
JR甲府駅南口を出ると、目の前に見えてくる甲府城。白壁が重なり合う優雅な姿が、鶴が羽根を広げて舞う姿に似ていたことから舞鶴城とも呼ばれていました。舞鶴城公園として整備された広々とした園内には当時の面影を伝える堅固な石垣が残り、近年城門や櫓が復元され、往時の姿が少しずつ蘇り始めています。駅前に武田信玄像があり、戦国大名武田3代の居館・躑躅ヶ崎館があったため、甲府といえば“武田の地”というイメージが強いですが、日本100名城に選定された甲府城は、天正10年(1582)武田氏滅亡後に築かれた城です。豊臣秀吉の命で関東の徳川家康に対抗するために築城が開始され、関ヶ原の戦い後は西国大名の備えとして重要視され、時代の流れとともに整備されてきた鶴が羽を広げているように見える白壁と美しく天に向かってそびえる石垣の城・甲府城を訪れます。
武田氏の居館・躑躅ヶ崎館(現在び武田神社)があった甲府は、戦国期から甲斐国の政治的中心地でした。甲府というのは永正16年(1519)武田信玄の父信虎が躑躅ヶ崎に館を移し、城下町を開創したことに始まり、甲府の地名はこの時に創設された城下町の「甲斐府中」が短縮されて「甲府」と呼ばれるようになったものです。
「甲斐武田の栄華盛衰を見届けた2城・要害山城・躑躅ヶ崎館を巡る」はこちらhttps://wakuwakutrip.com/archives/9639
豊臣秀吉は天正18年(1590)関東移封となった徳川家康を牽制するための重要な拠点として甲府城の築城を命じました。近世城下町としての甲府を再編するため、甲府盆地の中央部、高さ約30mの独立丘陵である一条小山を利用して築かれ、甲府盆地を見渡せる要衝にある平山城です。
甲府に石垣で囲まれた立派な城がつくられたのには、それなりの理由があり、甲府は戦国時代から重要な要衝でした。四方へ伸びる甲斐五街道と呼ばれる主要な街道の結節点だけでなく富士川舟運が利用でき、人や物資が必ず通過するポイントでした。甲斐五街道とは甲州街道(江戸・信州)・駿州往還(東海道)・佐久往還・穂坂路・青梅街道で、軍事的にも重要な街道です。
天正19年(1591)加藤光泰によって築城が進められ、文禄2年(1593)浅野長政・幸長父子によって甲府城は完成しました。秀吉は家康に対抗するため、東山道沿いに仙石秀久の小諸城、真田昌幸の上田城、石川数正の松本城、東海道上に中村一氏の駿府城、山内一豊の掛川城、堀尾吉晴の浜松城などを置きました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの結果、浅野氏が紀伊和歌山に転封となり、以降は徳川の城となって西国大名が甲州街道を通って江戸へ侵攻するのを食い止める「要塞」となりました。そのため徳川将軍家一門(親藩)や譜代大名、将軍直轄の甲府勤番が置かれ西側への備えとして重要性を保ち続けました。江戸初期の歴代城主は、徳川義直(家康九男)、徳川忠長(3代家光弟)、徳川綱重(3代家光次男)、綱豊(綱重子)といった将軍家一門が城主となる重要かつ特別な城でしたが、甲府宰相綱豊が6代将軍家宣になると宝永元年(1704)に5代将軍綱吉の御側用人であった柳沢吉保が城主となり、大名の町として整備され城下町も繁栄しました。その後吉保の子吉里が大和郡山に転封の後は天領となり、甲府勤番の支配下におかれました。幕末、甲陽鎮舞隊となった新選組が入城寸前で板垣退助率いる官軍に先を越されててしまった痛恨の城として有名で、結果開城となり明治政府によって廃城とまりました。
築城期の石垣に、稲荷門や鉄門が復元された甲府城には見どころがいっぱい。春には約160本の桜が咲き誇り、鶴舞城公園として市民のい憩いの場になっています。城の南口、遊亀橋から内濠を渡り、現在は自由広場の鍛冶曲輪に登城します。
天守曲輪の石垣を見上げながら本丸に上っていきます。
内松陰門は、甲府城の尾形曲輪(現在の甲府駅)と二の丸をつなぐ門で本丸の北西側にいちします。ここから本丸に向かう場合には中門跡を通って向かえます。現在の門は平成11年に復元されたもので、高麗門形式で、2本の大きな柱の上に切妻屋根4をのせています。
ここを左手に坂を下ると二の丸で現在は武徳殿という武道館が建っています。
さらに天守曲輪をぐるりと進むと美しい石垣と白い土塀、そして稲荷櫓につきます。
手前の平成25年(2013)に復元された鉄門(くろがね門)をくぐります。 鉄門は天守曲輪と本丸を繋ぐ場所に建っている門で、天守曲輪の南側に位置し、もともと「南門」という名前でしたが、宝永2年(1705)に柳沢吉保によって「鉄門」と改められました。門は櫓を構えた2階建てで、門の部分は板壁、櫓の部分は白漆喰で仕上げた土壁です。門の左右には石垣があり有事の際には最後の備えとするために建てられたと考えられています。
本丸に入ると美しい天守台の石垣が目に飛び込んできます。天守台は本丸の最も西側にあり、南北22m東西16mの不整形な四角形です。天守台の見どころは石垣で、城が最初に築かれた天正年代に採用されていた野面積みが特徴になっていて、傾斜もあまり急ではありません。標高が甲府城内で最も高い天守台からの眺めは甲府盆地が一望でき、運がよければ壮大な富士山も望めます。
再び天守曲輪に戻り
平成11年(1999)復元の稲荷曲輪門は稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ城の北東(鬼門)にあたる位置にあります。入母屋造り瓦葺きのこじんまりとした高麗門形式です。
稲荷櫓は、甲府城の北東、稲荷曲輪にそびえている櫓で、平成16年(2004)復元されました。鬼門とされる北東(丑寅・艮)の方角にあることから艮櫓の別名もあり、寛文4年(1664)の大改修の際に新たに築かれ、江戸時代には武具を納める蔵として使われていました。規模は南北5間(約10m)東西6間(約12m)、高さ14.5mの石垣の上に瓦葺き入母屋造り白壁漆喰塗りの2階建櫓です。
稲荷櫓を後にして南側に下っていくと右手に数寄屋曲輪の美しい石垣群が見えてきます。写真は数寄屋曲輪から見た稲荷曲輪への入口、数寄屋勝手門。天守台が見えます。
稲荷曲輪から稲荷櫓を通って坂を下るとJR中央本線の線路脇にでます。こちらから本丸登城もできます。
稲荷曲輪では、甲州城を舞台にしたイベントで、武田氏滅亡後に建てられた甲府城の歴史に直接関わりはないものの信玄公祭りが行われていました。昭和22年(1947)から鶴舞公園で行われてきた桜祭りが前身で、さすが武田信玄のお膝元、武田信玄を前面に出したものになり、祭り最大の見せ場が「武田二十四将時代行列」の出陣式と帰陣式です。写真は出陣する甲州軍団・風の一番隊『横田備中守高松』の出陣式が行われていました。
天気も良く絶好のお花見日和でベンチに腰掛け駅で買ってきた駅弁を食べることにしました。丸政周年記念弁当「甲州Wワイン弁当!!しあわせ甲斐」は赤ワインで煮込んだソースで味付けたジューシーハンバーグと白ワインを煮込んだソースで味付けたやわらか炭火焼肉のお弁当です。
「甲府開府500年記念弁当 甲州牛ちらし寿司」は甲州牛をちらしたお弁当です。
また甲府駅から徒歩圏内の距離には、明治時代の甲府の街を再現したレトロな町にお洒落な店舗が軒を連ねる甲州夢小路や老舗ワイナリーSADOYAワイナリーがあります。線路を渡り「甲州夢小路」に向かいます。
江戸時代甲府は幕府直轄のおっとりとした天領であったといわれ、幕府からのお役人や旗本が住み、洒落た小江戸文化があったそうです。時が進み、明治、大正、昭和初期、宝飾加工や絹織物づくりも盛んになり、太宰治や井伏鱒二が滞在するなど、ハイカラさんが多かったといいます。その頃の甲府の通りをもう一度歩いてみたく、小江戸情緒をが息づく、明治、大正、昭和初期の甲府城下町を再現したのが甲州夢小路である。
また寛文年間(1661~1673)、今の中央2にあたる横近習町に設置され、明治時代初期に取り壊されたが、200年以上住民に時刻を知らせていた「時の鐘」も再現されています。
駅前には「藤村記念館」となっている旧睦沢小学校舎が移築されています。明治8年(1875)に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に睦沢学校として建てられ、昭和32年(1957)まで校舎であった国の重要文化財に指定されているこの建物は、山梨県令であった藤村紫朗が積極的に奨励した疑洋風建築で、県内では藤村式建築と呼ばれ、山梨には5つ現存しているうちの一つです。明治10年(1877)に甲府を訪れた駐日英国公使アーネスト・サトウの日記には「この町の西洋建築を模倣した建築物の数は、町の規模からすれば私の知る限り日本一だ。」と記述している。外面のデザインや構造に明治初期の洋風手法が表現された、価値ある建造物で、中央に太鼓楼と呼ぶ塔屋をのせ、屋根は宝形造りの桟瓦葺き。ベランダは独特の曲線を見せる幕板を飾り、軒天井は菱組の透かし打天井、外壁は漆喰塗りの日本壁である。
