信州戸隠は鋸歯のような威風を漂わせる戸隠連峰の東山麓に点々と連なる昔ながらの小さな山里。平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』で四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生門、讃岐の志度の道場とこそ聞け・・・と謡われ、『梁塵秘抄(治承2年1178)』に平安時代にはすでに天下に知られた修験の名所となっていたと記されていたように、古くから修験道として信仰を集め、奥社周辺には今なお荘厳な雰囲気が漂っています。戸隠は「天の岩戸開き」の勇壮な伝説が残る神話のふる里として有名で、古典『旧事紀』によると、第八代孝元天皇5年(前210)に天手力雄命が奥社に鎮まられたといいます。JR東日本「大人の休日倶楽部」CM 「戸隠神社 奥社参道杉並木」で撮影され「この先には あの天岩戸をあけた 怪力の神様がいるそうです。なんだか 力が湧いてきた気がするのは そんな話を聞いたせいかしら」と吉永小百合さんも歩いた戸隠神社奥社参道を歩きます。
中社から約2km、旧参道が県道36号と交差するあたりが奥社参道口。少し入ったところにある戸隠山を望む大鳥居から、広い参道がまっすぐのびます。鳥居前の茶屋は明治時代にはすでに営業を行っていたと伝わり、茶屋の脇の小川は、鳥居前を流れる「鳥居川」といい、夏も冷たい石清水には岩魚や山椒魚が棲んでいます。戸隠中社地域ではなく、北側の信濃町方向に流れていくため「逆川」とも呼ばれています。
鳥居前の石橋を渡ると馬を下りて歩くようにと、「下馬碑」が立ち、大鳥居の先の参道には鬱蒼と繁るミズナラなど自然林の大木が立ち並びます。奥社参道には、木々の中に凛として立つ鳥居をくぐって入ります。森の中に分け入っていくような雰囲気がありながら、道はよく整備されています。これより参道は1kmほど歩いて随神門に至ります。
大鳥居をくぐって、すぐ左手に一龕龍王祀があります。近くの黒姫山登山道にある種池という池の主「
一龕龍王」を祀った祠です。この水を汲んで雨乞いすると必ず雨が降るという言い伝えがあります。
奥社参道は約2キロ、中程には現存する戸隠神社の建造物で最も古い宝永7年(1710)建造の萱葺きの赤い随神門があります。随神門は三間一戸の入母屋造りの八脚門で、屋根にも草木が生え、森の神が宿っていそうな神秘的な門です。左右の邪悪なものの侵入を防ぐための随神が置かれています。あまとみトレイルはここから右に折れ、戸隠キャンプ場に向かいます。
随神門はかつて仁王像が祀られていた仁王門であり、明治時代の神仏分離によってこの仁王像は善光寺の隣にある覚慶寺に移され新たに随神が置かれました。左が櫛石窓ノ神、右が豊石窓ノ神で、天照大御神の孫である邇邇藝命が、葦原中国を治めるために、高天原から日向国の高千穂峰へ天降った時にお供した神様と言い伝えられています。
随神門の手前に高妻山神鏡碑があります。高妻山には、昔、修験道の登山道である「大澤通り」があり、ここがその入口と言われています。文久2年(1862)に仏心という僧が高妻山に入山し、青銅でできた重さ40kg以上ある神鏡を奉納したと云われています。この神鏡は今でも高妻山の山頂にあるのですが、この碑は神鏡を山頂に無事奉納できた記念として作られたとされています。
門の先は天然記念物にも指定されている戸隠で最も有名なスポットである杉並木が続きますが、樹齢約400年を超える80本以上の杉が700mの参道の両脇に見ることができます。
江戸時代に徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜った戸隠神社。この杉並木は江戸時代初期に戸隠神社の威厳を高めるために植樹(中社の三本杉を挿し木によって増やして植樹した可能性があるとのこと)されたものと云われています。また周囲の社は寛永20年(1643)に伐採が禁じられたため、400年たった現在において、奥社を守るようにしてそびえ立つ杉並木は神々しい空気を漂わせていて、まさに戸隠神社の威厳を感じさせてくれます。
奥社までの参道は舗装された道ではありません。途中杉並木のむこう左側には、平安期から明治まで続いた本院十二坊のなごりの石積みなどが残ります。川中島合戦以前は19坊が堂を構え並んでいましたが、文禄3年(1954)に帰山し、上杉景勝が荒廃した諸堂を復興するも12坊に減少したのです。
2010年JR東日本の「大人の休日倶楽部」のCMで吉永小百合さんが入った大きなうろのある杉が、CM放送後、吉永小百合さんに因んで「小百合杉」と呼ばれるようになりましたが、現在は杉の保護のために、うろの中には入れないようにしめ縄が張られています。
しばらく進むと法燈国師母公祈願観音堂跡と宝篋印塔へと続く入口の案内が左手に見えてきます。
参道から200mほど入ると観音堂跡と宝篋印塔が現れます。信州松本で生まれ、戸隠山で修行した鎌倉時代の臨済宗の高僧法燈国師の母の供養塔で、国師は母が観音堂に祈願し授かった子だといいます。法燈国師は西方寺(現興国寺)を開山した僧で、大豆と大麦の麹に塩を加え、これに細かく刻んだ茄子、瓜などを入れ密閉して熟成させた金山寺味噌を日本にもたらした僧として有名です。
杉並木が終わった参道の右側奥、木橋を渡った先にポッカリと空いた草原空間があります。承徳2年(1098)に建てられたと伝わる講堂跡で、残された60個ほどの礎石から、間口13間半(24.3m)奥行7間半(約13.5m)と広大な建物に、多くの修験者が集い隆盛を極めていたことがわかります。
緩やかな参道は後半500mくらいが坂道と石段になります。
左手に飯綱大権現を祀った飯綱社が見えてきます。飯綱大権現は戸隠山の手前にある飯綱山の神なのですが、古くから戸隠山の鎮守としてここに祀られています。
ひっそり佇む石仏等を眺めながら急な石段を登り詰めると、もう限界と思える瞬間奥社と九頭龍社が並ぶ社地に辿り着きます。
奥社のすぐ手前の右手に小さな滝があり、その下に八水神が祀られています。
標高1350mの地、戸隠山の大岩壁直下に建つ「奥社」は戸隠神社の本社で、嘉祥2年(849)学問行者が道場として開いた戸隠寺が起源と伝わります。古くは戸隠三十三窟の岩窟の中にあり、第一本窟が奥社本殿、第二十四龍窟が九頭龍社だったといいます。断崖絶壁の直下第一窟の前に建つ社殿に、鋸歯のような戸隠連峰の威容が目の前に迫り、神の里にいることを感じさせます。
天の岩戸を開き、戸隠の地に投げやった天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀り、五穀豊穣、開運、心願成就を祈ります。奥社の社務所に籠る役は、本院燈明役といわれ、かつては衆徒(寺の僧徒)が2年交替でつとめ、事故の起きない限り下山は許されないほど重要な勤めとされてきました。奥社社殿は幾度となく雪崩で崩壊してきたため、現社殿は昭和54年(1979)雪崩に負けないようにコンクリート造りで再建されています。
戸隠神社奥社本殿左手に鎮座するのが、縁起によると嘉祥2年(849)学問行者によって開山されたといい、この地の沼に棲み、学問行者入山以前から戸隠の地主神として信仰されてきた九頭龍大神を祀っている「九頭龍社」です。社殿奥から右手に向かって長い渡り廊下があり、その奥にある龍窟(第二十四窟)につながっています。
現在毎日神饌所で焚いたご飯を本殿に供えるという儀式が行われ、戸隠信仰の古態を伝えています。龍神は、命の源の水を司る水の神であり、水の恵みに感謝し、五穀豊穣、心願成就を祈ります。また「歯なし」から「なし」を取ると「歯」が残ることから、九頭龍の好物である「梨」をお供えして、自分は一生、梨を食べないと誓うと、歯の病が治るという言い伝えから、虫歯にもご利益があると云われています。
ここで戸隠参拝古道は終着になり、帰路は参道を戻ることになりますが、戸隠森林植物園や鏡池まで足を延ばしてみてはどうでしょう。奥社参拝後、随神門まで戻ってきたら、門をくぐってすぐ狛犬の少し手前を右手に曲がります。参道を曲がったら、案内板等があるので奥の道を道なりに進みます。
途中分岐点が2カ所ありますが、2カ所目を参道口の方向に左折すると戸隠森林植物園へ向かうことになります。
「戸隠森林植物園」は奥社参道に隣接する散策用の遊歩道が整備された約70haもの広さの植物園。敷地内にカラマツや杉、シラカバなど200種類の樹木の林の中に「植物観察園」「モミの木園地」「水ばしょう園」などを散策歩道で結んでいて、70種類の高山植物や100種類以上の野鳥が生息し、観察できます。野ウサギやリス、ムササビなどの動物たちに出会えることも。初夏のこの日は散策路の両側のコバイケイソウ(小梅蕙草)が咲き誇っていました。
新緑が美しい春から錦絵に染まる紅葉の秋はいわずもがな、雪上観察会が催される冬場まで、一年を通して素晴らしい自然に触れ合い、気軽に森林浴やバードウォッチングを楽しめる。写真は小川の小径の柵柱に留まるミソサザイ。
戸隠森林植物園内にある池が「みどりが池」でカイツブリやカモの親子といった鳥が気持ちよく泳いでいる姿をみることができます。このみどりが池、鏡池、小鳥ヶ池をめぐる池めぐりコースも人気で戸隠奥社参拝道と組み合わせるといいウォーキングコースになります。
2カ所の分岐点をいずれも道標に従って鏡池方向に30分ほどまっすぐ進むと一対の石像が向かい合って置かれているのが見えてきます。
さらに道なりに歩くとすぐ、伏見稲荷を小ぶりにしたような朱色の鳥居が連なり天命稲荷が見えてきます。「天命稲荷」は戸隠最後の修験者といわれる姫野公明師が建立した神社です。星を司る神様で本地は伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神とのこと。
さらに道なりに歩き、小川沿いに歩くこと10分ほどで鏡池に到着します。静寂の中、澄んだ水面に戸隠連峰を鏡のように映し出すことから名付けられた「鏡池」。昭和49年(1974)築堤で、春の芽吹き、涼風が頬に心地よく、新緑と青い空の初夏、錦織りなす紅葉の秋と、輝く季節の風景を戸隠の険しい岩肌とともに際立たせています。NHK大河ドラマ『真田丸』のオープニングでも鏡池の映像が使われていました。中社、宝光社どちらからも向かうことができます。
戸隠連峰は北の五地蔵岳から南西の西岳までの範囲を指し、鏡池から真正面に見える八方睨付近を表山、一不動以北を裏山、南西側を西岳と呼ぶのが一般的です。鏡池から西岳方面に向かい山道をゆくと、真言密教の堂宇があったという西光寺谷や摩崖仏のある不動沢へと至ります。
鏡池からは戸隠バードラインの鏡池入口まで林道を下ることもできますが、健脚な方は古道を3km、中社宮前まで下っていくこともできます。20分ほど歩いた中間地点に、女賊おまんの伝説が伝えられている硯の形をした大きな自然石「硯石」があります。平安の昔、朝廷の命で鬼女紅葉を討つべく戸隠に入った平維茂軍が、北向観音から授かった「降魔の剣」で荒倉山の紅葉を倒しました。紅葉第一の部下、女賊おまんは35人力の怪力をもって寄せ来る敵をなぎ倒し、硯石のところまで逃げ、石にたまっていた雨水で血みどろの体を洗います。硯石の水鏡に己の顔を映したおまんは、そこに鬼の風貌を見、罪の重さを悟ったといいます。以後、中社本坊「勧修院」にておまんは長い髪を落とし尼となり、亡き人々の菩提を弔ったといいます。琴や習字の習い事に励み、時にはこの場所にきて荒倉山を見、石に溜まった水を持ち帰り、習い事に使ったといいます。
さらに10分ほど、シナノザサの密生するカラマツ林をぬって歩くと目の前に清らかな水をたたえた「小鳥ヶ池」が静かに横たわっています。涼やかな風が渡る、林の中の池は、青空を背に戸隠山や緑の木々を水面に映し出す高原のオアシス。澄み切った空気、木々のざわめき、野鳥のさえずりが聞こえる池周辺は、高原散策やバードウォッチングの拠点ともなっています。
「小鳥ヶ池」から硯石を経由して、湖面に戸隠山を映す「鏡池」、そして森林植物園内の「みどりが池」へ至る池まぐりコースは一時間半のウォーキングの道程です。
中社地区まで来ると「おまんの墓」があります。紅葉狩で知られる鬼女紅葉の第一の部下おまんは、身の丈八尺、35人力の怪力と一夜のうちに数十里歩くという韋駄天走りの健脚をもって知られた女賊でした。贖罪のため戸隠山勧修院に身を寄せ、6尺有余(2m)の長い髪を落とし尼となり、亡き人々の菩提を弔った、その後神仏の力によって自分が真人間に立ち帰れたことに感謝しつつ、自ら首を落として自害しました。勧修院住職がこれを憐み、同院西南におまんの墓をつくり丁寧に弔いました。この地の祠を健脚おまんにちなみ「足軽さん」と呼び、足の弱い古戸もや、足に怪我した時など、一心に祈ると足が強くなると言い伝えられています。
中社宮前三本杉の袂、旧勧修院久山館前庭に到着します。慶長17年(1612)徳川家康は戸隠社に社領一千石の御朱印を与えました。ここに建つ「守護不入之碑」は、享保12年(1727)に戸隠別当となった乗因が建立した「山中支配領内守護不入」と刻まれた高さ約110cmの石碑です。戸隠は家康によって認知された聖地で他所でいかなる罪を犯しても、この神聖な地に入れば世俗の約束事は及ばない、諸国諸大名の警察権さえも及ばない地であると威厳を表しました。往時この碑は、本坊勧修院表門大杉の下にあり、道行く人が参拝の折77に必ず伏拝むほどの威光を誇っていました。
一之鳥居苑池から始まり、神道を通り、奥社参拝へと進む戸隠参拝古道、約12.5km。その後池巡りで3.5kmほどを歩く16kmの古道ウォークでしたが、他にも様々な楽しみ方があります。戸隠神社五社参拝の御朱印めぐり、戸隠蕎麦食べ歩き、バードウォッチングと楽しみ方様々、戸隠の自然を十分に満喫できます。