白河史跡めぐり!小峰城跡から奥州の玄関口、白河関を越える

※この記事で紹介する内容にはPR・広告が含まれています。

福島県南部、奥州の入口に位置する白河市は小峰城の城下町であり宿場町として栄えてきたところです。市街地では国道294号がほぼ奥州街道をそにままの形で受け継ぎ、町並みも古くからのカギ型の通り沿いに広がっています。旧街道を歩くと昔ながらの建物や寺社、石造物が点々と目に入り、歴史のある店も多くあります。まずは白河駅ホームからも良く見える小峰城にむかいます。

阿武隈川を天然の堀として北に臨む標高370mの小峰ヶ岡に築かれた白河小峰城は同地にある「白河関」同様、奥州と関東の境を扼する要の城でした。南北朝時代の武将、結城親朝(小峰氏祖)が暦応3年・興国元年(1340)頃に築いたのが始まりとされ、江戸幕府成立後、寛永4年(1627)に棚倉から移封され、初代白河藩主となった丹羽長重が、寛永6年(1629)から4年の歳月を費やして行った大改修により、本丸北東部に三層三階の御三階櫓を据え、石垣を多用した梯郭式の城に生まれ変わりました。城郭はほぼ五角形で、約60万㎡にも及ぶ大規模なものでした。正岡子規の紀行文「はて知らずの記」の中で駅近くの小峰城を訪ね「涼しさや むかしの人の 汗のあと」と詠んで、結城氏がこの城を建てた後、白河関が廃せられたことに思いを寄せています。

7家21代の大名が居城後、幕府直轄領となり空城になり、この城を奪い合う慶応4年(1868)の戊辰戦争「白河口の戦い」で激戦が繰り広げられ落城しました。ほとんどの建物が焼失しましたが、発掘調査や当時の絵図をもとに平成3年4(1991)に御三階櫓、平成6年(1994)には前御門がそれぞれ木造で復元され、往時の面影が蘇りました。

東北地方の城としては珍しく、本丸と二の丸を取り巻いた総石垣造りも特徴のひとつで、丘陵部の西側に本丸、その南に二の丸、東に三の丸が連なります。JR白河駅のすぐ前にあるということは、この白河駅も城内であったことになります。

駐車場に車を停め、二の丸の公園を横断するとお堀にかかる清水門から城内に入ります。右手の坂を上っていくと「前御門」とそれに連なる「御三階櫓」の雄大な姿が現れます。

前御門は表門といわれ、その名の通り本丸の正面として、裏門にあたる桜之門とともに本丸の防御を担っていた門です。構造は石垣の上に櫓を渡した「櫓門」の形式で、平層の多聞櫓と連続して構成されています。御三階櫓から前御門、多聞櫓、桜之門と、櫓と門が連続する構えの中心的な部分です。

三重櫓は、本丸の北東隅に建つ三層三階の櫓で小峰城のシンボルです。外観はそれぞれの階の半分を板張りとする「下見板張り」で耐久性が高いとされます。天守の代用の櫓で中は急な階段を上って最上階から白河市街を見渡せますが、中はとても小さいです。

清水門から左手の坂を上ると裏門にあたる虎口で奥に桜之門があります。※本丸南面の石垣

本丸の高石垣には遊び心あふれる半同心円状に石垣を斜めに積んだ「落とし積み」の石垣が見られます。

平成23年(2011)の東日本大震災で崩落した石垣も見事に平成31年(2019)春に復旧が完了しました。

小峰城から線路を挟んで南側に広がる城下町を歩きます。駅前の道が奥州街道で、古代からの幹線道・東山道が江時代に整備された道です。五街道の一つで、白河宿は東北の玄関口として栄えました。駅前から奥州街道(国道294)沿いに西へ、かつて「十軒店」と呼ばれた大鈎形のクランクの先50mほどのところに「そば処吉田屋」があります。白河藩第3代藩主松平定信が栽培を推奨したそばは、ラーメンよりも古くから続く白河の食文化です。日本4大そば処(出雲そば、信州そば、盛岡わんこそば)のひとつ白河そばは、阿武隈山系の清らかで冷たい水と寒冷な気候などそば粉と合致しおいしいそば処として知られます。

白河そばを代表するメニューが割子そば。出雲の割子そばと違い、山菜やイクラ、とろろやなめこなど、具材も小分けにされて提供されるところです。小分けのそば皿に小分けの具材を一つずつ入れて、味の違いやそばの具材のバランスを楽しみながら味わえます。本日の具材は、海苔、とろろとうずら卵、イクラと大根おろし、しいたけとなめ茸、ジュンサイの5種でした。

街道沿いには、白河でパンといえば「山田パン」といわれる地元で長く親しまれているお店。一番人気のあんバターと食パンにミルククリームたっぷりのフレンチトーストといったご当地パンを買って帰ります。

西隣の「大谷忠吉本店」は店舗の両脇に漆喰の蔵が並び、奥には空に聳えたる煉瓦造りの煙突を中心に3棟からなる酒蔵が建ちます。創業明治12年(1897)で3代当主大谷忠一郎は詩人萩原朔太郎に師事し、妹美津子は朔太郎と昭和13年(1938)に結婚し。萩原朔太郎ゆかりの地としても知られています。

さらに向こう三軒先には創業文久3年(1863)の白河藩主御用の「菓子舗玉屋」があります。看板商品は、鳥羽玉(うばたま)というこしあんを求肥で包み粉糖をまぶせた餅菓子です。名前の由来は、濡れた鳥の羽の色に似ているからということです。

下野と陸奥の国境の関、奥州三古関・常陸の勿来の関、羽前の念珠ヶ関とともにそのひとつに数えられる「白河関」は、奈良時代5世紀前半から平安時代頃に機能していた国境の関で蝦夷の南下を防ぐために建てられた砦でした。その後律令国家の衰退とともに官関の機能を失いましたが、「歌枕」として文学の世界で都人のあこがれの地となり、能因法師や西行法師、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。

古歌碑には白河の関を詠んだ歌三首を刻んでいます。                                     便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平 兼盛                               都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関     能因法師                              秋風に草木の露をはらわせて君が越ゆれば関守もなし   梶原景季

古関蹟碑は白河藩第3代藩主松平定信が、寛政12年(1800)に、この場所が白河関に間違いないとし、建立した碑です。

白河関跡を境内として関の明神、二所関明神とも呼ばれた「白河神社」は、古墳時代の315年、白河国造・鹽伊乃自直命を祀ったのが始まりとされ、古代の竪穴式住居跡といった古代の遺構が残っています。社殿は仙台藩主伊達政宗が寄進したものと伝えられ、本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋が刻まれています。

境内には源義家が後三年の役で奥州に出陣した際、幌を掛けて休息したという「幌掛の楓」や源義経が平泉を発し平家討伐の戦勝祈願をした際に源氏の旗を立てたという「旗立の桜」(このあたりを旗宿という)、戦勝を占うために弓矢を射立てたという「矢立の松」、さらに「従二位の杉」という鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆(従二位宮内卿)が、手植えし奉納したと伝えられる樹齢800年の杉の巨木があります。。

白河関といえば、俳聖・松尾芭蕉が『奥の細道』に「心許なき日かず重るままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と日記の一文に強い感動の震えを筆にし、この先の旅における芭蕉の期待が読み取れます。元禄2年(1689)4月20日(陽暦6月7日)から21日のかけて白河関を越え憧れの奥州に入ったのです。しかしここでは、曾良が「卯の花をかざしに関の晴着かな」と詠んだものの、芭蕉は一句も詠んでいません。4月22日矢吹の宿を経て須賀川本町の相楽伊左衛門(俳号・等躬)宅に辿り着き、こで芭蕉は「風流の 初やおくの 田植えうた」を詠んでいます。

県道伊王野白河線沿いの白河神社社務所の傍らに芭蕉の句碑「関守の宿を水鶏(くいな)にとはふもの」と県道沿いに「西か東か先(まず)早苗にも風の音」があるがほそ道には掲載されなかった。須賀川の等躬宅で「白河の関をどのようにして越えられましたか」と尋ねられたとき、芭蕉は「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず」と答え、古歌の聖地だからこその芭蕉の沈黙であったと考えられています。

白河の関を越えて帰路につきます。

)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おすすめの記事