謙信の遺風残る城下町米沢で上杉家ゆかりの史跡をめぐる歴史旅

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戦国の英雄、伊達・上杉両家にゆかりの深い、城下町として栄えた山形県・米沢市。鎌倉時代に鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広が領有したと伝えられ、その後、伊達氏が212年間、上杉氏が272年間治めました。現在に残る城下町の形成は、上杉景勝の重臣直江兼続が築きました。兼続は城下町の拡張整備を行い、家臣団や町人町の屋敷割を指揮し、その城下町の整備の影響は現在の米沢のまちも色濃く残っています。伊達政宗生誕の地であり、上杉文化を今に伝承する歴史と伝統の上杉の城下町を散策します。

米沢散策のスタートは米沢駅からとレンタサイクルにまたがり、やはり上杉家に敬意を表して上杉家代々の居城であった米沢城址から始めたい。濠と土塁を保存して、美しく整備された松が岬公園の一帯がかつての本丸跡です。上杉神社の参道前から堀と土塁が定規で引いたような直線で延びていて、堀に架かる橋の左右に上杉謙信の旗印「毘」と「龍」の旗が風に揺らいでいます。

石造りの眼鏡橋で濠を渡ると、そこは上杉神社の参道。石橋の名は舞鶴橋といい、上杉の米沢城が舞鶴城と呼ばれていたことに因んで命名されました。橋の長さは5m、幅は7m、建設は明治19年(1886)といいます。米沢城は平地に築かれた平城で、本丸・二の丸・三の丸が同心円状に配置されています。特徴は、東北には石垣のない城が多いのですが、この城も区画に石垣は組まれず土塁だけで囲まれています。天守も最初から築かれず、代わりに本丸に天守相当の三階櫓が2基ありました。舞鶴城そのものは、米沢藩が戊辰戦争の際に奥羽列藩同盟の中心となって官軍と戦火を交えたため、明治維新政府の命令で明治6年に城内の建物はすべて壊され、「城」としての面影は薄れてしまいました。

朝の清々しい空気を吸い込みながら歩いてゆくと、左手に「伊達政宗公生誕の地」と刻まれた石碑があります。米沢市街地にあるここ米沢城は伊達政宗が生まれた城です。政宗の祖父・伊達晴宗が天文17年(1548)に拠点を米沢に移し、政宗は永禄10年(1567)米沢城主伊達輝宗の嫡男として生まれ、会津の蘆名氏を滅ぼすなど東北制覇の戦いに明け暮れました。しかし時代は豊臣秀吉の天下統一へと動いていて、政宗はやむなく秀吉の軍門に下って天正19年(1591)25歳で米沢から岩出山(宮城県大崎市)へ、さらに関ヶ原の戦い後に仙台へその居を移します。

参道を挟んで向かいに立ちのは、甲冑姿の二体の銅像。上杉景勝とその重臣・「愛」の前立ての兜を抱えている直江兼続の主従の像です。伊達が去った米沢には、蒲生氏郷を経て、慶長2年(1597)に上杉景勝が会津120万石で入封し、上杉領の要となる米沢城には家老の直江兼続が城代として入りました。慶長出羽合戦を引き起こし徳川家康に敵対したために会津120万石から30万石に所領を削られた上杉景勝が、家臣とその家族ら数万人を率いて移り、その後、上杉景勝や直江兼続の居城となったことで全国的に名高い。景勝は米沢城を拡張、改修して城下町米沢の基礎を築き、江戸時代には米沢藩の藩庁として栄えました。こうして明治維新まで米沢を納めました。

後方には藩祖上杉謙信像もおかれています。投身大のブロンズ像で昭和49年(1974)に建立されたもの。右手に采配を持ち、春日山城の方角を見つめて鎮座しています。天正6年(1578)に越後で没した謙信の遺骸は、甲冑を着せ、漆固めにして密閉された甕の中に納められ、越後から会津、会津から米沢へと上杉家が移るたびに慎重に運ばれました。

藩祖上杉謙信を祀る上杉神社は明治9年(1876)の建立。米沢城址旧本丸を整備した松が岬公園の中心に位置し、かつての奥御殿の跡地です。現在の社殿は大正8年(1919)の大火で罹災し、4年後に再建されたものです。とはいえ、すでに100年風雪に晒されて風格は十分、特に本殿が置かれた神域に入ると、公園の賑わいが嘘のように、ピンと張りつめた静謐があります。

歴代藩主のなかには逼迫した財政を立て直した名君の米沢藩第9代藩主上杉鷹山がいます。松が岬公園のすぐ横にある松岬神社はその上杉鷹山を祀っています。明治35年(1902)謙信と共に祀られていた鷹山を移して祭神とした創建された神社で、後に2代景勝が合祀されました。ほかにも米沢の城下町の基礎を築いた直江兼続や鷹山の儒学の師であった細井平洲、鷹山の両腕となって藩政改革に尽くした竹俣当綱、莅戸善政らも祀られています。

上杉鷹山(名は治憲。鷹山は号)は高鍋藩主秋月家の次男として宝暦元年(1751)に生まれ、10歳で米沢上杉家の養嗣子となり、17歳の若さで養父重定から家督を継いでいます。藩主となった鷹山は大倹約令を発する一方、竹俣当綱や莅戸善政といった藩内の改革派を登用して殖産興業による実質石高の増大に取り組みました。新田の開発、桑や楮、漆の大規模な栽培、養蚕と製糸、織物といった新たな産業の振興が藩の主導で行われることになったのです。鷹山は72歳と長寿を全うしましたが、35歳で家督を先代の実子治広に譲って、改革に専念したとのことです。松岬神社に隣接する公園には、ひと際目を引く鷹山の座像が鎮座しています。

戦国の英雄でもなく、幕末維新の大立者でもなくて奥羽の山国の一城主だった鷹山が、高い名声を得ているのは、今最も輝いている言葉「改革」の先駆者だからです。それに鷹山には後世に上質の支持者がいました。明治時代には内村鑑三が、「代表的日本人」の中でいち早く彼を採り上げていましたし、戦後にはJ・F・ケネディが、日本の政治家で尊敬するのは誰かという日本人記者団の質問に、YOZAN・UESUGIであると渋く答えて株を上げました。最近では時代劇の名手藤沢周平が、遺作『漆の実のみのる国』で藩の貧窮と格闘する鷹山の半生を描いています。写真は上杉神社境内に立つ鷹山像。藩政の改革に生涯を捧げた人物らしいポーズです。

舞鶴橋の袂から見て、松岬神社と反対の方角には上杉記念館(旧上杉伯爵邸)があります。上杉家14代当主茂憲伯爵邸として、明治29年(1896)に建築。米沢城二の丸跡にあり、建造時には敷地約5000坪、建坪530坪もある大邸宅で、設計は中條精一郎、施工は名棟梁江部栄蔵、鶴鳴館と称されました。大正8年(1919)の大火で類焼し、大正13年(1924)5月に再建されました。

東京の浜離宮に倣った庭園の中に、銅板葺き、入母屋檜造りの邸宅が建っています。現在は池のある美しい庭を望む座敷や広間で、米沢の郷土料理を紹介する優雅な食事処となっていて、鷹山が飢饉への備えとして提唱した「かてもの」料理が食べられます。「かてもの」は主食にまぜて炊き、空腹を癒すものを意味する言葉で、鷹山は天明の大飢饉以来、藩医や本草家に命じて研究をすすめ、82種類もの植物の調理法や貯蔵法をレシピに残しました。その代表的なものが薬膳料理に炊き込みご飯や粥となって登場するウコギですが米沢牛の料理もあるのでどちらも楽しめます。

向かいをお濠に沿って歩くと、鮮やかな朱塗りの橋が目を引きます。米沢城本丸跡の南側堀に架かる太鼓橋で菱門橋といいます。橋名は、江戸時代は本丸内の藩主が住んだ御殿からの南出入口にあたり、その通行は厳重に取り締まったことから「秘し門」と称されたことに由来します。

菱門橋を渡った左手小高い丘には春日神社が鎮座し、春日四柱大神を祀ります。戦国時代の上杉家は代々春日社を守り神として戦い続け、藩主の移封とともに会津から米沢に移ってきました。米沢藩主家上杉氏の氏神で、林泉寺の鎮守でありました。

国道121号を西へ進むと白地に黒々と「毘」と「龍」を染め抜いた旗が翻る上杉家御廟所は、城下町米沢の聖域で、地元の人は「御霊屋(おたまや)」と呼ぶ。2代景勝の没後に歴代藩主の墓所となり、その後左右交互に藩主歴代の廟が建てられました。廟所の周囲にはぐるりと堀が巡らされ、廟将を置いて日夜、警護に当たらせたといいます。

樹齢400年の蒼古とした杉木立に見守られるように囲まれた廟所の中央には、初代謙信の廟が置かれれいます。天正6年(1578)に越後・春日山城で生涯を閉じた謙信の遺骸は、上杉家と共に会津、米沢と移り、明治9年(1876)に御廟所に遺骸が遷されたのに伴い、参道も改変され現在の姿になっています。

中央に謙信、その左に偶数、右に奇数の代の藩主と12代斉定までの祠堂が並んでいます。鷹山が考案した先代重定以降の祠堂は、それ以前に比べるとぐっと簡素な造りになっています。墓にさえ鷹山以前、鷹山以後の違いがあるのです。

上杉家廟所に隣接する八海山法音寺は上杉家歴代の菩提寺で真言宗豊山派のお寺です。景勝公より米沢城二の丸に建立され、米沢城本丸に建てられた謙信公の御遺骸を祀る御堂に勤仕する真言宗二十一ヵ寺の筆頭寺院となって、米沢藩主上杉家の菩提寺となりました。明治3年(1870)藩命によりこの地に移りました。堂内には上杉家歴代の位牌があり、上杉謙信が厚く信仰した毘沙門天像(泥足毘沙門天)等も安置されています。戦を前にして謙信が夜を徹して祈ったところ、翌朝、外から護摩壇の上に向かって点々と足跡が残っていたことから、戦場まで加勢に出向かれたという伝説を持つ。さらに謙信公崇拝の秘仏の善光寺如来三尊像と付属の仏具を安置している。その来歴は弘治元年(1555)の第二回川中島合戦の際、上杉謙信は長野善光寺の仏像・仏具を越語に持ち帰り、その後上杉家の移封に伴って米沢に移りました。米沢城本丸の謙信遺骸を祀る御堂に安置され、維新後は上杉家で保持、昭和9年(1934)に上杉家から法音寺に納められました。仏具の金銅五鈷鈴(二個)や金銅五鈷杵には貞応3年(1224)や仁治2年(1241)といった鎌倉時代の年号や「善光寺」の銘が刻まれています。

米沢城址の南、堀立川に架かる桶清水橋近くに春日山林泉寺があります。越後から当地へと移された上杉家(長尾家)の菩提寺、家祖謙信が幼い頃に学んだ寺でもあります。杉木立の間に、それぞれの供養塔がゆったりと立っています。景勝の生母・綾御前(謙信の姉)や4代(三代藩主)綱勝夫人の媛姫といった上杉家の奥方・子女の他、直江兼続夫妻や重臣らの墓所も並んでいます。景勝に嫁いだ武田信玄の四女、菊姫の墓、その菊姫を頼って来た弟六男信清の墓もあり、戦国の乱世を経て結ばれた縁を偲ばせてくれます。

堀立川を挟んで反対側びは明治43年に東京、大阪、京都、名古屋、熊本、仙台に続いて全国7番目の高等工業学校として建てられた旧山形高等学校本館があります。ルネサンス様式を基調とした木造2階建で北を正面とします。中央屋から左右に胴屋が連なり、その両端に短い翼屋を付けた形になっています。

正面・幅・全長94mに及ぶ大規模なもので、屋根は寄棟造り、中央屋正面には両端に小塔形の角屋が突き出し、中央玄関には車寄せがついています。外壁は下見板張りで、屋根は中央屋がスレート葺、胴屋と翼屋は桟瓦葺です。現在の米沢駅舎のモデルともなっています。

米沢市街地のほぼ中央に位置する米沢城址を中心に半径2km弱の中に上杉氏ゆかりの歴史建造物があり、コンパクトに上杉の城下町が満喫できます。米沢のグルメといえば米沢牛であり、市内に食事処が点在しています。「西の松阪、東の米沢」とまで言わしめる高級銘柄牛“米沢牛”、その歴史は古く、明治維新後にまで遡ります。上杉鷹山が再興した藩校「興譲館」(現在の米沢興譲館高校)に明治4年(1871)教師として赴任した英国人のチャールズ・ヘンリー・ダラズは、米沢牛のおいしさに驚嘆します。米沢牛の味を知ったダラスは、明治8年、任期を終えた際に横浜の居留地へ米沢牛を一頭持ち帰り、友人らに提供します。その美味さが評判となり、米沢牛の名前が広く知られるようになったといいます。ぜひ米沢で賞味してみてください。

 

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