桜の名所は数あれど、歴史と文化が薫る奈良には、吉野山のほかにも素晴らしい桜の名所がいくつもあります。古刹とともに花を楽しめたり、古代のロマンを感じながら花を眺めたりと、歴史と自然が織りなす独創的な景観やスケールの大きさがあります。そんな奈良の絶景の桜の名所をめぐります。いざいざ奈良へ。
かつては地元の人に親しまれた桜だった大宇陀町の西部にある本郷の瀧桜、通称「又兵衛桜」。古代は万葉集にも「かぎろひの里」と歌われた狩猟や薬草採取地で、中世には秋山氏、近世は織田氏の城下町としてさまざまな歴史が重なる宇陀の里の一本桜です。ここは大河ドラマ「軍師 官兵衛」の黒田官兵衛に仕え、黒田二十四将にも数えられる戦国武将・後藤又兵衛が大阪夏の陣の道明寺の戦いに敗れたあと、ここに落ちのびて僧侶となり余生を過ごした場所と伝えられ、後藤家の屋敷跡の石垣の上に堂々たる姿を見せる瀧桜があることから、このあたりでは又兵衛桜と呼ばれ親しまれていました。
2000年の大河ドラマ「葵徳川三代」のオープニング映像に登場して注目されるようになった樹齢約300年、幹回り約3m、高さがおよそ13mの堂々とした一本桜はとにかく美しい。山が迫る田園風景の中、萌え出す足元の草と背景をなす木立の緑、華を添えるように立つ桜の石垣から飛び出したように垂れる枝は力強く、その周りには約50本の深紅の桃の花と黄色の菜の花を従え、桜と桃、濃淡の異なるピンク色の二種の共演が描く風景はただため息をつくばかりの美しさです。
宇陀から桜井を通り県道37号の多武峰街道に入ります。川沿いの道は次第に勾配が厳しくなり、つづら折りへと変わります。参拝時間までまだ間があることから、西へ足を延ばして明日香へ。明日香の入口にあるのが、古代を思わせるのどかな風が吹く明日香国営公園にある石舞台古墳です。
大小約30個以上もの花崗岩の巨石を積み上げた古墳で、日本最大級の横穴式石室を持ちます。築造は7世紀の初め頃と推定され、蘇我馬子の墳墓という説が有力。元々は1辺約55mの方墳だったとされていますが、早い時期に古墳上部の盛土が失われ、現在は巨大な石室が露出した姿となっています。その形状から『石舞台』と呼ばれるようになったと言われ、昔々狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や旅芸人がこの巨石を舞台に演じた話などが残っています。
周辺には約60本ものソメイヨシノが植えられ3月下旬から4月上旬には見ごろを迎え、黄色い菜の花と淡いピンク色の桜花に彩られた古墳との共演が素晴らしい。
紅葉で名高い多武峰の「談山神社」ですが、近世においては桜の美しさで知られ、「大和の桜は吉野、長谷、多武峰」と謳われていたといいます。「国のまほろば」と詠われた桜井。その霊峰多武峰中腹に鎮まる談山神社は、白鳳7年(678)唐より帰国した藤原鎌足の長男・定慧和尚が、父を弔う為に摂津国阿威山から遺骨の一部を改葬、その墓の上に十三重塔を建立した妙楽寺(多武峰寺)を起源とし、さらに定慧の弟の藤原不比等が大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置したのが談山神社の始まりです。明治になって談山神社として独立しました。朱色の鳥居をくぐり140段の石段を上がります。
藤原鎌足を祀る日光東照宮の手本となった絢爛豪華な三間社隅木入春日造りの本殿には、極彩色模様や花鳥などの彫刻が施されており、西の日光と呼ばれまるで絵巻物のようです。大宝元年(701)に創建され、嘉永3年(1850)に建て替えられました。拝殿の格天井には、伽羅が用いられていると伝わり、希少な香木をふんだんに使い、いかに贅を尽くしたかが伝わってきます。
桜に囲まれて建つ懸造り、朱塗りの拝殿は、永正17年(1520)に建てられ、花を眺めるのに最高の場。芽吹きの黄緑も山肌を美しく染める。釣灯籠の合間から眺めれば、眼下に萌黄と桜花の色が重なり、広がります。
その本殿を中心に、拝殿・楼門・東殿など15の絢爛たる社殿が山の斜面に沿うように配置され残っています。特に現存する唯一の木造「十三重塔」は、唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられ、高さは17mあり屋根は伝統的桧皮葺きである。国の重要文化財でもあり、現存のものは享禄5年(1532)の再建です。五行説に則った大変珍しい建築様式の塔で、山の頂に眠る鎌足公の霊廟の役割を果たしています。満開の桜花が十三重塔に寄り添う様の美しいこと、見事な一幅の絵になります。山から風が吹き降りる、花びらが一斉に舞い上がり、蹴鞠の庭に降り注ぎます。
総社拝殿のすぐ前、、春秋に「けまり祭」が行われる蹴鞠の庭に立ち、神廟拝所越しに十三重塔を仰ぎ見れば、桜の談山神社というのも容易に納得できます。老杉の深緑に囲まれているため、桜花が一層映えます。塔の左は権殿、右は神廟拝所。桜は境内におよそ100本、種類も豊富で、寒緋桜が咲き始める3月下旬から枝垂れ桜、ソメイヨシノと続き、4月下旬から5月上旬の八重桜までと長く楽しめます。
神廟拝所には、飛鳥の藤原寺から移した藤原鎌足の神像が安置されています。藤原寺には鎌足公の屋敷があったとされます。『日本書紀』によると、死の直前に最上の冠位「大職冠」と大臣の位、「藤原」の姓を賜ったとされます。
神社の名は、中臣鎌子(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(後の天智天皇)が多武峰山中において、当時専横を極めてていた蘇我入鹿の討伐と国家の将来、大化の改新について談じたことに由来します。「中大兄皇子、中臣鎌足連の言って曰く、鞍作の暴逆いかにせん。願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず」と談山神社に伝わる『多武峯縁起』に記された「乙巳の変」の談合の様子です。謀を語り合ったことで「談峰」「談い山」「談所ヶ森」と呼ばれた多武峰。神社の脇から登れば、約20分で神社の背後に聳える歴史の舞台、談山の頂(566m)。そこには写真の「ご相談所」の石碑が立つ。さらに鎌足の墓所(古墳)のある御破裂山の頂(619m)まで足を運び、往時を偲ぶのもいいですね。
京都宮津の知恩寺(切戸文殊)、山形高畠の大聖寺(亀岡文珠)とともに日本三大文殊の一つである「安倍文殊院」は大化改新時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂の氏寺として大化元年(645)に建立された学業成就のお寺です。全国の安倍さんのルーツであり、平安時代から魔除け・災難除けの守り神として尊崇されている大陰陽師・安倍清明公が出生した寺でもあり、全国から参拝者が絶えません。桜の名所としても知られ、表山門から参道、本堂、文殊池へと続き、約500本のソメイヨシノが境内を彩ります。
本尊は快慶作「渡海文珠菩薩群像」で、中心に安置されるのが巨大な獅子に乗ったお姿の日本最大7mの建仁3年(1203)快慶作の騎獅文殊菩薩(国宝)で、知恵の文殊として親しまれています。「三人寄れば文殊の知恵」の格言はこの文殊様から生まれたのです。向かって左に維摩居士(最勝老人)と釈迦十代弟子の一人須菩提(仏陀波利三蔵)が並び、向かって右に獅子の手綱を持つ西域・優填国の王であった優填王と先導役の善財童子と四人の脇士を伴います。雲海を渡り、私達衆生の魔を払い、知恵を授ける為の説法の旅に出かけているお姿です。
特に金閣浮御堂が建つ文殊池の周りは桜で埋め尽くされ、池にせり出すように咲く桜が水面に移り込むさまは、まさに絶景。
陰陽師・安倍晴明が天文観測をしたとされる展望台からは、境内の桜風景とともに二上山や大和三山が望めます。
金閣浮御堂(仲麻呂堂)は昭和60年(1985)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、真ん中に八臂弁天と言われる開運弁財天(大和七福神)向かって右に安倍仲麻呂像、左に安倍清明像などを祀っています。
安倍仲麻呂は第9次遣唐使に同行し霊亀3年(717)唐の都・長安に留学し、玄宗皇帝に仕え唐朝の官職を歴任しました。天平勝宝5年(753)第12次遣唐使一行と帰途につくが途中暴風のため難破し、安南(ベトナム)に漂着し唐に戻り再び帰国することはありませんでした。日本に帰る際の送別会で詠んだ歌『天原ふりさけ見れは春日なるみかさの山に出し月かも』(百人一首)が有名です。
大和三山や奈良盆地を望む高台に、大講堂や三重塔などいくつもの堂塔が立ち壷阪寺。大宝3年(703)、元興寺の僧・法相大徳弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壷を坂の上におさめ、感得した観音様のお姿を復刻して祀ったのが始まりといわれるのが西国三十三所観音霊場六番札所壷阪寺です。京都の清水寺の北法華寺に対し、正式名は南法華寺といい、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた名刹です。清少納言は『枕草子』のなかで、「寺は壷坂、笠置、法輪、・・・」と霊験の寺として、筆頭に挙げています。また寛弘4年(1007)左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊しています。
人形浄瑠璃、壷坂霊験記には、盲目の沢市と女房お里の夫婦愛が描かれています。時は江戸時代、沢市は毎晩、夜中に床を抜け出すお里を、男性と会っているのではと疑います。しかし、お里は沢市の目の病が治るよう、壷坂寺の観音様に朝詣でをしていました。それを知った沢市は、共に観音詣でを始めますが、将来、お里の足手まといになると考え、谷底へ身を投げます。それを知ったお里も、沢市の杖を抱きしめ投身。しかし、観音様の霊験により、二人は助かり、沢市の目も見えるように。本堂には沢市の杖があります。この壷坂霊験記により本尊・十一面観世音菩薩は眼病封じのお寺として信仰を集めます。
本尊は重厚な造りの礼堂に続く、八角円堂に納められ、蓮華座にどっしりと座っておられる。近くに寄って拝見すると何本もの手を広げた力強い姿に包み込まれるようです。眼の健康をお願いしたのは言うまでもありません。
奉仕活動を行った縁でインドとの交流が盛んで、境内にはインドから渡来した大観音石像、大涅槃石像など大きな石像がいくつもあります。春になると約300本のソメイヨシノが花開き、伽藍と優美な桜の競演を満喫できます。写真の天竺渡来大観音石像は全長20m、全重量1200t。
なかでも身丈10m、台座5mの「壷坂大仏」と呼ばれる大釈迦如来石像の周りの桜が、大仏さまを包むように美しく咲き誇ることから“桜大仏”と呼ばれるようになりました。
昼食や夕食には壷阪寺近く、近鉄吉野線壷坂駅から徒歩20分の池の畔に立つ茶寮 花大和で薬膳料理はいかがですか。明治37年(1904)創業、“くすりの町”高取ならではの一皿ひとさらに質の高い薬膳素材が使われた本格的な薬膳料理の専門店。日本料理としても質が高く、ミシュランガイド奈良にも掲載された実績もある。薬効のある食材や生薬を使った、彩りよく美味しい日本料理を味わえます。
コースによっては、薬膳箪笥という古風な入れ物にお料理が入って出てきて、目でも美しさを堪能できます。欅製の薬箪笥の上段に子鮎、チーズ、漬物。中には葛根入りの胡麻豆腐、薬膳野菜の煮物、黒米のご飯が乗せられています。お勧めは黒米のご飯。黒米の種類の中で唯一皇帝だけが食べることができた食べれば食べるほど若返るという最高品質の黒貢米を使用しています。おかわりは無料です。(黒米は購入)紅花の食前酒や仙人が不老長寿の為常食としていたといわれるチョウセンゴヨウマツの種子・海松子も入っています。刺身ように添えられている醤油は「葦根醤油」というもので葦の根を3年漬け込んだものだそうです。
次に高麗人参の天ぷら。高麗人参は4~5年かけて大きくなるのでその立派さに驚きです。芋のような食感ながら特有の苦みもなく美味しくいただけます。はちみつをかけて食べることにもびっくりですが元気回復、免疫力増進です、
デザートには果物といっしょにクコの実(枸杞子)が乗っていました。着色や保存料を使わないこだわりのクコの実とのこと。古来から万能薬と呼ばれ、視力の減退防止と回復、肝機能の向上・痩身などに効能があります。
窓からの眺望もよく奈良県の「眺望のよいレストラン」に認定されています。