江戸時代には城下町として栄え、上伊那地方の政治・経済、教育・文化の中心地でもあった高遠。濃紅色に輝き「天下第一の桜」と謳われる高遠城址公園のコヒガンザクラはあまりにも有名ですが、真の魅力はそこに留まりません。信濃統一を目指す武田信玄が、伊那から三河、遠江進出のための中継地として重きを置いた高遠城。「日本100名城」にも認定され、自然地形を巧みに生かした高い防御性や、この地に刻まれた織田と武田の激しい合戦史も注目を集めています。また、大奥と絡んだ幕府の勢力争いに巻き込まれ、高遠の預けられた「絵島」の囲み屋敷や墓、徳川家・内藤家に縁の深い古刹も点在。徳川2代将軍秀忠の側室の子として生まれ、この地を治めた保科正之は名君として知られ、「高遠そば」の生みの親とも言われています。秋の紅葉の美しさも格別で、桜の時期とは違った静かな山懐に抱かれた歴史のまち高遠城を訪れます。
「たかとほは 山裾のまち 古きまち ゆきあう子等の うつくし町」と、明治の文学者・田山花袋が謳った高遠は、7007有余年の歴史文化に支えられた城下町。高遠城は、南北朝の頃から諏訪上社大祝・諏訪氏一族の高遠氏が支配する城でしたが、武田信玄の勢力に押されて旗下に属し、築城の名手・山本勘助らにより城も大改修され、同時に高遠城の激動の時代を迎えます。家臣の秋山友信から武田氏37年の支配が続きますが、天正10年(1582)3月、織田信長の長男・信忠5万の軍勢を迎え撃つ若き城主・仁科五郎盛信3千の戦いは、最も壮絶な合戦史として今に語り継がれている。高遠城落城の9日後、一族を率いていた武田勝頼も山梨の天目山で自害し、武田氏は滅亡。武田氏にとって一族の存亡をかけた最後の合戦場となった悲しい歴史が、高遠にはあります。しかしながら武田氏を滅ぼした織田信長もわずか3か月後に本能寺の変で命を落とし、高遠を含む信濃国全体が混乱に陥りました。
混乱に乗じて高遠城を手に入れたのが北条氏の支援を受けた武田家の旧臣、保科正直で、その後嫡男・正光が慶長5年(1600)11月高遠藩2万5000石を立藩します。その養嗣子が2代将軍徳川秀忠の庶子、保科正之です。写真は高遠町歴史博物館前にある保科正之と生母お静像。3体のお地蔵様は幼少の幸松(保科正之)の成長を祈願した目黒成就院に寄進した地蔵菩薩を模して建立されました。
江戸時代の高遠城は明治5年(1872)の廃城まで約270年間高遠藩の政庁となり、保科・鳥居家のもと90年、3万3千石の内藤氏が8代にわたり179年の藩政を続け、現在のような形の城下町が整備されていき明治維新となります。
JRバス高遠駅から高遠城址公園へ向かいます。現在は近世の城下町だった西高遠が町の中心地となっていますが、幾度かにわたる都市計画、道路拡張で残念ながら昔ながらの街並みや建造物のほとんどが失われてしまいました。しまし、狭い路地や水路、いくつかの旧家跡などから城下町だったころの趣ある風景を垣間見ることができます。
江戸期の遺構を多く残す高遠城は、別名兜山城とも云われ、天竜川水系最大の支流、藤沢川と三峰川に挟まれた河岸段丘上にあり、西側の城下から見ると小高い山のようになっていますが、上部は平地になっていて標高800mの本丸を中心に二之丸、三之丸が囲む梯郭式の平山城です。本丸御殿や庭園など往時のものは残っていませんが、石垣を多様せずに地形を活かして土塁や空堀を配した造りです。ここは諏訪盆地と伊那谷を結ぶ杖突街道に面する交通の要衝であり、伊那市街地まで一望できる高台にあることから、軍事上重要な場所に造られた城です。
城下から城に続く大手坂を上りきったところに、大手門(櫓門)がありました。武田氏が治めていた築城当初、表門である大手は城の東側に、裏門である搦手は西に位置し、城の背後を守る断崖でした。幕藩体制の基盤が揺るぎないものとなってきた江戸時代の初期、城の西側段丘下に新たな城下町が建設され、大手口も城の西側に移されました。これに伴い、城と城下を結ぶ大手坂も整備されと考えられます。
高遠城は近世城郭に一般的な高石垣がなく、唯一それほど高くない石垣が大手の桝形を形成していました。廃城後、この周辺の改変は著しく、往時の様子は窺い知ることはできませんが、道路南端(右手奥)にある突き出した大きな石垣は大手桝形の一部と思われます。江戸時代城下からはこの石垣や門の金具が陽の光に反射してキラキラ輝く様子が見えたといいます。
当時、城内には大手、二ノ丸、本丸、搦手の四つの櫓門(間口5~6間、奥行二間の二層門)がありましたが、いずれも払い下げられました。この門はその内のひとつで大手門といわれています。現在高さや間口を縮めるなど江戸時代と比べて規模は小さくなっていますが、旧三之丸に建っています。
さらに登城道沿いの三ノ丸には、藩主の子供らが暮らした御殿や家老などの屋敷があったほか、空き屋敷を利用して藩校「進徳館」も開かれ、現在も残る進徳館の建物は、城内に唯一残された江戸時代の建物で、茅葺きの平屋八棟造りです。創設は万延元年(1860)8代藩主内藤頼直により長野県下11藩の中でも遅い設立でしたが、満を持しての創設でした。設立当初は「三ノ丸学問所」でしたが、昌平坂学問所の林大学頭学斎によって「進徳館」と命名されました。易経にある「君子は進徳修業、忠信は徳の進む所以なり」という言葉からとったものです。
北口の出入口から堀を渡って高遠城址公園(二ノ丸)に入ります。
二ノ丸の入口には大きな櫓門がありました。門を抜けて曲輪内に入ると、広庭があり、武術稽古や藩士らが一同に揃う儀式などが行われていました。ほかにも馬屋、武器蔵などがありましたが、現在建物はなく、「天下第一の桜」と刻まれた碑が立っています。昭和9年(1934)日本で初めて二重まぶたの美容整形手術に成功した高遠出身の眼科医、内田孝蔵が建てたものです。
東側の端に土塁のみが見られます。写真は南口出入口から見た二ノ丸の土塁。
遠くからでもよく見える赤い屋根の建物は、城跡のランドマークとして親しまれている高遠閣です。昭和11年(1936)に建てられ、間口14間、奥行9間、峯高10間、木造総2階建、入母屋造、鉄板葺で、2階には200畳の大広間があります。昭和初期の大規模和風建築としては稀有な建物として、国の登録有形文化財になっています。
二ノ丸から本丸に入る入口にある問屋門は、元々城のあった門ではなく、高遠城下の本町の問屋役所にあった門です。江戸時代、主な街道には宿駅が定められ問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、また旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人を置いていました。昭和20年代に問屋役所建物取り壊しの際移築されたものです。現在手前の桜雲橋とともに、城跡にかかすことのない景観シンボルになっています。
桜雲橋の袂と白兎橋の袂から城内堀へ下ることが出来ます。
桜雲橋を渡り、問屋門をくぐった先に残る石垣は、築城当時の石垣です。
本丸は城の中枢、藩主の居住空間と藩政を執り行う本丸御殿がありました。御殿は元々平屋建てでしたが、幕末になると奥向きに2階が増築されました。天守閣はありませんでしたが、二階建ての櫓が3棟あり、遠くを望むことができました。
本丸の南側には太鼓櫓があります。明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれました。江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門の傍らにありましたが、明治に入り搦手門が撤去されると、太鼓を置くための櫓が城の対岸の白山に建てられました。明治10(1877)頃現在の本丸の西南隅に移されました。太鼓は現在高遠町歴史博物館に展示されています。
本丸跡の北西にあるのが「新城神社」と「藤原神社」の2つの神社が1つの社の中に祀られている「新城藤原神社」です。新城神社の祭神は仁科五郎盛信で、藤原神社の祭神は高遠藩主内藤家の祖先にあたる藤原鎌足や代々の内藤家当主です。どちらも江戸時代から城内にあった神社ですが、明治12年(1879)に現在の場所に合祀されています。
神社の裏手に高遠公園碑が立ちます。明治14年(1881)に建てられた碑で、「高遠之城 拠信山東陬」で始まる高遠城の地理や歴史、公園となるまでの沿革が漢文で記されています。東宮侍講、漢学者・三島毅が文を撰び、明治の三筆と呼ばれた書家・巖谷修(一六)がしたためた書が碑文化され、高遠城址公園の原点となる碑です。
本丸から西側を覗くと眼下に現在駐車場となっている勘助曲輪が見えます。「勘助」とは武田信玄の家臣・山本勘助のことで、高遠城を改修した際、山本勘助が縄張したと伝えられ、勘助曲輪の名称もそのことに由来します。江戸時代に勘助曲輪と三ノ丸武家屋敷(進徳館あたり)の間にあった大きな堀(鍛冶堀)は埋められています。
本丸の南に位置する南曲輪は、回遊式庭園や茶室がありましたが、現在庭園は残っていません。(※現在庭園発掘調査中)南曲輪は幸松(保科正之)が母お静の方と居住したところと言われています。
本丸と結ぶ土橋の上から左右の堀を見ると、曲輪の造成時に造られた切岸がとてもきれいに見えます。また二ノ丸とも土橋でつながっていました。
南曲輪から白兎橋を渡ると法幢院曲輪です。文政の頃、高遠で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門は、その号を白兎と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人でもあり、文政の百姓一揆の際には米蔵を開放したり、橋を修復したりと公共のために尽力する人でした。その曾孫の省三郎(奇壁)は、私有地となっていた法幢院曲輪を買い上げ公園として寄付した際、南曲輪へ通じる橋を造り、曾祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名付けました。
二ノ丸かえあ掘内道で通じていた法幢院曲輪は、城内の南の端にある曲輪で、曲輪の東方には幅6m、長さ170mの馬場が続いていました。戦国時代、ここには法幢院というお寺があり、高遠城の戦いの後も戦死者を弔う法要が行われていました。寺は文禄元年(1592)に城外の東、月蔵山の麓の龍ヶ澤へ移り現在は桂泉院といいます。また高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設にも関わった廣瀬省三郎(奇壁)と奇壁と交流があった河東碧梧桐の句が大きな岩の両面に刻まれた句碑が立ちます。表面は遠く東の仙丈ヶ岳を眺めて詠んだ奇碧の句「斑雪 高嶺 朝光 鶯 啼いて居」、裏面は西方の駒ケ岳の残雪の雪形が駒(馬)の姿に見えるようになった情景を詠った碧梧桐の句「西駒は斑雪てし尾を肌ぬぐ雲を」が刻まれています。題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で書家でもあった中村不折の揮毫によるものです。
写真は法幢院曲輪と南側の堀
南口出入口を出て高遠町歴史博物館に向かいます。ここで日本100名城スタンプや御城印を購入することができます。中世から現代に至る高遠の歴史や文化などにスポットを当てた博物館で、敷地内に「絵島囲み屋敷」を再現しています。甲州藩士の娘であった絵島は大奥で出世し、徳川7代将軍家継の生母月光院に仕える大年寄にまで上ったのですが、絵島事件は、江戸時代中期の正徳4年(1714)、月光院の名代で芝増上寺の前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城したことに端を発する。家宣の正室天英院と月光院の勢力争いなども拍車をかけ、絵島のほか死罪ニ、流罪十、その他大勢の人々が罪に問われる当時としては非常に大きな粛清の嵐でした。当時の人気歌舞伎役者生島新五郎と不義密通を働いたという噂もあり、二人はとがめを受けて絵島は高遠へ、生島は三宅島に流されたのです。
絵島の屋敷は8畳1間で、33歳から寛保元年(1741)61歳で亡くなるまでひたすら法華経を信じ、精進の日々の幽閉生活を28年間過ごしました。当時の流人の生活ぶりを伝えていて、高遠藩の侍が昼夜警護を欠かさなかったといわれ、忍び返しが付いた塀やはめ込みの格子戸は物々しい雰囲気。
帰路はJRバス高遠駅までは、藤沢川を渡って右手から行きで歩いた国道361号の一本北側の道を歩きます。萬光寺は、江戸時代高遠藩主となった内藤家の菩提寺となったため寺運が隆盛し、伊那郡の中心的寺・録所として、浄土宗の中心的役割を持ちました。満光寺の創建は天正元年(1573)で、天文4年(1739)年に再建されたときに、科の木を使い、善光寺に模した伽藍配置にして建てられたので、「信濃の科寺」とか「伊那善光寺」などと称され伊那郡一番の伽藍であったといいます。石段の上に高くそびえる立派な山門は、科の木を用い、善光寺を模した鐘楼門が有名で遠くからでも良く見えます。境内には樹齢五百余年と言われる「極楽の松」と呼ばれる黒松があり、人目見れば極楽成仏できると言い伝えられています。
建福寺は高遠城主であった武田氏と保科氏の菩提寺として古くから栄えたお寺です。武田勝頼が出した朱印状が伝わるほか、勝頼の生母である諏訪御料人のものと伝わる位牌や墓があります。開山は安元2年(1176)に平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した文覚上人が、現在の本堂の裏手にある「独鈷の池」のあたりを訪れたのが始まりと伝わります。その後、鎌倉の建長寺を開山した大覚禅師が立ち寄った際に、鉾持山乾福興国禅寺を建立し隆盛しますが次第に衰退します。戦国時代になり武田信玄の庇護を受け、静岡の臨済寺から東谷禅師を招き妙心寺派の寺として中興され、大宝山建福寺となります。
門前には名石工であった守屋貞治作の石仏がずらりと並び圧巻です。
城下町の入口に鎮座するのが、高遠城の守護神として歴代領主の厚い信仰を受けた神社「鉾持神社」です。急な階段が天に登りつめるかのように続いていて、なんと石段の数は321段。奈良時代の養老5年(721)に創建され、当時の領主であった小治田宅持が高遠の西に聳える権現山に、熱海の伊豆神社、箱根の箱根神社、静岡県三島の三島神社の分霊を祀り勧請をしたのが始まりです。平安時代の安和2年(969)に往時の歌人で三十六歌仙のひとり、信濃守源重之が伊那郡笠原の庄に遷座するが、その後元暦元年(1184)に幕府から郡代として高遠に派遣された日野喜太夫宗滋が、文治4年(1188)笠原の庄整備の折、地中から「霊鉾」がでたため、現在の地にご神体として祀り、高遠城の守護神として鎮座してきたことから「鉾持神社」と名付けられました。
商家民族資料館 池上家は、江戸時代に建てられた高遠城下最古の商家建築。屋号を金屋いい、醤油や酢の醸造販売を営んでいた豪商で、代々問屋や町名主を勤めて明治に至っており、この間70年の歴史の詳細な記録及び古文書等数百点が所蔵されています。桁行9間、梁間5間、妻入縦割型、座敷型体を持つ町家造り」の家屋は組ものが格に出来ている飛騨高山日下部邸に類似した和風構造です。
高遠は名物に高遠そばや高遠まんじゅうもあり、食べ比べをしながら町を散策するのもよく、ぜひ天下一の桜、タカトウコヒガンザクロの咲く桜の時期に来てください。「見たかったのは天下第一の桜「高遠城址公園」艶やかな春景色」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/7186