縁起だるま発祥の少林山達磨寺から高崎宿を目指す中山道の旅

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江戸時代、上州・上野国には、五街道のひとつで江戸と京都を結ぶ主要街道「中山道」が通り、全69宿のうち7宿(新町宿/倉賀野宿/高崎宿/板鼻宿/安中宿/松井田宿/坂本宿)がこの地に置かれていました。高崎は慶長3年(1598)井伊直政が築いた高崎城の城下町として商業で発展した上州路最大の賑わいを見せる宿場町であり、古くから交通の要衝でした。そんな高崎といえば、やはりだるま、「高崎のだるま市」です。そしてだるまといえば何といっても福だるま発祥の地、少林山達磨寺に行かねばなるまい。板鼻宿近くの達磨寺から高崎宿までの約7km中山道に沿って歩きます。

JR信越線高崎八幡駅から碓氷川に架かる鼻高橋を渡り、歩くこと18分、縁起だるま発祥の寺、黄檗宗 少林山達磨寺に向かいます。橋の欄干にはだるまが。まゆは鶴、ひげは亀を表す縁起だるまは別名「福だるま」「高崎だるま」とも呼ばれ、古くから多くの人々に親しまれてきました。今から約220年前、天明の大飢饉のあと苦しい農民たちを救済するため当山九代目の東嶽和尚は、開山心越禅師の描かれた「一筆達磨札」をもとに木型を彫り、農家の副業になるよう張り子のだるまの作り方を山縣友五郎に伝授して達磨づくりが始まりました。そして正月の七草大祭の縁日に掛け声勇ましく売られるようになったのが縁起だるまの始まりです。

碓氷川沿って歩くと達磨の看板が目につきます。黄檗宗 少林山達磨寺に到着です。

室町時代末期、厄除け・縁結び・子授け・安産にご利益のある行基菩薩作の「観音菩薩」をお祀りしたお堂がありました。江戸時代、延宝年間(1673~1681)のある年、碓氷川が氾濫した時、村人が川の中に光輝く香木をみつけお堂に納めました。一了居士という行者が達磨大師のお告げを受け、延宝8年(1680)この霊木で「達磨大師」の座禅像を彫刻し安置したところ、「達磨大師の霊地少林山」と広く知られるようになりました。

徳川家康が江戸の北の守りとして重要視したのは上野国(群馬県)。そこに前橋藩・高崎藩・館林藩・沼田藩・七日市藩など多くの藩が配置されました。そのひとつ前橋藩5代藩主酒井雅楽頭忠挙が領内視察をしているとき、達磨座像に出会います。その地は前橋城の裏鬼門(忌み嫌われる南西の方角)にあたり、忠挙は災いを避けるため、ここに寺院を建て、達磨を祀ろうとしました。しかし、当時の幕府は新しい寺は認めておらず、そこで忠挙は元禄10年(1697)水戸光圀公に願い出、黄門様の帰依された中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から講じて「観音菩薩」「達磨大師」「北辰鎮宅霊符尊」をご本尊とする禅の道場「少林山鳳台院達磨禅寺」を開創しました。

享保11年(1726)水戸徳川家から「三葉葵の御紋」と「丸に水の徽章」を賜り、水戸家永世の祈願所とされました。この寺が、毎年正月6・7日にだるま市の開かれる少林山達磨寺です。

確かに現在達磨寺は高崎市にあるのですが、前橋と高崎は隣町で境界付近には利根川が流れ、達磨寺は利根川の高崎側に位置しています。が江戸時代、この地に前橋藩の飛地領があったため前橋城の裏鬼門を護る祈願所として開創されたのです。前橋と高崎のせめぎ合いは、ここから始まったといえます。

まずは総門をくぐります。平成9年10月5日開創300年を記念して建立された門で、本山である黄檗山万福寺の総門と同じ様式で造られました。中央の屋根を高くし、左右を低くしたこの形式は中国の牌楼式という様式で、漢門ともいわれます。また屋根に摩伽羅をのせているのと聯が掛けられるのも特徴です。聯には「法雨晴飛浄界曇雲番貝葉(法雨晴れやかに浄界に飛び、曇雲貝葉を番む)天界昼下長林祇樹雑栴檀(天界昼長林に下って、祇樹栴檀を雑む)とあります。

また右手にある窟門「門外已無差別路(門外已に差別の路無し)雲辺又有一重関(雲辺又た一重の関有り)をくぐると女坂からだらだら坂で上れます。今回は急勾配の石段を上る男坂を進みます。

大石段を上り大講堂と瑞雲閣を繋ぐ鐘楼をくぐって境内へ。鐘楼には「招福の鐘」が吊り下げられています。

大講堂は達磨大師を本尊にお祀りし、禅を通じて人格教育を行う道場です。黄檗鉄眼版「一切経」6671巻が収蔵されており、また高崎音楽センター設計のアントニン・レーモンドデザインのピアノ2台も納まっています。

さらに放生池から石段を上ると正面に達磨寺の本堂にあたる霊符堂があります。北辰鎮宅霊符尊と達磨大師をお祀りし、開山・東皐心越禅師椅像を安置しています。欅の権現造りという、お寺なのに神社の雰囲気もある建築様式で明治44年に再建されました。北辰鎮宅霊符尊は、天神地神、日月星辰の総帥として天の中心に位置する北斗星を神格化したもので、妙見菩薩ともいいます。か過去・現在・未来三世の運勢を主催し、吉凶禍福・家相方位を司る霊神で、善星を招来して幸福を守護し、悪星を除いて悪事災難を消滅する大威徳を具えています。また黄檗鉄眼版「大般若経」600巻を納めてあります。

霊符堂にはたくさんのだるまが納められていて押し合いへし合いしています。

左隣には昭和61年10月5日に開堂した達磨堂が建ちます。大阪吹田・大山立修氏の達磨コレクションの寄贈が縁となり、達磨大師坐像を中心に古今東西各種各様の達磨が所狭しと展示されています。群馬県出身の福田・小渕・中曽根総理大臣が選挙で使った大達磨も奉納されています。

右手下方に当山最古の建物で、創建当時の姿を今に伝える、近郊では唯一の茅葺きのお堂として知られる観音堂が建ちます。現在は十一面観世音菩薩像を本尊としてお祀りしています。

大講堂から左手奥まったところ、東隅にあるのが史蹟「洗心亭」です。ナチスドイツの迫害を避け昭和8年(1933)に来日したドイツ近代の世界的建築家、ブルーノ・ダウトが、昭和9年(1934)から高崎市出身の実業家・井上房一郎氏に招かれ、当時東京帝国大学農学博士であった佐藤寛治氏の別荘であった洗心亭という建物が少林山達磨時の境内にあり、空いていたために、ここに滞在することになりました。建物は大正時代に建てられたもので平屋で6畳と4畳半の二間で、2年3か月間ここで居を構えていました。

ブルーノ・ダウトは、日本の工芸デザインやモダニズム建築に多大なる影響を残した建築家です。桂離宮をはじめ、伊勢神宮、白川合掌造り等の日本美を再発見し、世界にその伝統美を紹介したことでも知られています。また1920年代にダウトが設計したベルリンの集合住宅群4件が2008年ユネスコの世界遺産に登録されました。

達磨寺を後にして再び鼻高橋を渡り、高崎宿を目指して中山道を歩きます。この界隈にはだるま工房が多くあります。

中山道を国道18号から右手に逸れて進みます。上豊岡の茶屋本陣は本陣がなかった高崎宿と隣の板鼻宿の間に設けられた休憩施設。平成9年まで個人の住居として使われていました。茶屋本陣を代々所有してきた飯野家では内部の改装を行ってきましたが、「上段の間」と次の間は、江戸時代のままで残っています。

中山道に沿いには、平安末期の永承6年(1051)に奥州の安倍氏鎮圧に向かった源頼義、源義家親子によって建立されたと伝わる若宮八幡神社があります。多くの武将、兵士が参拝していますが、江戸末期には新門辰五郎や乃木大将も参拝に訪れているとのこと。境内には義家腰掛石がある。

八坂神社と道標などを見ながら歩きます。中山道高崎追分の道標「下豊岡の道しるべ」は高さ198cm、幅34cm、厚さ36cmの大きさで、安山岩で作られた尖塔角柱の道しるべです。碑面の文字から草津温泉をはじめとする温泉地への案内を主な目的として作られたものと思われます。正面には榛名山、草津温泉、左側面には左中山道の文字が刻まれています。道なりに右折して5~6分で国道18号に合流し、鳥川に架かる君が代橋を渡れば高崎宿です。江戸時代には橋はなく豊岡渡場がありました。

君が代橋という名は明治11年9月明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されました。橋の袂は国道17号、18号そして国道354号が交わりいったいどこを歩けばいいのかちょっと複雑です。ここから十数分は少しだけ旧街道の雰囲気が残ります。

高崎宿は家屋830軒、人口3200人の中山道中で最大規模に分類される宿場町でした。しかしながら城下町ということで大名や公家は遠慮して泊まらず、本陣、脇本陣はなく、旅籠屋がわずか15軒で宿場町というより商業地として賑わっていました。平安末期に和田氏の居館が現在の和田町に築かれた後に鎌倉街道上道の開通で宿場となり、徳川家康の関東入府に伴い井伊直政により高崎城の築城と城下の大々的な改築がなされました。

中山道沿いのレンガ壁がきれいな建物は、明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅でした。もともとここにあった塀ではなく、大正時代に旧茂木銀行高崎支店の塀を移築したものです。現在一部を昭和49年(1974)に勝次郎が創設した(財)山田文庫の私設図書館として公開中です。ここで左折して高崎城址に向かいます。

斜め向かいの岡醤油は、天明7年(1787)近江商人の初代岡忠兵衛が、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を創業した岡直三郎商店が始まりです。明治30年(1897)に四代・宗一郎が支店の岡醤油醸造を中山道沿いのこの地で開業。醤油醸造は大間々の工場に依頼していますが、事務所は明治中期の木造二階建て瓦葺きの店舗がそのまま使用され、とかつての工場だったレンガ煙突が聳えます。中山道に面した店舗らしく屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラス使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物です。映画のロケ地としても何度も使われています。

この辺りから少し緩い坂になり両側にお寺が建立されています。鳥川と碓氷川による河岸段丘の間を横切る中山道の、崖の上の両側に長松寺と恵徳寺を配したのは城下を防御するためでした。番所は恵徳寺の門前より坂を下りて南側に設置され、城下上(京方面)の入り口門で、中山道の重要な監視哨でした。元は長松寺入り口の西隣に建設されましたが、宝永4年(1707)に城主の都合により反対側のこの場所へ移設されました。

赤坂山長松寺の創建は戦国時代の永正4年(1507)とされ、中興の虎谷春喜師をもって開山としています。山号の赤坂山の「赤坂」の地名は古く、現在の高崎の名前が生まれる以前には、高崎全体の名前が赤坂だったこともあり、平安時代の中頃にはすでにこの名があったとされます。本尊は釈迦牟尼如来ですが、他に鎌倉幕府の御家人で初代侍所別当だった和田義盛の持仏とされる薬師如来像を安置しています。

本堂には幕府の御用絵師を務めた狩野派の絵師「狩野探雲」による涅槃図の掛軸が架かり、本堂には墨絵の龍の天井画、本堂向拝の天井には天女の絵が描かれています。この寺の庫裡は江戸時代中期の享保15年(1730)頃、高崎城本丸の改築に伴い不要となった城内建物の一部を当地に移築し手を加えて拡げたものです。その中の書院は江戸幕府3代将軍徳川家光の弟、忠長が切腹した部屋と伝わります。忠長は二代将軍・秀忠及び妻の江姫に寵愛され幼少期に家光と徳川家の後継を争うが、春日局の直訴により、家康が家光を後継と定めました。成人後に駿河55万石を治め、駿河大納言と称されますが、改易、高崎藩に幽閉され、自刃しました。享年28歳で大信寺に墓所や遺品が保管されています。

向かいの恵徳寺は、天正年間(1573~1592)井伊直政公が、伯母である景徳院宗貞尼菩薩の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山景徳院と号したのが始まりです。慶長3年(1598)井伊直政公が和田城入城の折に、この寺を城北榎森に移し、松隆東向院山景徳寺と改めました。参道の入口に『高崎』の由来が説明」されています。景徳寺を開山した大光普照禅師は直政公の信任厚く、ある時「和田の名称を松崎と変えたいが」の問いに「松は枯れるが高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」と進言。直政多いに喜び『高崎』と命名したと云う。後の城主酒井家次公の時慶長9年(1604)~元和2年(1606)の間に現在地赤坂に移っています。

隣接して高崎神社と大黒神社が鎮座します。高崎神社はもとは熊野神社といい、寛元元年(1243)、当時の和田城主・和田小太郎正信が相模国三浦郡の熊野権現を城内に勧請したのが始まりです。その後慶長3年(1598)井伊直政が和田城の跡に高崎城を築城する際、現在地に遷座し、高崎総鎮守としました。伊邪那美の神を主神とし、その他に速玉男神と事解男神を合祀しています。

境内にある美保大国神社は、昭和4年(1929)折からの経済不況を受けて、市内の商工業者が事代主神(ゑびす様)を迎えて商工業の振興を図りたいと島根県の美保神社から分霊を勧請し、大国主神(大黒様)と共に祀って美保大国神社としたのが始まりです。

明治13年の大火により町家の大半が焼失した本町地区は、防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きの町家が増えました。山田屋(旧山源漆器店)は、北側の通りに向かって熨斗瓦積みの煉瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に備え付けられた軸吊り形式の防火扉、そしてなによりも漆喰で仕上げられた黒く塗られた外壁はとても風情があります。

ここ本町3丁目交差点で右折し中山道はJR高崎駅方向へ。田町交差点から東へ100mほど逸れたところに大信寺があります。江戸幕府3代将軍徳川家光の弟・駿河大納言忠長の墓所です。

中山道に戻り、駅前通りとのあら町交差点に新町の諏訪神社が建ちます。文化11年(1814)に火災に遭った社殿を再建したもので、土蔵のような総漆喰の造りで彫刻、なまこ壁などが見事です。

近くには創業明治末期、建物は昭和7年築で駅前旅館として現役の豊田屋旅館が落ち着いた風情をもたらしています。

丁度訪れた日は「高崎山車まつり」で写真は旭町の山車。台の上には鍾馗様が据えられています。

少林山達磨寺を出発し、中山道に沿って歩き街道の風景を楽しむ旅もJR高崎駅で終わります。ここからは高崎城址を楽しみます。

 

 

 

 

 

 

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