その先端には中海に臨む水軍基地だった水手御門が配されていました。
本丸に登る途中右手に分かれて登ったところにある内膳丸は丸山とも呼ばれ標高52m、中村一忠の家老横田内膳正村詮が担当して構築したものです。2段に配置された一の段郭、二の段郭から構成され、二の段郭に二重櫓数棟の武器庫が設けられていました。横田が暗殺された時、一族が立て籠もったという記録があります。
吉川広家が関わった米子城と月山富田城は、戦国時代から江戸時代初期の山陰地方における政治・軍事の拠点転換を物語る関係です。地形を生かした山城で戦国大名の拠点だった月山富田城に対し、海上の要衝として交通・経済の利便性の高い港町に石垣や天守を持つ近代的な平山城へと移った進化の過程を見ることができます。また吉川広家が豊臣秀吉の命で月山富田城から米子城の築城を開始し、関ヶ原の戦い後に月山富田城入城した堀尾吉晴も松江城を築きました。月山富田城と松江城、米子城のトライアングルは必見です。