天主に見る信長の夢舞台!華麗を極めた幻の安土城を訪ねる

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かつて琵琶湖の東岸に位置する標高200m足らずの安土山に、高さ40mを超える壮大な天主が聳えていました。戦国時代の城と近世城郭の境目にあたり、中世の名残と新時代の走りが両方見れる滋賀県近江八幡市にある安土城。天主完成から3年で信長は、京都・本能寺で自刃、天主も焼失し「幻の城」とさえいわれています。広くまっすぐな大手道は戦には不向きですが、城の偉容を示すにには十分。天下人・織田信長の城郭に対する意識が色濃く表れています。天主台に残る礎石から、新時代の幕開けを告げた信長の夢の舞台である安土城跡にかつての輝く天主の姿を想像してみませんか。

スタートはJR安土駅に隣接する城郭を思わせるような建物「安土城郭資料館」です。安土城跡に行く前に訪れてイメージをふくらませておきます。

資料もわずかで、家臣・太田牛一が信長の生涯を綴った『信長公記』が最も史実に近いとされていて、「天守」ではなく「天主」の文字が使われているのが興味深い。残されている資料を基に、20分の1スケールに再現された安土城の模型を展示。金箔瓦をいただき、外観5層内部7階の今はなき天主の雄姿に、目を潤ませる歴史ファンも多いといいます。開閉式の模型の間に入って中を観察でき、狩野永徳の襖絵や異国文化の調度類で飾られていたという豪壮華麗な城の内部まで見ることができるのもおもしろい。信長はどこに住んだのだろうと想像するのもおもしろい。

 

また安土城をイメージした陶板壁画などを展示しています。安土山の頂に5層6階の天主があり、総石垣でひな段状に整備した斜面に家臣の屋敷などが点在した様子が分かります。

JR琵琶湖線安土駅を出て北へ向かうと県道2号大津能登川長浜線に出ます。信長時代の下街道で、江戸時代には朝鮮通信使が通り、「朝鮮人街道」とも呼ばれていました。徒歩で30分、約2kmの距離を歩くと目前に安土山が迫り、安土城跡の大手口に着きます。写真は桜の時期の石標

安土城大手口前、現在安土山を所有する摠見寺の受付で入山料(700円)を払います。ここから天主跡まで約30分、いきなり始まる始まる大手道に度肝を抜かれます。

安土城の築城が始まったのは戦国末期の天正4年(1576)1月17日、武田勝頼との長篠の戦いから1年後で、重臣である佐和山城主丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高わずか199mの安土山に築城させた平山城。3年後には天主が完成し、信長が入城したと伝わります。防御だけならもっと高く厳しい山がむいていますが、天下人となった信長に便の悪い山城は不要であり、代わりに岐阜城よりも京都に近い利便性があり、水陸の交通に優れ、城下町を造りやすい安土を選び、総石垣造りで守りを固めたのです。後に近世城郭の主流となる平山城スタイルの始まりです。当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、南方のみが開けた地形でした。

城内に入るやいなや天主へ続く大手道は、幅8m(道幅6m、両側に1.2mの側溝と高さ3mの石塁)の石段が、約180mも一直線に上へと上へが続きます。発掘調査時に出てきた踏み石を使い、破損部分も発掘された石などで補い復元されています。通常、戦時に城への侵入路となる道は狭く、曲がりくねっていたほうが都合がよいのですが、この広く直線的な大手道も天下人を意識した設計だと考えられます。見通しの良い大手道から山上の天主が見えたはずで、信長は立派な天主や石垣を見せつけることで、訪問者に自らの威光を示したのでしょう。

大手道の両側には雛壇のように郭が配され、「伝羽柴秀吉邸跡」「伝前田利家邸跡」「伝徳川家康邸跡」と、見慣れた名前の屋敷跡が並び、やはり英雄達が集まった城だと実感します。写真は「伝羽柴秀吉邸跡」です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭で構成されていました。下段郭の入口となるこの場所には壮大な櫓門が建っていました。上段郭はこの屋敷の主人が生活する場所で、正面の入口は大手門に面して高麗門が建てられ、その脇には重層の隅櫓が建ち防御を固めています。

石段の段差の幅が広くて登りづらく、足元の石段をよく見ると、所々に石仏や五輪塔がそのまま使われていて、知らない人なら踏んでしまいそうな、道の真中に使われている箇所もある。神仏をもおそれぬ信長の所業か、それとも魔除けの意味で城の守り神か。

大手道が終わると道は左右に折れ曲がりながら続き、さらに石段を上ると城の中枢部への入口にあたる黒金門跡に着く。周囲の石垣をこれまで見て来た石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚きます。

門の正面に二の丸の高石垣が巨大な壁のように目に飛び込んできます。安土城の石垣は大手道のように復元で積み直しされているものが多いのですが、この石垣は当時の天正の石垣で、直線が美しい。東西180m、南北100mに及び周囲を強固な高石垣で固められています。

本丸跡の行く手前、左手帯曲輪の伝長谷川秀一邸跡(信長奉行衆)の奥に織田信雄四代供養塔があります。元禄8年(1695)織田家の宇陀松山藩から丹波柏原藩への転封に伴い、柏原藩主織田信休が大和国宇陀松山城下の徳源寺にあった同家の歴代当主織田信雄・高長・長頼・信武の墓を移したものです。

仏足石から上がり、左手に下ると天主跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟があります。羽柴秀吉は天正11年1月三法師に年賀を表すべく登城し、翌2月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としました。

再度戻り、ここから先、天主の手前に伝本丸跡が広がります。天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿跡と伝わります。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台、本丸帯郭、三の丸の石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。東西約34m南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された御殿の礎石119個が発掘されていますが、これが慶長年間に改修された京都御所内の天皇の住居である清涼殿と同じ配列になっています。また『信長公記』によれば、この建物には天皇を招き入れる「御幸の間」があったと記載されています。つまり信長は安土城に天皇を迎い入れ、しかも天主から見下ろそうとしていたと考えられます。

安土城の一番上には「天主閣跡」と刻まれた石標があります。城郭のテンシュは「天守」が普通で、「天主」と書くのは後にも先にも安土城だけだといわれています。天皇を頂点とする当時の身分制度で「天の主」とはいかにも大胆不敵であり、信長の城らしいエピソードです。天主は信長が本能寺で明智光秀の謀反にあった13日後の天正10年(1582)6月15日に焼失しましたが、5層7階(地上6階地階1階)、朱塗りの柱や金箔瓦もあしらわれた荘厳な天主は、イエスズ会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さであったといい、高さ33mの木像高層建築は当時としては我が国で初めてのものであった。

本丸御殿跡から石段を上った所の台地が、5層7階の壮麗な天主が聳えていたという天主台跡。背丈ほどの高さの石垣に囲まれ東西、南北それぞれ約28mおきに碁盤の目状に整然と並ぶ巨石は天主の柱を支えていた礎石で、ここは穴蔵(天主の地下1階部分)にあたります。礎石配列にはちょうど真ん中に当たる礎石がなく、城の内部が吹き抜けだったのではないかと推測されています。

大手口から天主跡を回り、復路は摠見寺跡から百々橋口を経て再び大手門へと戻るます。一周しても約1時間と、ほどよいトレッキングコースです。

城跡を後にしてJR東海道線の高架をくぐると西洋の城館のような安土城考古博物館が見えてきます。向かいにあるのが「安土城天主信長の館」で、近年発見された「天主指図」により幻の天主の5階(八角形)・6階(正方形)部分が原寸大で復元されています。これは1992年のセビリア万博(スペイン)で日本寒館のメイン展示として出展されたものを移築したもので、新に金箔瓦をのせて庇屋根が増築され、より豪華になっています。

吹き抜け構造の天主は金箔の外壁、総朱塗りの柱や床など極彩色で目もくらむような装飾です。内陣の狩野永徳一門に描かせたという金碧障壁画も復元されています。

信長亡き後、わずか3年で廃城になった安土城。意思を引き継ぐ羽柴秀石が動き、安土城と内湖を挟んだ向かいの山に、甥の秀次を配して築いたのが八幡山城です。その際、、城下の町家や寺社を八幡山城下に移して整備もおこなわれたといいます。「豊臣秀次が築いた商いの城下町・近江八幡の情緒と風土を楽しむ」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/12603

 

 

 

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